日本習合論

第5回

内田樹先生×朴東燮先生「これからの時代は<習合>で生きる」(1)

2020.10.12更新

 2020年9月17日、MSLive!にて内田樹先生と朴東燮先生による対談「『日本習合論』発刊記念 これからの時代は<習合>で生きる」がおこなわれました。世界で唯一の内田樹研究者である朴先生と内田先生の対談は、本書を書くアイデアはどうしてできたか、内田先生は何を意識して執筆するのか、といった創作の秘密を紐解くものにもなりました。

 内田先生が大風呂敷と呼ぶ『日本習合論』同様に広がりのある対談の模様の一部を、2回にわけてお届けします。

1012_1.jpg(左:内田樹先生、右:朴東燮先生)

起きても良いはずのことがなぜ起きなかったのか

内田 朴先生は『日本習合論』を読んでどうでしたか?

 ものすごく面白かったです。誰にも説明できない事例を集めて、説明できるひとつのストーリーラインをあぶり出すと言うんでしょうか。それは内田先生の魅力だと思います。

内田 誰にも説明できない事例じゃなくて、誰も説明する気がなかった事例ですけど(笑)

 習合論のとっかかりは「なぜ神仏分離は可能だったのか?」という問いです。国家を近代化しようとするときに政治的支配者が宗教や民衆の精神文化を統制しようとする意図はわかるんです。問題は1000年以上続いた宗教的伝統を捨てなさいと言われた人たちが、それに従って、あっさりと伝統を捨ててしまったことです。どうして民衆の側から神仏分離に対する組織的な抵抗や反論がなかったのか。それについて納得のいく説明を聞いたことがありませんでした。

 本にも書きましたけれども、歴史家たちは起きたことは説明してくれるけれども、起きなかったことが「どうして起きなかったのか」については説明してくれない。もちろん、起きたことの解明が優先しますから、手一杯でそんな問いにつきあっている暇はないんだと思います。だから、僕がこの本では、歴史学者が扱わない問いを立ててみたんです。「起きても良いはずのことがなぜ起きなかったのか?」それを問う。これはミシェル・フーコーが「系譜学的思考」と呼んだものに近いのかなと思います。起きてもよいはずのことが起きなかった理由を考える。それを考えていると、歴史学的なパースペクティヴからは見えないものが見えてくるんじゃないか思います。

「深掘り」ではなく「関係づけ」

 今までずっと先生の本を読ませていただいて、今回改めて内田先生は科学者であるなとしみじみ感じられました。科学者というのは知的肺活量があって、酸素が希薄な所で活躍されるということ。このことは『日本習合論』のなかではっきりと出ているんじゃないかと思います。

 数学者の森田真生先生がよく使っているフレーズで「What is mathematics and what could it be」というのがあります。なぜ数学は決まった問題解決やアルゴリズムに縛られているのか。そうではない、違う在り方もあっていいんじゃないか。こういう、あり得たかもしれない世界のことを先生もお考えになっているんじゃないかと思います。

 真に科学的知性は「あらゆる現象を勘定にいれる」ことのできるしなやかさと度量の深さを必ず伴っていると思います。こういうのをその語の正しい意味で「科学的」な態度だと呼ぶのだと僕は思います。

内田 科学者って言われたのは初めてだなあ。

 そうなんですか。僕はずっと科学者だと思っていますよ。

内田 この間、平川(克美)君と対談したときに「内田、お前若い奴からなんて呼ばれてるか知ってるか」って言われて、「なんて言われてるの?」と言ったら、「学術界のチャラ男って言われてるんだぞ」って(笑)

朴 (笑)

内田 でも、なんだかわかる気がするんだけどね。若い研究者から評判が悪いのも、「チャラ男」と呼ばれるのも。朴先生、「チャラ男」の意味わかる?

 チャラ男って悪い意味じゃないですか?

内田 そう。「チャラチャラしてる男」。あっち行ったり、こっち行ったり、ふらふらして、ひとつところに落ち着かない男のこと。「学術界のチャラ男」とはなかなか言い得て妙だなと思いました。

 実際に、そういう「あちこちに首を突っ込む」タイプの学者って最近はいなくなったんですよ。90年代ぐらいまでは大学の広報によく「学際的(Interdisciplinary)」という言葉が使われていましたけれど、最近ぱたりとその文字列を見かけなくなった。その代わりに登場してきたのが、「深掘り」。これ最近よく耳にするようになった言葉です。

 深掘りした議論というふうに使いますよね。

内田 そう。特定のトピックを、油井をボーリングするように、ドリルでまっすぐ掘り下げてゆくイメージ。「学際的」というのは、学術のボーダーを超えて、自由に領域間を行き来するということだったけれど、その自由な感じが否定されて、代わりに「深掘り」が出てきた。こういう流行語の変化ははっきりと時代の空気を反映しているわけで、複数の隣接領域を自由に越境していく生き方が否定され、決められた狭い専門分野にタコツボを掘って、あとはひたすらそれを掘り下げてゆく、そういう生き方の方が好ましいという「空気」が出て来た。「越境」する行為は、それ自体アカデミックではないという考え方が近年出てきている感じがする。

「深掘り」という言葉は新聞記者や評論家が使っているのを聞くことが多いんだけれども、最初に耳にしたときから僕には微妙な違和感があって。だから、僕が誰か編集者から「このトピックもっと深掘りしてください」と言われたら、「嫌だ」って言いそうで(笑)。深く掘るの好きじゃないんだよって。

 そうなんですか?

