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第6回

失敗と魔法のカップ

2026.06.01更新

失敗していいって初めて言われた

 ユザワタヌキ文庫では、時々涙をポロリとこぼす人がいる。だから涙をふくティッシュペーパーが用意してある(ただのティッシュペーパーですが)。じつは私も人知れず、涙を流したことがある、というのはまた別の機会に話すことにして・・・。

 今回話すのは、「失敗」についての会話の中でポロリ、キラリとこぼれた涙のお話。その日、ユザワタヌキ文庫には研究論文に取り組む学生が相談に来ていたので、私はいつもどおりお茶を飲みながら話を聞いていた。具体的にはどんな会話だったか思い出せないのだけれど、私が「卒業研究は上手くいかなくて壁にぶち当たるのも醍醐味だし、失敗したって大丈夫だよ。過程を楽しまなくちゃ」的なことを言った。すると、それを聞いた学生が「失敗してもいい、って生まれて初めて言われました」というなり、涙をこぼしたのである。「両親にもそんな風に言われたことがなかったのに」、と言葉が続いた。

 突然の涙に少し驚いてティッシュペーパーを差し出す私。失敗しないように生き続けてきたなんて、ずいぶん緊張して生きてきたんだろうなぁと、彼女のこれまでの人生を想像した。その時、あ、自分も同じだったかも、他人ごとではなかったわ・・・、と思い出したことがある。

土で汚れて生き直す

 すでにいくつかのところで話していることだけれど、私は小学生の時に潔癖症になって苦しんだことがある。祖父が亡くなった時に初めて「死」というものに直面して軽いパニックになったことが原因だったと自覚しているが、それからというもの、手を洗わないと死んでしまうような気がして、何度も手を洗うのが癖になってしまった。やがてそれは心にも影響して、良いこと・悪いこと、正しいこと・間違っていること、白と黒、清と濁、何でも二分法で考えるようになっていった。それはとても苦しいことだった。

 なぜなら、本来世の中っていうのは限りなくグレーのことが多く、白と黒だけではなくて、色彩豊かなグラデーションに染まっていて、ゆらゆらと揺らぎがあり、一筋縄では割り切れない、答えがすぐに出ないことばかりだったからだ。そんな中で、真っ白で生きていきたいという願望は、自分を律してくれるものであると同時に、想像をはるかに超えた強さで自分を縛る重い鎖のようにもなっていった。

 鎖でがんじがらめになった私はある時、これではダメだと気がついた。この鎖を解くにはどうすればいいんだろう。思いついたのは、自分とは全く違う価値観に触れること。それを手っ取り早く実現するのは、スニーカーに土をつけながら旅をすることだった。だから私はフィールドワークが重視される地理学の世界に飛び込んだ(だいぶ省略していますが)。

 要するに、土に汚れて生き直す。それがその後の私の人生の目標になった。

 なんで地理学者になったの? と学生に問われてそんな話をすると「ウソだ~!」と笑われるほど、今の私はだいぶ大雑把で、大らかに見えるらしい。揺らぎ散らかしている姿をあえて学生たちに見せるようにもしている。だから、「ユザワさんが教授になれるんだったら、オレにもなれそう」と言われたりもする。

 そう言われてまんざらでもないと思うのは、私自身が失敗することを極度に恐れながら生きる息苦しさを経験したからこそ、かつての私のような学生たちに、もっと自分を許したほうがいいと伝えたいからなのかもしれない。

答え合わせ的思考

 学生たちと話していると、世の中にはどんどん「答え合わせ的思考」が広がっていることを実感する。「失敗していい」という言葉をポジティブに解釈して涙を流す学生だけでなく、ある時はむしろネガティブに解釈して「失敗するって分かっていて失敗させるんですか」と言われたこともある。「そうきたかー」と一本取られそうになるが、ここは譲らず、「失敗のススメ」を死守する。モヤモヤする気持ちが残る講義は新しい気づきと思考の始まりでもあるのだけれど、もっとスッキリした答えが欲しいと言われることもある。

