ピアノ馬

第8回

ひとひの21球(下)

2023.03.06更新

 ギプスがはずれてのカムバック登板は、11月27日のリーグ戦だった。初回に味方打線から3点をプレゼントされ、楽に試合に入れたひとひは、相手、東山泉打線を3回までパーフェクト、5回をノーヒットノーランに抑え、結果、5ー2のスコアで完全復活の勝利をあげた。

 そうして、いよいよ最終登板の日、12月4日。リーグ戦3位をかけたダブルヘッダー。

 一試合目、渉成雅戦のマウンド上には、もちろん背番号18がのぼった。グラウンドには、ミシマ社のひとひ応援団のみなさん、2歳からひとひが通う「ツバクロすっぽん食堂」の、菅原さんの顔もあった。

 初回の立ちあがり。監督は「あれ、ひとひらしくないな」と思ったそうだ。先頭バッターに四球。次打者はピッチャーフライに打ちとるも、三番にセンター前へ返され、エラーもからんで1アウト2・3塁。ここで、ふたつめの四球の際、パスボールで1点。サードゴロの間に2点目。さらにサードのエラーから3点目を失った。
 1回表、1ヒット、2四球、2エラーで、3失点。ベンチに戻ったひとひは黙って水筒のふたをあけ、目をつむったまま一気に麦茶をあおった。

 2回、3回、4回、5回と、味方打線は、バントや走塁のミスを重ねつつ、なんとか1点をもぎとる。いっぽうひとひは、本来のペースとはいえないまでも、粘りのピッチングをつづけ、2回、3回、4回、5回と、ノーヒットで押さえる。

 6回表、錦林ジュニア打線は無得点に終わり、最終スコアは1ー3。ひとひはひとりで投げ抜き、打者24人に対し、打たれたヒットは初回の1本のみ。が、しかし、負けは負けだ。脱帽し、グラウンドに礼をしながら、ひとひは珍しく、顔が青ざめるくらい悔しそうだった。

 最後の登板で、勝ちたかった。チームメイトとグータッチで笑い合いたかった。気持ちはじゅうぶん伝わる。けれどもチームには、あと一試合残っている。

 いよいよ今シーズンの、というか、このチームでの最終戦。ダブルヘッダー二試合目の相手は、チームのライバルといってもいい御所南クラブ。先発ピッチャーは、ゆら。ひとひは6番ファーストで出場する。

 1回表、錦林ジュニアの攻撃は、ランナーひとり置いて、4番のゆらがセンターオーバーのホームランを放ち、2点先取。

 しかし2回裏、エラー、四球のあと2塁打を打たれ、ワイルドピッチなど守備の乱れもあって3点を失う。

 3回表は、2・3塁までランナーを進めるものの、あと一本のヒットが出ない。

 3回裏、ランナー二塁に置いて、レフトオーバーの3塁打をかっ飛ばされ、さらに四球、ワイルドピッチが重なり、2点を失う。

 スコアはこれで、2ー5。4回表の攻撃も無得点に終わり、その裏、錦林ジュニアの選手たちが、それぞれの守備位置に散らばっていこうかというそのとき、なんだかきらきら輝くものが、ベンチ横にたたずむぼくのそばへ近づいてきた。ひとひの顔だった。

「おとーさん!」
 息を弾ませながらひとひはいった。
「ぴっぴ、いまから投げんで!」

 背番号18が、大きく足を踏みだす。自分の居場所をたしかめるような足どりで、マウンドにあがる。

 ベンチから拍手が湧いた。御所南のベンチからも「お、でてきた」「錦ジュの左や」とざわめき声があがった。つい一時間前、まる一試合投げきったひとひを、監督はふたたび、3点ビハインドのリリーフとして、マウンドに送ったのだ。

 4回裏、ひとりめは、三球三振。ふたりめは初球をセカンドゴロ、次打者も初球をファーストゴロ。なんと、たった5球で三者凡退に切ってとった。ベンチに駆け戻りながら、チームメイトとグータッチをかわす、笑顔の18番。

 グラウンドの空気は一変していた。

 5回の表、2塁にランナーを置いてホームランが飛びだし、4ー5。さらにヒット、四球。ランナー1・2塁で、サードの後ろにポテンヒット。これで、5ー5の同点。

 5回裏のマウンド上、練習球を投げながら、背番号18はいったい、なにを考えていただろう。監督の信頼。チームメイトの笑顔。サヨナラ負けの恐怖。

 たぶん、どれも不正解。おそらくは、なんにも考えていなかった。ただキャッチャーを見つめ、ただ腕を振りおろし、握りしめたボールを、16メートル先のミットへ、ただ投げこむ。相手チームの打順も、点差も、勝敗すら頭になく、自分にできること、やるべきことを、ただやる。それだけ。

