第6回
「とも」にする、「とも」とする
――映画『急に具合が悪くなる』をみて
2026.06.22更新
2023年11月17日(金)にミシマ社より刊行した、文化人類学者の猪瀬浩平さんの著書『野生のしっそう』。発売直後からたくさんの反響が寄せられた本書について、新しいお知らせがあります。
2026年6月19日(金)に公開となった濱口竜介監督の映画『急に具合が悪くなる』にて、『野生のしっそう』から着想された登場人物やシーンが描かれています。映画公開を記念して全国の書店にて開催中の「映画『急に具合が悪くなる』を読み解く選書フェア」では、濱口監督が本書を選書されました。
映画をみた猪瀬さんに、今、『野生のしっそう』の延長で考えていることをご寄稿いただきました。
(ミシマガ編集部)
『野生のしっそう ーー障害、兄、そして人類学とともに』猪瀬浩平(ミシマ社)
ミシマ社のノザキさんからハマグチさんの名前をあげてもらったのは、2025年の春だった。わたしは日比谷公園で行う焚火プロジェクトに参加することになっており、そこで行うトークセッションの相手を探していた。ノザキさんなら面白い人の名前をあげてくれそうだとなんとなくおもい、電話をかけた。ノザキさんが即座に挙げた名前が、ハマグチさんだった。ノザキさんは、ハマグチさんの『悪は存在しない』の印象的なシーンに薪割りが登場していたと語った。日比谷公園イベントのプロデューサーのタケダさんに連絡すると、すぐ連絡をとってくれた。ハマグチさんからの返事もほどなく来て、ちょうどフランスで仕事をしているのでいけないとのことだった。
思えばあの時に『急に具合が悪くなる』の製作がはじまっていたのだろう。
ハマグチさんと出会ったのは、2011年11月の仙台でのことだったとおもう。わたしは自分のかかわっていた猪苗代のプロジェクトの帰りに、仙台に立ち寄り、そこで同じシェアハウスのような場所に滞在する人間としてハマグチさんと出会った。ちょうどその頃ハマグチさんは、サカイさんと仙台メディアテークを拠点に、『なみのおと』からはじまる東北三部作の撮影途中だったのだと思う。
そこで連絡先を交換したあと、よくわからないまま『なみのおと』の上映を大学でやってくれないかと声をかけた。
今振り返れば、若気の至りの乱暴なオファーだったのだけど、その後、ハマグチさんとサカイさんが大阪の釜ヶ崎にでかけていったときに、NPO法人こえとことばとこころの部屋の報告書に私が書いた原稿に、なんとなく共感してくれたこともあって、大学での上映会を開くことができた。その後、郡上八幡で学生と一緒にやった詩のワークショップ『こころのたねとして』にも、サカイさんとともにゲストで来てくれた。
その後、上野のアメ横の飲める魚屋「魚草」であったりしたくらいで、そのあとあったことはたぶんない。その一方で、ハマグチさんの活躍はニュースを見て知っていた。上映される作品は可能な限りみていた。コロナの時にミニシアターを守るためにハマグチさんが呼び掛けてたちあがった、クラウドファンディングも印象深く記憶している。
そんな縁もあったため、ハマグチさんには、『野生のしっそう』を送っていた。その前の、『分解者たち』や、ナカタさんやタカムラさんとともにつくった『復興に抗する』も送っていたような気がする。
ハマグチさんの『寝ても覚めても』をみたときに、これは共生ということをめぐる作品なのだなとおもった。分かり合ってともにいるのではない。分かり合えないがともにいる。突然現れることもあり、去っていくこともあり、そして寄り添うわけでもなく、つかずはなれずの距離にいることがある。川が流れる。
そのモチーフは『野生のしっそう』を描くときにも、わたしが書きたいことをフルスロットルで描くための後押しになったような気もする。おもえば、『寝ても覚めても』も、『ドライブ・マイ・カー』、そして『急に具合が悪くなる』も登場人物たちは、結構な距離をしっそうする。自動車や、飛行機を使って。
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2026年の4月にハマグチさんから連絡があって、『急に具合が悪くなる』の試写会に誘われた。久しぶりの連絡に喜び、GWの最中の木曜日に出かけた。
いろいろな登場人物が印象的だったが、しっそうする智樹というキャラクターにずっと注目していた。智樹は、自閉症の人であり、しっそうする人であり、そして彼のしっそうがさまざまな緊張と、出会いを生む。
『野生のしっそう』で、わたしは障害のある人とない人がわかり合うためにどうしたらいいのかということを書いているわけではない。障害のある人が大きな声を出したり、どこかにいなくなってしまうことを、ただ肯定するわけでもない。そこには様々な不安があり、暴力の予感がある(される側にもなり、する側にもなる)。だから、美しく語れるものでもない。ただそのぎりぎりのところで、ときどき想像していなかったようなことが起きる瞬間がある。そのことを描いた。そしてそれを過度に意味づけて制度化してしまったときに起こることを、兄に教えられた瞬間を描いた。
