日本習合論

第12回

内田樹×後藤正文 対談「習合と音楽〜創作と想像をめぐる対話」(1)

2021.03.07更新

 2020年9月に発刊した、内田樹先生の新たな代表作『日本習合論』。刊行記念イベントとしてこれまで、「習合」をテーマに韓国の独立研究者・朴東燮さん「少数派」をテーマに疫学者の三砂ちづるさん「宗教」をテーマに宗教学者の釈徹宗さんとの対談を開催しました。そして第4弾となる今回のゲストにお呼びしたのは「ASIAN KUNG-FU GENERATION」のフロントマンであり、ソロではGotchとして活躍する後藤正文さん。

 第一線でロックの旋律に日本語の歌詞を載せることを深めてこられた後藤さんと、日本の音楽は「習合」という切り口から語ることができるのか、また習合と創作の関係をめぐって縦横無尽にお話しいただきました。

 2021年2月23日に開催したMSLive! での対談を、今日と明日の2日間でお届けします!

(構成:田渕洋二郎)

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『日本習合論』内田樹(ミシマ社)

『日本習合論』の着想は、音楽にあり!

内田 日本列島はユーラシア大陸の東の端ですから、中国大陸や朝鮮半島を経由していろいろな制度文物が入ってきます。でも、列島の東は太平洋で、もう先がない。だから、入ってきたものは列島で止まって、そこに蓄積されて、混ざり合った。そうやって日本独自のハイブリッド文化が生まれた。というのが加藤周一の雑種文化論です。『雑種文化論』は原理論なので、僕は『日本習合論』では、外来のものと土着のものが「くっついて」、そこからどこにも類を見ないような新しいものが生まれた事例をいろいろとりあげて、具体的に論じてみました。

 例えば、「君が代」は、イギリス人の軍楽隊長フェントンが外交プロトコル上「国歌」というものが必要だということを言い出して、薩摩琵琶の「蓬莱山」の歌詞に旋律をつけ、ドイツ人エッケルトがいまのかたちに改作してできた曲です。日本の旋律ではなく、あえて西洋の旋律に日本古来の歌詞を載せたものを「国歌」にしている。そういうところがいかにも習合的で、こういうのが「日本らしい」んだと僕は思います。

 少し前にフランスで日本の60〜90年代ポップスのコンピレーション・アルバムが出ました。それについてオリヴィエ・ラムさんという批評家が『リベラシオン』に「日本のポップスは1970年代初頭に同時代に世界のポップスのポールポジションを制していた(でも日本以外の人は誰もそれを知らなかった)」と書いていました。そして、日本のポップスの代表的な存在として、はっぴいえんど(細野晴臣、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂による日本のロックバンド)を挙げていました。

 はっぴいえんどはロックの旋律とリズムに日本語の音韻と日本の叙情を載せた「日本語によるロック」をめざしたバンドなんですけれど、彼らの「習合」の試みが、同時代においてはポップミュージックとしての世界で最も先端的だったというラムさんの評価は僕にはすごくうれしいものでした。

 大瀧さん自身も、日本の民衆音楽というのは、明治時代からずっと外来のものを日本伝来のものと「くっつけて」できたものだということをNHKラジオの「日本ポップス伝」で話していて、はっぴいえんどの音楽も、バッファロー・スプリングフィールドの音に松本隆さんの書く日本語詩を「くっつける」という点で、日本の伝統的な文化摂取のしかたを忠実に踏襲していたものだった、と大瀧さんは番組の終わりに総括していました。

 僕の「習合論」の骨格になっているアイディアは、実は大瀧さんの「ポップス伝」なんです。大瀧さんの音楽史の方法をもう少し広げてみた。だから、『日本習合論』本は「音楽にインスパイアされた書物」なんです。

後藤 なるほど。僕のソロの2nd アルバムは、日本語と英語が混在したアルバムだったんですけれど、それを内田先生にお送りしたとき、「このアルバム構成は他の国のロックアルバムにはないんじゃないか」とメールをくださったことを思い出しました。

 そのとき、「文体」の話にもなったんですけれども、メールには「自分らしい文体に向かって右往左往をするときに、自分らしい文体が際立つんだ」と書いてありました。僕の周りの仲間にも英語と日本語を行ったり来たりしている人たちが多いので、あるときその話をしたら、みんな唸っていて、参考になりました。

内田 僕は複数の淵源から出て来たものがあわさってできた音楽がとにかく好きなんですよ。60年代にヒットした曲にホセ・フェリシアーノの「カリフォルニア・ドリーミング」というのがありますけど、最初はママズ&パパスのオリジナル通りの英語で歌い出すんだけれど、途中からスペイン語に変わる。言語が替わると、発声もギタープレイも変わる。アメリカのポップスとスペイン音楽が習合してしまう。そこがすごくかっこいいんですよね。

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競争と多様性はトレードオフ

後藤 いま「Radio Garden」という、世界中のコミュニティ FM で流している音楽を聴けるアプリがあるんですよ。ブラジルのコミュニティラジオだったり、インドのラジオ局でリアルタイムで流している音楽が聴ける。それがすごく面白いんですよね。メインストリームの音楽では見つからない新しい発見がある。

 一方で、「音楽で成功すること」はアメリカへ進出したり、英語圏のマーケットでヒットすることみたいな錯覚がある。そこで売れているものがあたかも「世界音楽」みたいに捏造されることがあるけれども、Radio Gardenを聞いていると、世界音楽ってもうその土地、土地で違うことに気づくんです。