 役に立つ、社会に認められるにはどうすればよいか、という願望は大切ではあると思うけれど、あまりにもそれに囚われ過ぎると自分が本当にやってみたいこと、考えてみたいことを見失うことがある。「社会的に環境保全みたいなテーマがいいと思っていたんですけど、やっぱり本音では自分が夢中になっている推し活が社会とどんな関係があるのかについて研究してみたかったんです」と言って方向転換した途端、生き生きと卒業研究に取り組むようになった学生がいた。そういう姿を見ると、社会との答え合わせや忖度から自由になることがいかに重要かを考えさせられる。

 答えのない問題にああでもない、こうでもないと仲間と話すのが醍醐味のゼミでの研究活動は、就職活動で「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」をアピールするには効率が悪いかもしれない。フィールドワークの準備やアポイントをできるだけ学生たち自身の力でやってみることはリスクがあるかもしれない。でも、そうした試行錯誤や失敗の経験を抜きにして、答えに最速、最短でたどり着くことを重視するばかりでは、早晩、AIにはかなわないと実感し、無力感に苛まれる時がくるのだろう。

 私たちには「答えの出ない事態に耐える力(ネガティブ・ケイパビリティ)」が備わっていること(帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ―答えの出ない事態に耐える力』2017年、朝日新聞出版)、そしてそれを育て得ることをもっと自覚できれば、失敗という経験はむしろ私たちを伸びやかにしてくれるような気がする。

忖度なしの好きなものだらけ

 そんなことを体験的に実感するのは、ユザワタヌキ文庫に来た人の多くが「これでお茶を飲みたい」と、あるカップを選ぶ姿を目にする時だ。私はそれを「魔法のカップ」と呼んでいる。そのカップを出すと、初めて研究室に来た人でも、いつもは口数少ない学生であっても、なぜか話が弾むのだ。「このカップ、かわいいですね」とか、「おもしろいですね」とか、「誰が作ったんですか」など、カップとのファーストコンタクトの感想から会話が始まる。

 それは、手にしっくり馴染む焼き物の陶器の佇まいにホッと安心するからかもしれないし、一つひとつが違う絵柄になっている楽しみがあるからかもしれないけれど、何といっても、一見脈絡が無さそうに見える、たくさんの絵が不揃いかつ賑やかに刻まれているところがこのカップを目にした人を虜にしているのではないか。私もこのカップの虜になっている一人。猫、犬、魚、バスケットボール、お鍋、自動車、船、タンバリン、笛、お寿司などなど。なぜ、この組み合わせ? というイラストたちが、不思議な調和を作り出しながらカップの周りや中を彩っている。

 このカップは私がいつも髪を切ってもらう美容院に手伝いに来ているコージくんが絵付けしたものだ。コージくんは、自分の好きなものを好きな順番で描いている。「好きなものだらけ」のカップ。誰かに気に入られようとか、評価されようとか、高く売れるようにとか、そういうことから自由になった、忖度なしの絵柄たち。この絵柄の組み合わせには「失敗」という概念がなくて、ただ好きなものが並んでいる潔さとそこから生まれる柔らかなユーモアが漂う。答え合わせ的思考が蔓延する現代だからこそ、失敗してはいけないと緊張して生きてきた人だからこそ、「好きなものだらけ」で満たされたこのカップの伸びやかで絶妙な調和に魅了されてしまうんじゃないだろうか。そういえば、失敗話の涙がこぼれた時も、テナガタヌキ文庫ではこの魔法のカップが私たちを見守ってくれていたんだっけ。魔法のカップとコージくん、いつもありがとう。

湯澤 規子

湯澤 規子
(ゆざわ・のりこ)

1974年大阪府生まれ、千葉県育ち。法政大学人間環境学部教授。筑波大学大学院歴史・人類学研究科単位取得満期退学。博士(文学)。専門は歴史地理学。主な著書に『胃袋の近代―食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)同書で、生協総研賞第12回研究賞、第19回人文地理学会賞(学術図書部門)を受賞。『7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)、『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(ちくま新書)、『焼き芋とドーナツ―日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)、同書で第12回河合隼雄学芸賞を受賞、などがある。

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