ピアノ馬

第15回

アニメにトリツカレる

2025.11.21更新

 シンエイ動画のプロデューサー・吉田さんから、「トリツカレ男」をアニメ映画にしたい、ともちかけられたのは、たしか6年ほど前にさかのぼる。まるまる膨らんだおなかをかかえながら、吉田さんは、いかに自分がこの小説にトリツカレているか、という話を淡々とした。右手の窓から午後の薄日がさしこんでいた。ぼくはなんだか、これから万事うまくいくような予感にかられながら、しあわせのかたまりをはらんでまるまった、吉田さんのおなかをみつめていた。



「トリツカレ男」は、あらゆるものにつぎつぎとトリツカレる若者ジュゼッペが(オペラ、三段跳び、昆虫採集、語学、ナッツ投げ、探偵ごっこ、雪だるま、などなど)、遠い国からきた少女ペチカにトリツカレ、彼女の笑顔のくすみを晴らそうと奔走する話だ。

 もともとは2000年の秋、浅草のマンションを訪ねてきた初対面の編集者、ビリケン出版の津田さんから、「子ども向きの絵本を書いてください」とオーダーがあった。はいわかりました、とぼくは生返事でこたえ、2週間後に200枚の原稿をわたした。全編ひらがなで書いてあった。

「なんですかこりゃ」
 マンションの部屋で津田さんは眉をしかめ、
「絵本の原稿をたのんだんですよ。こんな分量、絵本になるわけないでしょう!」
「でも、ぜんぶひらがなだから、子どもでも読めますよ」
「そういう問題じゃないです!」

 津田さんはぷんぷん怒って帰っていった。失敗したなあ、ま、いいか、とぼくはひとりごち、3日前から書きはじめた「麦ふみ」の話にふたたびはいりこんだ。

 翌週、ドアベルが鳴った。
「どなたですか」
「津田です!」
「ああ」

 今度は下の喫茶店で会った。津田さんは紙の束をさしだし、
「これっ!」
 といった。受けとり、目を落としてみると、先週わたした200枚の原稿が、漢字が読みやすいところは漢字にかわり、改行するべきところは改行され、ちょうどいい感じのゲラにしあげてあった。
「どうしたんですか、これ」
 ぼくがたずねると、
「こんな原稿わたされちゃあ、ゲラにするしかないでしょう!」
 津田さんはいった。
「でも、絵本専門じゃなかったんですか」
「絵本専門、やめましたよ!!」
 津田さんはいった。あとで、別に怒っているわけじゃなく、ふだんから、こういう口調のひとなのだ、と合点がいった。

 半年後、早川純子さんのふしぎな装画につつまれて「トリツカレ男」は世にでた。5年後には新潮文庫におさめられ、その後ぼくの本のなかでも、おそらくいちばん幅広い層の読者にめぐまれた、幸福な小説となった。

 公言しているので別段ひみつではないけれど、じつのところ「トリツカレ男」のストーリーは実話だ。そうと自覚してはいなかったが、書いているあいだじゅうぼくは、一生ものの恋愛の真っ最中だった。とことん浮かれ、トリツカレ、突っ走っていた。そうでもなければ、あんなにも無垢ですきとおった「かんぺきな春」の話、全肯定してかけるものではない。

 当時トリツカレていた女性・園子さんは、ありがたいことに、いまでもぼくの家の奥さんのままでいる。



 アニメ化のオファーから2年ほどたつ頃、ようやく制作がすすみはじめた、と連絡がはいった。いくつもの資料が、つぎつぎとメールで送られてくるなか、「美術設定」というファイルに目がとまった。

 ひらいてみるとそこはジュゼッペの部屋だった。とつぜん招かれた「ひみつの兄弟」のような思いで、ぼくは、うす暗い室内をぐるりとみわたした。

 壁にかかった外国のお面、みたことのある楽器の数々、額にはいったあまたの写真。テーブルにつまれたお皿いちまい一枚の模様、床に落ちた雑誌の表紙におどる文字。はじめて目にするのにすべてなつかしかった。小説のなかではいっさい触れられていない、ささやかな宇宙を、作画スタッフの方々はそこに描きだしていた。

 主人公の顔、声、動作、日々のくらし。小説を読んでいるあいだ、読者のなかに、目にはみえないまま立ちあらわれる。そうしてぼくたちはどきどきしながらページをめくる。アニメーションづくりとは、そうしたすべてを「目にみえるようにする」ことなのだ。

 その後、ジュゼッペの外見がとどいた。ペチカの姿もおくられてきた。
「こんな顔してたのか」
 ぼくはこころから嬉しく、ディスプレイの画像をしみじみと眺めた。ながい長い文通相手と、ようやく対面がかなった気分だった。