内田 「掘る」のが好きじゃないの。僕はね、「関係づける」のが好きなの。「あれって、これじゃん」というのが好きなの。これまで関係づけられたことのない遠いもの同士の間に思いがけないパターンの一致があることに気づいたときに、すごくわくわくする。「さあここを掘るぞ!」と地面にしるしをつけてがしがし穴を掘るのは、性に合わないの。良い悪いじゃなくて。

ブリッジする旦那

 本には(三角形の)底辺が広がらないと高さが出ない、という話が書いてありますよね。

内田 そうだね。日本語には「旦那芸」という言葉があるけど、僕はそういう意味での「旦那」なんだと思う。架橋する人。

 伝統芸能の場合だと、ピラミッドの頂点に玄人がいて、底辺にその芸を享受する観客がいる。でも、その間に「中を取り持つ」もの必要なんだと思う。現代の芸能だと、そこにはプロデューサーとかディレクターとかエディターとか、そういう職業的に「架橋する人」がいるけれど、「旦那」というのは職業じゃない。お金もらってやるんじゃなくて、お金出してやるんだから。ボランティアで玄人と素人の間を取り持つのが「旦那」。伝統芸能の継承には「旦那」が必要だと僕は思ってる。

 なるほど。

内田 実際に、「持ち出し」で芸能活動を支援する「旦那」抜きで、有料公演だけで成立する伝統芸能って、日本だともう歌舞伎しかないわけですよ。僕は長く能楽を稽古しているわけだけれど、僕は完全に「旦那芸」なんです。そこそこ稽古してきたから、玄人の芸がどれくらいすごいかはわかる。どれほどの水面下の努力があったかはわかる。見所でただできあがったものを見てるだけの人とはその点がちょっと違う。素人に「この玄人の芸のどこがすごいかと言うと・・・」と、余計なお節介だけど「玄人のすごさ」を説明するおじさんがいて(笑) そういうのも「旦那」のたいせつな仕事なんです。

 僕は合気道という武道も長くやっていて、自分の道場を持って、何百人かの門人を育ててきたわけですけれど、これだって「玄人」の芸じゃない、「旦那芸」です。でも、自分の師匠がどれぐらいすごい武道家であるかは、文字通り身をもって知っている。僕程度の武道家との天と地ほどの力の違い、器の違いに足が震えることはできる。で、何をするかというと、自分で道場を始めるわけです。僕自身は二流三流の武道家だけれども、一人でも多くの人に合気道を経験してもらって、この世にこんな素晴らしいものがあることを知らせることはできる。そして、彼らにこれからの日本の武道を豊かなものにしてもらいたい。僕の人生は合気道によってほんとうに豊かなものになったから。

 現代日本でいろいろな伝統芸能や伝統技術が廃れていったのは、玄人のレベルは高いけれども、底辺が縮んでいるからだと思う。底辺が縮んでいると、玄人がいくらいい仕事をしても、それを経済的に支えてくれる層が薄くなるでしょ。そうなると、玄人の側にどれほどすばらしい芸があっても、それが生業にならない。それでは食っていけない。

 なんでもかんでも「市場に丸投げ」して、市場で換金性の高い芸だけが残るというような手荒なことをしていたら、伝統芸能・伝統技術のほとんどは絶えてしまう。それを防ぐためには、身銭を切って、私財を投じて、芸と技の素晴らしさを世に広め、後世に残したいという「余計なお節介」をする人がいなくちゃいけない。これは「持ち出し」だから、市場原理では説明できない。でも、そういう余計なことをする「旦那」がいて、玄人と素人二つの世界の両方に架橋してゆくことをしないと、芸能や技術は絶えてしまう。こんなふうに「仲を取り持つ」存在も、ある種「習合的な機能」を果たしていると言えるんじゃないかな。

 境目にまたぐということですよね。

内田 僕は単一のカテゴリー内でランキングされるのが嫌いなんですよ。旦那は、いろんなランキングに顔を出して、いろいろな領域を架橋する。僕自身どこに行っても気がついたらそういう「つなぎ役」をしている。そういう気質なんです。だから、「習合」というアイディアに惹かれたんじゃないかな。

(後編に続きます)

ミシマガ編集部
(みしまがへんしゅうぶ)

編集部からのお知らせ

イベント予告:内田樹先生と、三砂ちづる先生のオンライン対談を開催します!

『日本習合論』発刊記念 内田樹×三砂ちづる対談「少数派で生きていくために」
日程:10月14日(水)19時~20時半
「少数派」をそれぞれ自認するお二人が声を大にして伝えたい共生の話をうかがいます。
分断と対立が続く世界で、いま聞きたい言葉です。

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