学ぶとは何か 数学と歴史学の対話

第20回

手を動かす/学ぶ者の「理性」とは(伊原康隆)

2022.08.20更新

歴史学者の藤原辰史さんと数学者の伊原康隆さんによる、往復書簡の連載です。藤原さんから伊原さんへの前回の便りはこちらから。

伊原康隆>>>藤原辰史


 残暑お見舞い申し上げます。ドイツで元気にご活躍中のことと存じます。

 文系と理系の間というのも対談の主要なテーマで、紙面も今ホットですが、「学ぶとは何か」はもっと初期段階の話でもありましたね。心構えと習慣の2面からそれを眺めるとき、早くから実につけてほしいと願うのは習慣の方で、その中で「書く習慣」が如何に学力向上に必要か、のアドバイスこそ私が書き残したい第一でした。今回は、学びの初期の話に一旦もどり、数学と歴史学の対話のホットな部分は後半に回させていただきます。なお、文中の参考文献は、私のミニ書評を加えて補足ファイルに纏めてみました。あわせてご参照ください。

1 手を動かす

 まず引用したいのは(故)福井謙一先生の自伝(補足ファイル 文献F1)からです。

 量子論は物理だ、化学は個別の暗記物だ、という時代に湯川秀樹さんの著書などを必死に解読し、実際の化学反応に量子論の光を当てることに成功され、のちにノーベル化学賞も受賞された先生です。前半の数々の出会いーー自然の造形美、ファーブル『昆虫記』、化学ーーの話も含蓄豊か、中盤の「幅広く、しかし集中すべきところに如何に集中するか」の話も理系の方には特にお勧めなのですが、ここではその第2章の小項目「手で覚える」からの引用にとどめて置きます。

ところで、図書館で閲覧させてもらったそうした書物を読む時、私は関心を覚えた箇所があると必ず紙に(書き)写すことにしていた。(中略)例えば、物を書かれる人の中には、目に触れたすばらしい文章をまる写しすることで文章修行を磨かれる人もいるであろう。高名な画家も古の先輩のすぐれた絵の模写を勉強の手段とする。それと似たような勉強が自然科学を学ぶ上でも大切だ、と私は考える。

 我が意を得たり! 実は小生もある時期から「読む、すなわち書きながら」という意識で勉強してきました。まず小学校の担任の先生が国語の先生でその影響が強く、文字を書くこと自体が喜びになっていたようです。文字を覚えたての子供にはよくあることですが、それが中学以上まで続いたのが有難かった。紙と鉛筆をいつも胸ポケットに入れ、時間さえあれば目的がなくても何か書いていました。そして中学時代、異国への転校に伴って勉強についていけなくなっていたある夏休み、乱雑に書きなぐってあったノートを見て、まず丁寧に清書してみようとし始めたのがきっかけで、すっかり面白くなり、学力もぐんぐんアップしたのです。私の「(ン)夏が来ーれば思い出すー」の1コマ(3番あたりの歌詞?)。どうしてだったのでしょうか。

 中学生位になると、「考える」などということは、身体が「最後にやっと」望むことなのではないでしょうか。それは(見る、聞くの受け身だけでは始動せず)手など体を使ってみて初めて始動してくれるような気がします。そして内容を順序立てて把握する脳の作用も「手の動きの手順が導いてくれる」のだから、書く際の「丁寧さ」が肝要。すると、いちいち引っかからないために国語の基礎がまず土台、ということに気がつきます。

 そして更に上の段階で自分で選んだ勉強は、大部分、良書を通して入ってくるわけですが、必ず手元に紙と鉛筆をおき、感銘を受けたポイントを思わず書き写したくなるのでなくては...... これに尽きると思います。脳はすぐ疲れます。読み疲れてきたら本は閉じ、手の助けで復習する。先を急ぐのを嫌うという良い習慣も、それに付随して生じるでしょう。子供達がデジタル教科書で勉強する傍に紙と鉛筆があるのかも心配です。

 外国語の読書の場合、私のお勧めは(それが仕事の場合は無論別として)和訳など試みるな。その国の言葉で「こそ」この表現なのだなと感じ入り、そのまま書き写したくなってほしいです。それでこそ、その言葉、その表現、その内容が好きになる、頭で好きになる前に手が助けてくれるのだ、と思うのですが。
 
 ちなみに、二回続けて私が試みた数学由来の概念の説明も、読者の予備知識にではなく「何でも考えてやろう精神」だけに望みをかけたのですが。。。面倒でもご自分の手で書き(あるいは画き)なおしてみて下さいね。