 上白石萌歌さんの声をはじめてきいたのは、たしか、お姉さんの萌音さんとデュエットしたスピッツ「チェリー」の動画だった。楽曲、声のよさはもちろん、姉妹でこんな風にうたえるのはすばらしいな、とおもって息子の一日にみせた。
「しってる」
 と一日はいった。
「朝ドラのひとやんな」

 一日がぼくのパソコン内につくった音楽のプレイリストのなかに、adieuというシンガーの曲があった。一聴してその声のとりこになった。この世のはかないうすやみを、いっぽ一歩さぐるような歌声だった。

 知らないことがあっても、その、知らない状態を楽しみたいがゆえに、ぼくはわからないことをすぐに検索にはかけない。このadieuが、上白石萌歌さんがシンガーとして活動する際の名前だと知ったのは、ときおり聴きつづけて3年ほど経ってからのことだった。

 ペチカ役をひきうけてくださってすぐ、adieuは横浜でのライブにぼくを招待してくれた。2階席の最前列にすわってステージでうたう彼女をみつめた。

 はじめて声をきいたときと同じだった。adieuはこの世のはかないうすやみをたいせつに見つめ、それを乱暴に散らすことのないよう、吐息を吹きかけるようにうたっていた。adieuとうすやみはまるで姉妹のようだった。

 背筋をのばし、うすく目をとじた。いま、特別なひとの歌声をきいている、とぼくは思った。



 佐野晶哉さんの名前は、プロデューサーの吉田さんからはじめてきいた。Aぇ! groupというユニットの名は雑誌で見て知っていたが、なんと読むのかわからないくらい、うちはほとんどテレビ番組をみない(一日はYouTubeやTikTokをみている)。

 アニメのアフレコを見学するのももちろん初めてだった。スタジオの待合スペースにいると、
「おはようございまーす!」
 朗らかに、たったひとりでひらりとドアをくぐり、彼がはいってきた瞬間、その場の空気が四割増しであかるくなった。自己紹介すると、
「ええっ! いしい先生ですか、ヤベ、緊張しちゃう」

 からだは大柄なのに、発話やしぐさがいちいち愛らしい。これがほんもの、かつ旬のアイドル、という存在なのかと、胸にふくよかなしあわせを感じつつみいった。

 驚きはこれでおわらなかった。

 台本をひらいた佐野さんがスタジオでマイクにむかう。モニターに映しだされた映像に声優は声を合わせていく。そのはずだった。

 佐野さんの全身がしなった。と、声があがり、その波長の変化にしたがい、そのからだは上下左右、しなやかに波うった。佐野晶哉は踊っていた。トリツカレ男のからだにつながり、ジュゼッペの声そのものとなって、わきあがる衝動そのまま、自然現象のように身をくねらせていた。そうしなければ声がでない、このように踊りながら出すのでなけりゃジュゼッペの声じゃない、といわんばかりに。

 吉田さんをふりむくとにこにこと幸福そうに笑っている。やっぱりこのひとしかいなかったでしょう、といった表情で。

 トリツカレ男のジュゼッペは、一度トリツカレるや、とことん頂点までいく。三段跳びでは世界記録を達成し、探偵ごっこではいくつもの難事件を解決し、昆虫採集では世界に一対しかいない宝石の虫をつかまえる。いわば狂気じみた、邪気のない天才だ。そして、天才を演じるのは、まさにそのような存在、無邪気な天才でなければならなかった。

 トリツカレ男がたったいま、スタジオで笑い、走り、泣き、トリツカレた声で、愛の歌をうたいあげている。

 ジュゼッペ役は、つまるところ、佐野晶哉でなければならなかったのだ。



 2025年初夏、アニメーション映画「トリツカレ男」は完成した。東宝の試写室で、髙橋監督、吉田さん、上白石さん、ネズミのシエロにいのちの声をふきこんだ柿澤勇人さんとならび、スクリーンをみあげた。

 およそ100分後、試写室の外に出た。広いガラス壁のむこうにすみわたった夏の青空がみえた。映画をみる前より、いっそう青々と光り、空なのにまるみを帯びてふくらんでいるように、ぼくの目には映った。

 秋には東京で、一般のお客さんを200人あつめてのプレミア試写会がひらかれた。ぼくは観客席の後方で、真正面から映像を浴びながら、ふしぎな幸福感につつまれていた。あのマンションのうすぐらい部屋で、津田さんからのオーダーを大幅にかんちがいしつつ、ひとりもくもくと、ノートに(ぜんぶひらがなで)書きつけた小さな話が、いまこんなに大勢のひとから祝福をあび、みずからも、光と音で返礼をかえしている。ぼく自身がまるで、ジュゼッペたちにつながる、ものがたりのなかを生きている気がした。