映画『急に具合が悪くなる』の要点は、リスクと希望は表裏一体ということであり、それは原作の魂のようなものである、と私は考える。ダイアローグの原作に対して、ポリフォニーになっており、様々な背景の人たちがあらわれ、肌と肌をふれあわせ、ビールやたばこ、食事をともにしながら、まじわり、ぶつかり、国境を越えてしっそうする。最後の最後まで渾身の投げ合いを演じる原作の魂の部分を掬い取りながら、イタリアの精神病院を解体したパザーリアから、認知症ケアのユマニチュード、そして多様な背景をもった登場人物が立ち現われる。
美しい瞬間は、破局と表裏一体であり、そのことを予期させるからこその美しさなのだと、見終わって思った(個人的にはそのことの意味を掘り下げながら、いまの資本主義社会で使われる「アントレプレナーシップ」という言葉を攪乱できないかということを考えるが、まだ自分にはそこまでに実体と言葉が足りていない)。
リスクと希望が表裏一体であることを、主人公の一人の真理だけでなく、智樹が最後の最後まで体現している。ただ希望があるわけではない。何もかも崩れてしまうような予感と、現実のなかで、しかしその中にこそ希望は宿る。そのことを信じられたとき、世界は美しく輝く、ことがある。
ちなみに原作の作者の一人であるイソノさんと、主人公の一人マリー=ルーはともに人類学者(マリー=ルーは早稲田に留学して人類学を学んだ)だけでなく、脚本づくりのなかにはマツシマさんの『プシコ ナウティカ』が大きな意味をもっている。そのほかにも人文学やケアの現場で紡がれてきた思想の魂のようなものが、物語の中に描かれる。そのなかに『野生のしっそう』もある。自分が人類学というか、研究し、言葉を紡いでいることの意味を確かめるような時間でもあり、また日々を過ごしている中で絶望に飲み込まれそうになりつつ、それでも賭けようとしていることにも重なった。
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そんなこともあって、 カンヌ国際芸術祭のコンペティションについて、今回は気にかかっており、今日(5月24日)未明の発表を気にしつつ昨晩(5月23日)は眠りにつく。
結果は主演の二人が女優賞を受賞ということで、原作の魂が届いたことの証になる、順当な結果なのだと思う。
個人的には、兄のしっそうが映画という形で「
そしてそれは、わたしの父の病気が悪化し、なかなかからだがうごかなくなるなか、みんなから心配され、そして施設で生きる方がより安全で、より幸せだとおもわれているなかで、空気を読まずに「ここが一番いい」と語ることにもつながる。
5月末に福岡で開かれた文化人類学会でマツシマさんに会い、感想を語り合う。マツムラさんとともに学会の会場から本屋アルゼンチンのオオヤさんの運転で糸島へ移動する車中で、そしてマツムラさんの招待に便乗して晩御飯をごちそうになった、北欧アンティーク家具を扱う家具屋ハミングジョーのアカボシさん夫妻の家で、話は続いた。にぎやかにいろいろ語ったことの多くはほとんど覚えていないが、絶望をしきった先にしか希望は現れないというマツシマさんの言葉が今も頭の中に響いている。
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最近、書いた企画書で「とも」という言葉を使った。それは次のような文章だ。
この人間にコントロールされずにささやかに生きのびる雁皮(和紙の原料となる植物)を、その両義性にも留意しながら、わたしたちが自治を生み出すための<とも>とする。メガテック企業によるプラットフォームも、国家として進められる記念館・博物館の整備もそれ自体が否定するべきものではない。問題なのは、わたしたちがそれとは別に自ら立ち上げる記憶のメディアが喪失していることにある。雁皮とともに生きのびるための、この混沌とした世界における自治の技法(不確実性を排除するのではなく、不確実性を<とも>とする生き方)を創造し、それを次の時代に生きる人びとに伝える。
マリー=ルーと真理は、智樹のしっそうによって出会い、そして「とも」となる。それは原作においてミヤノさんとイソノさんとも、長年の友人ではない。絶望を「とも」にしながら、かけがえのない「とも」になる。
リスクにかけて莫大な富を生み出す、そういう希望ではない。
この地球で生きること自体がリスクに覆われていく世の中で、それでもともにあろうとすること、絶望をともにしながらともにある存在を見いだしていくこと、そのことの意味を改めて思う。
<編集部よりお知らせ>
みんなのミシマガジンにて、7月8日(水)から、猪瀬浩平さんの新連載「ちぐはぐなつながり」がはじまります。『野生のしっそう』の続編にあたる連載です。楽しみにお待ちください。