2 地球環境問題と人間の理性について 

 藤原さんの7月のご書簡の一部に刺激され再考してみました。地球の環境破壊(公害、地球温暖化、資源問題、等)が人間の利便性追求の欲望に科学技術の進歩が応える形で進行した、という意味で「科学」が一方的加害者であったのが第一段階。被害が顕在化するにつれ大きな社会問題となり、多方面の方々の尽力で進行にブレーキもかかり始めたのが次の段階でしょう。この段階では一部の科学者たちは原因化学物質の特定、その流れ方の簡易モデルの試作、それに基づいた数値実験、等によって予測と警告を発し(informer) それなりの影響力を持ちました。ところがその警告が世間に広まるにつれ、公害元の企業の側でも科学者たちを(多分、大学等よりも恵まれた給与で)雇い、たとえば地球温暖化問題では「彼らの警告は過大評価だ」との「科学的根拠に基づく反キャンペーン」を張るようになりました (dis-informer) 。そこでは、簡易モデルが簡易さのために持つ欠点が攻撃の的にされたのです。第3段階の現代は「純粋な分析、予知、警告側の科学」と「雇われ反論家の『科学』」との攻めぎあいの時代でしょう。

 流体力学の大家で「北半球由来の分子の拡散が上空で如何に流れ流れて南極大陸上のオゾンホールの形成に繋がったのか」の解明でも知られるマッキンタイア(Michael E. McIntyre) 博士は有力な informerの一人であり、ごく最近の論説においても、地球温暖化の数学的モデルに基づく科学者たちの研究について次のような主旨で述べています(補足 文献 M1; 上記の用語 informer, dis-informer もM1からの転用です)。

なるほど数学的モデルはどれも不完全だ。二酸化炭素の巡回は、大気中での流れ、深海での流れ、海面近くの微生物を通す複雑さなど、どのモデルでも捉え切れていない。しかしモデルが提示されてこそ、それを叩き台としてモデルの改良を重ねることが出来、有用なモデルとそうでないモデルの差もだんだん見えてきているのだ。
 そして肝心な事として、モデルの不十分さのために修正を要することがその後解明したのは、実は、環境破壊への「過去の過小評価こそ要修正だった」という方向であった。dis-informerたちの主張「気象変動は長期的な太陽系の自然現象の結果の方が大きく人間の工業活動の害が過大評価されている」は(具体例を数値を挙げて)かくかくしかじかのように、誤りだったのである 

 大気流や海流など非常に大規模かつ微妙な流れの解析方法の大家が社会問題に長年取り組んだ挙句の感想ですから、説得力があります。これぞ「理性」の典型ではないでしょうか。

 次に「資源」について。石油の濫用は遠い昔の生物が太陽エネルギー等の力で固定した二酸化炭素を使い果たそうとしているわけですが、現存する藻類を養殖してそこから直接エネルギー源を取り出す開発的研究が米国などで盛んになっています。現状ではコストの理由で主力になり切れていないようですが、公害とは無縁で永続性もある資源利用方法を研究開発するのも科学の力でしょう。石油のように原油資源を求める戦争のタネにもなりにくい(ルース・カッシンガー 補足 文献K1)。

 ところで藤原さんの7月のご書簡の中(最後から2つ目の文節)に次のくだりがありました。私の6月書簡での、ランドマークとは? にお答えいただいた中の一節です (2重カッコはイハラ)。

人間が太陽光と地球と切り離すことのできない生命体であることを忘れて『理性が暴走』すると、公害や環境破壊をもたらします。『生命の根源が我々に呼びかけ、誘う基本的欲求』と、知識の蓄積と精神の涵養が世界を前進させるという理性のはたらきの綱引き状態の中で、私たちは足元をフラフラさせながら、まるでソフトクリームのようにぐるぐると歴史をあゆんできた、ということを、伊原さんのお手紙から連想しました。が、果たしてこれでいいのか、自信はありませんし、繰り返しますが、歴史の動きはもっと複雑です

 非常に興味深いご説明をいただいた中でここだけは筆の滑りか? 引用してあれこれいうのはどうだろう、と迷いもしたのですが、文系の何人かの方々から聞こえていた(理への差別の)声と何となく語調が符号しているようにも感じましたので、異分野間の対談では避けるべきではなかろうと考え、正面から焦点を当てさせていただきます。 

 『理性が暴走』の響きに 私は不協和音を感じました。理性と暴走は意味からして相容れない。そして「暴走」が与える強すぎる響きが、いわば基本音の一つである「理性」の位置を不安定に感じさせ、「理性」の本来の意味への共通の信頼感を危うくしている、と。政治批判なら「○○の暴走」といった不協和音こそが有効な鉾先になるのだと思いますが、藤原さん、今は学ぶとはなにかを落ち着いて考えたい時ですので、ごめんなさい。見てきたように、暴走するのは商業主義とそれに保護されたdis-informer側であり、理性は informer 側にあって暴走を止める役割のほうを指すべきでしょう? 