「ぜえったい、おさえるぞーっ!」
 ふりかえり、ダイヤモンドに声をかける。

「こいやーっ!」
「あと3にーん!」
「しまってこーっ!」
 全員から声がかえる。

 先頭バッター、セカンド内野安打。次打者は、三振。三人目、センター前ヒット。

 1アウト2・3塁。ヒット一本、エラーひとつでサヨナラ負けだ。

 錦林の監督がベンチを出る。球審になにか告げている。次打者が怪訝そうに御所南ベンチを見やる。球審が指示し、打者はてくてく一塁に歩いてゆく。

 一瞬、グラウンドじゅうが静まりかえった。なにが起きたのか、理解が広がるにつれて、この日最大の歓声が巻きおこった。

 申告敬遠。

 つまり監督は、敢えて塁を埋めた。

 最終回裏、同点で、1アウト満塁。学童野球でこれって、たいがい、だいたいにおいて、まあ普通、四球で、押し出しサヨナラのやつだろう。

 あとで監督にきいたところでは、
「あの場面は、ひとひに、投げてこい! 気持ちみせてみい! って感じやったね」

 ボールを二度、三度とグラブに弾ませ、背番号18はすっと静止し、そうしてゆっくり、投球モーションにはいった。

 ボール、ストライク、ファウル。1ボール2ストライク。4球目、打者は振りぬき、勢いよく弾んだゴロはショート正面。つかんだ球をショートはすばやくキャッチャーに送り、本塁フォースアウト。

 2アウト、満塁。

 静止、キャッチャーを見る。モーション、第一球。高めにボール。つづいてストライク。ファウル、ボール、ファウル。これで、2ボール2ストライク。

 最後の一球は、代名詞ともいえる、外角超低めへのストレートだった。ボールは焦げるような痕を残し、まっしぐらにキャッチャーミットの中心へと突きささった。バットは少し遅れて、真横に空を切った。

「おっしゃあ!」

 自らの「ここ」を守りぬいたエースは叫び、これまでみせたことのないガッツポーズを左手で作った。この世の中心で笑顔が炸裂した。背番号18は、マウンドを光のように駆けおりると、監督、コーチ、チームメイト全員と抱き合った。雨あられのようなグータッチが上から降りそそいだ。

 同点、引き分けだった。それは、勝敗をこえた投球だった。錦林の選手も御所南の選手もライン際に整列し、脱帽し、「あざっす!」と叫んだ。両チームがそれぞれ輪になった。みな笑みを輝かせていた。もしくは、涙にまみれていた(ぼくと園子さん)。

 試合終了後、リーグ戦の閉会式があった。錦林ジュニアは3位に入り、ひとひは優秀選手に選出された。土のかかった表彰状は、うちの座敷のピアノの上に、競走馬たちのぬいぐるみと並んで、ちょっぴり照れくさげに飾られてある。

(了)

230308-1.jpg

いしい しんじ

いしい しんじ
(いしい・しんじ)

1966年大阪市生まれ。京都大学文学部卒。94年『アムステルダムの犬』でデビュー。2000年、初の長編小説『ぶらんこ乗り』を発表。03年『麦ふみクーツェ』で第18回坪田譲治文学賞、12年『ある一日』で第29回織田作之助賞、16年『悪声』で第4回河合隼雄物語賞を受賞。著書に『トリツカレ男』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『よはひ』『海と山のピアノ』『港、モンテビデオ』『きんじよ』『みさきっちょ』『マリアさま』『ピット・イン』『げんじものがたり』など多数。最新刊は『書こうとしない「かく」教室』。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。現在、京都在住。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

この記事のバックナンバー

12月19日
第11回 名馬に会いたい(下) いしい しんじ
09月25日
第10回 名馬に会いたい(上) いしい しんじ
06月17日
第9回 ボブ・ディランが来た いしい しんじ
03月06日
第8回 ひとひの21球(下) いしい しんじ
03月05日
第7回 ひとひの21球(中) いしい しんじ
12月28日
第6回 ひとひの21球(上) いしい しんじ
10月25日
第5回 松本そだち いしい しんじ
08月17日
第4回 馬がはじまる(下) いしい しんじ
07月21日
第3回 馬がはじまる(上) いしい しんじ
07月06日
第2回 ピアノがはじまる(下) いしい しんじ
06月22日
第1回 ピアノがはじまる(上) いしい しんじ
ページトップへ