 それは髙橋監督、吉田さん、出演者、音楽家、美術のかた、音声のかた、照明のかた、時間をはかるひと、色彩をかんがえるひと、街の景色、インテリア、乗り物や建物の姿かたち、スケジュールを管理し、お弁当を注文し、おもい荷物をはこび、おつかれさまと声をかけ、もう少しだよとはげましあい、できたー! と笑いあったひとたちとともに、この世界に生きている実感だった。しあわせのかたまりとはこのことでもあった。「トリツカレ男」の一員になれるのは、こんなにもうれしく、ほこらしいことだったのだ。



 11月7日、全国公開の直後、ネットには「トリツカレ男」を激賞するコメントがあふれた。園子さんによれば、こんな点数みたことない、くらいみんな褒めてるよ、とのことだった。


 今現在劇場はアニメ作品に占拠されていますが、今作が1番じゃない?


 Awesome City Clubのファンなので、音楽目当てで鑑賞。
 予想を大きく上回って物語に感動!
 涙してしまった


 真っ直ぐに誰かを想う優しい世界は美しかった
 本当にたくさんの方に観てもらいたい!


 佐野くん、萌歌ちゃん、声優も歌声も
 完璧でしたねぇ


 前から予告を見てて「もしかしたらこれは名作かもなぁ...」とは思ってたんですが、予想を超えた大名作でした。


 アニメってこんなに素晴らしいものかと感動しました。
 季節の全てが美しかった。
 ジュゼッペみたいな人間になりたい。

 こうしてみると、お客さんたちも映画をみながら「トリツカレ男」の一員になっていったのがわかる。

 スタートして一週間たらず。そしてまだ一家で見に行ってもいない。京都のTOHOシネマズに今週末にでも出かけ、しあわせのかたまりに触れてみようとおもう。



「ピアノ馬」は、前回からずいぶんと間があいてしまいました。お待たせしてしまい、ほんとうにすみませんでした。

 その間おおきく変わったこと。

 ぼくが携帯電話を、しかもスマホを持ちました。インスタまでやってます。

 ひとひの背がぼくより大きくなりました。足のサイズは28センチです。

 園子さんはおおきくは変わりません。

 大阪の母は、近所の未亡人のみなさんと「女子会」を結成し、定期的にあつまっては、はもしゃぶの会、ばら寿司の会などひらいて、みなでおしゃべりしまくっています。「トリツカレ男」のチケットは「9枚用意しといてね」とのことでした。元気です。

(了)

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いしい しんじ

いしい しんじ
(いしい・しんじ)

1966年大阪市生まれ。京都大学文学部卒。94年『アムステルダムの犬』でデビュー。2000年、初の長編小説『ぶらんこ乗り』を発表。03年『麦ふみクーツェ』で第18回坪田譲治文学賞、12年『ある一日』で第29回織田作之助賞、16年『悪声』で第4回河合隼雄物語賞を受賞。著書に『トリツカレ男』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『よはひ』『海と山のピアノ』『港、モンテビデオ』『きんじよ』『みさきっちょ』『マリアさま』『ピット・イン』『げんじものがたり』『息のかたち』『書こうとしない「かく」教室』など多数。最新刊は『チェロ湖』。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。現在、京都在住。

編集部からのお知らせ

映画『トリツカレ男』上映中!

映画『トリツカレ男』は、全国の映画館で大ヒット上映中です。

<STORY>
ひとたび何かに夢中になると、ほかのことが目に入らなくなってしまうジュゼッペは、街のみんなから“トリツカレ男”と呼ばれている。
三段跳び、探偵、歌……ジュゼッペがとりつかれるものは誰も予想ができないものばかりだ。
行き場のないネズミのシエロに話しかけるうちにネズミ語をマスターしたジュゼッペ。
昆虫採集に夢中になっていると、公園で風船売りをしているペチカに一目惚れ。今度はペチカに夢中になった。
勇気を出してペチカに話しかけたジュゼッペだったが、ペチカの心には悲しみがあった。
大好きなペチカのため、相棒のシエロとともに、彼女が抱える心配事を、これまでとりつかれた数々の技を使ってこっそり解決していく。
ジュゼッペの夢中が、奇跡となってあなたに届くーー
公式サイトより)

<キャラクターの声>
ジュゼッペ 佐野晶哉(Aぇ! group)
ペチカ 上白石萌歌
シエロ 柿澤勇人
ツイスト親分 山本高広
サルサ親分 川田紳司
ペチカの母 水樹奈々
タタン 森川智之

<STAFF>
原作:いしいしんじ『トリツカレ男』(新潮文庫刊)
監督:髙橋 渉
脚本:三浦直之
キャラクターデザイン:荒川眞嗣
音楽:atagi(Awesome City Club)
主題歌:Awesome City Club「ファンファーレ」
アニメーション制作:シンエイ動画
配給:バンダイナムコフィルムワークス

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