 また、『生命の根源が我々に呼びかけ、誘う基本的欲求』には「楽に移動したい」(資源濫用への動機)も含まれていないのか吟味を要するでしょう。地球規模の現象の原因の把握は、離れた地域での日常感覚からは決して得られない、理性の力を借りてこそ出来るのではないか。歴史学の独立した研究が歴史の歪曲の防波堤と期待されると同様、理学の独立した研究は環境破壊の防波堤の役割も担っているでしょう。環境破壊には人文科学者、自然科学者が補完し合って当たらないといけないし、研究資金的に不利なのは informer 側の科学者も同じなのですから、もし「科学者」と一括りにして反目する方がおられたら藤原さんに是非とも弁護していただきたいと願っております。

3 単純化と複雑性の狭間 

 地球温暖化問題への数学的モデルの研究の歴史は、モデルを見る外部の反応としてどれはOKでどれがXかをも教えてくれます。

  そんな単純ではないよ、〇〇だから。。。   (OK、大歓迎!)
  だから「この」モデルはまだ不十分    (これもOK、その通りでしょう)
  だから数学的モデルなんてすべてダメ      (X 短絡的)

次のモデルのための踏み台になりうるモデルが役にたつモデル。初期に役に立たないモデルばかり見せられた気象問題の専門家はうんざりして全般的に否定的になりがちという話も聞きました。見たように、現在の認識はそうでないということ。 
 
 文と理の協力にはこの認識の共有も欠かせないと思うようになりました。

 さて、ここ2ヶ月分のご書簡から歴史学の考え方についてさらに系統的に学ばせていただくことができ有難く思っています。たとえば近代ドイツの3つの時代における3つの指標の関連性のお話も、捉え方がとても新鮮に感じられ、これ自体非常に面白かった。また数学由来の概念をいち早く取り込んでいただく姿勢も嬉しいです。ただし、タイトルにも入れていただいた「群」については藤原さんの解釈(失礼ながらこれは早刈り?)が理解できませんでしたので、以下、コメントさせていただきます。

4 群は動作の集まり

 私は7月の書簡で、構造体の回転群を典型例として、数学で常用される概念「群」について説明を試みました。それは、広げる、回す、切り口を十分沢山見つける、という問題解決方法の(方程式論の場合の)説明の一コマとしてでした。

 繰り返しになりますが、ある構造体で生じた問題を解くには、まず構造を「問題の解がその中に含まれるところまで」広げるのですが、一つの解だけでなく全部の解が含まれるところまで広げる必要がある、というのがガロアの認識でした。その場合、広げた構造体の回転群は十分大きくなり、当初の問題が(与えられた方法で)解けるかどうかはその回転群の「群としての構造」をみればわかる、というガロア理論のお話をしたわけです。群は回転(自己同型射)という動作の集まりですから「動的なもの」、日常用語の「グループ分け」とは関係ありません。

 藤原さんが今月早速「群」を引用して下さったのですが、ご説明からでは、どれが群なのか見当がつきません。グループ分けのおつもりだったのかな?

 以前、われわれが招待して京大にこられたドイツの友人が、真夏のゼミで話をされたときちょっとした勘違いを指摘されたらシャツを開いてハタハタ、そして片言の日本語で「お暑いですねー」と皆を笑わせてくれたことを懐かしく思い出します。それに限らずユーモアたっぷりで、合唱にも一緒に参加してくれました。

 ではどうぞ程よい夏休みをお過ごしください。

藤原辰史/伊原康隆

藤原辰史/伊原康隆
(ふじはら・たつし/いはら・やすたか)

藤原辰史(ふじはら・たつし)
1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞、『分解の哲学』でサントリー学芸賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』『農の原理の史的研究』ほか著書多数。

伊原康隆(いはら・やすたか)
1938年東京生まれ。理学博士。東京大学名誉教授。京都大学名誉教授。1998年日本学士院賞。東京大学数物系大学院修士課程修了後、勤務先の東京大学理学部(1990年まで)と京都大学数理解析研究所(2002年まで)を本拠地に、欧米の諸大学を主な中期滞在先に、数学(おもに整数論)の研究と教育に携わってきた。著書に『志学数学――研究の諸段階 発表の工夫』(丸善出版)、『とまどった生徒にゆとりのあった先生方――遊び心から本当の勉強へ』(三省堂書店/創英社)など。最新刊は『文化の土壌に自立の根』(三省堂書店/創英社)。

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