 内田先生の話を聞くと、はっぴいえんど的に自分たちのユニークさを追求することが芸術的な喜びを深めていくことになって、自分たちにしかできないニッチなことをすることが幸せなのに、どうして世界マーケットに憧れちゃうんだろうとも思うんです。ミュージシャンとしてどう歩むことが面白いのかなあ、と。

内田 学校教育もそうなんだけれど、競争と多様性は両立しないんですよ。競争で勝つためには、競争している人たちを単一の「ものさし」で数値的に考量して、相対的な優劣を決めるという仕組みを受け入れなければいけない。

 身体能力を見るというときに、サッカーしている人と、ダンスしている人と、相撲をしている人を同じ「ものさし」では計ることができないですよね。それを査定しようとしたら、例えば、全員に100メートル走らせて、そのタイムを身体能力の数値的指標とするというふうに単一の「ものさし」を当てはめるしかない。そんなの無意味でしょ。でも、100メートルのタイムだけでアスリートとしての優劣が決まるということになったら、みんな仕方がないから、必死になって100メートル走のトレーニングをするようになる。それって、つまらないじゃないですか。

 音楽もそうだと思う。成功とか失敗とか言い出すと、必ず数値的な「ものさし」を持ち込むことになる。同じようなことをして、その中で誰が一番「売れた」かを気にするようになる。「みんなができることを、みんなよりうまくやる」ことに必死になる。競争していると、みんな顔つきが似てきてしまう。競争すると多様性が失われる。

 宮崎駿さんが前にインタビューで、ジブリは国際的なマーケットでの成功をめざして作品を作っているわけじゃないと言っていました。「日本の子どもに向けて作ってるんだ」って。それが結果的に世界のマーケットで評価されても、それは「ボーナス」みたいなものなんだから、最初から「世界を狙う」というようなことはしない。たぶん、世界を狙うというようなことから始めると、マーケットリサーチをしたり、「当たる企画」を考えるというようなことになるのがいやだったんでしょうね。

後藤 若いミュージシャンが聞いたら勇気になるような言葉ですね。結局同じことをうまくできるやつが売れてるというのは、ものすごく面白いです。

 僕の周りでも、プロデュースをしていると、売れる売れないで傷つく子たちが僕も含めて多いんですけど、やりたいように作品を実現させることが成功だよな、と思うんです。

 希望に思ったのは大滝さんとか細野さんとかはどう考えても天才なんですけど、時間をかけて30年とか40年後に欧米でユニークなものとして評価された。この感覚は大切というか、今「いい!」と言われなくてもいいのかなって。

親切に書こうとすると、エネルギーが湧いてくる

内田 そう。「売れる作品」と「残る作品」って全然違うと思う。ある作品が、100年後にもreadableな本、audibleな音楽かということと、リアルタイムで「売れる」とか「評価される」ということとは必ずしも相関しない。

 ある時点で、すごく売れた作品が、ただ消費されただけで、数年後には誰も覚えていない・・・ということはよくありますから。それよりは、歴史の風雪に耐えて生き残る作品の方が僕は価値があると思うし、クリエーターはそれをめざすべきだと思う。それに「残る作品」というのはだいたい「変な作品」なんですよね。

「変なもの」はだいたい売れない。でもね、「この作品の真価が理解できるやつはオレの他にはほとんどいないだろうなあ・・・」と思ってくれるファンがいる。彼らがボランティアで「伝道師」になってくれる。「こんなにすばらしいのに、正当に評価されていない」という思いがあるから伝道活動に気合が入る。

 だから、ある時期に全国的に売れて、「誰からも愛された」作品よりも、さっぱり売れなかったけれども、「この作品の価値を自分が世に伝えなくて、誰が伝えるのだ」というタイプの熱いファンを世代を超えて持つことができた作品の方が歴史を生き残る力があるんじゃないかな。

後藤 勇気づけられますね。たしかに一人でもそうやって認めてくれる人がいるとすごいエネルギーになる。

内田 一人でも褒めてくれる人がいると力強いもの。でも、それだけじゃない。もう一つ、すごくエネルギーが出るものがある。それはね、「人に親切にする」ってこと。僕は文章を書くとき、とにかく「読者に親切に」ということを心がけて書くようにしてる。その方が書いていて楽しいし、書いていているうちにどんどん力が湧いてくるから。

「親切に書く」というのは、例えば、説明するときに手を抜かない、嘘をつかない、根拠のないことを書かない、論理が通じてないのに通じているふりをしない・・・とか、そういうこと。「親切に書く」は「簡単に書く」とは違う。読者の知性と読解力には信頼を置く。でも、できるだけすらすらと気分よく読めるように努力をする。

「評価されることをめざして書く」ということになると、書いている現在と、評価されている未来のあいだにタイムラグができるじゃないですか。高く評価されたら、それで元気になるというのだと、書いている「いまここ」ではまだ元気が出ない。でも、「親切に書く」というのは、「いまここ」ですぐに元気になれる。

 すごく才能があるんだけれども、いま一つ仕事に広がりや深さがないという人がいるでしょ。彼らを見ていると、だいたい「親切じゃない」ことが多い。自分にどれくらい才能があるか、どれくらいセンスがいいか、そういうことをアピールすることにはずいぶん熱心なんだけれども、誰かに親切にしようという構えが見当たらない。

 それより、とにかく自分の作品を受け取る人に対してできるだけ「親切にしよう」と思ってやる。そうすると、言葉づかいも、作品のプレゼンテーションの仕方も、ぜんぜん変わってくると思うな。

後藤 先生のおっしゃっているのは、ただ簡単にして、読者に読みやすくという意味じゃないですもんね。

内田 そう。「親切にする」ということは「簡単にする」ということとは違う「簡単にする」というのは、相手を見下しているということでしょ。そういうのはすぐわかるんです。決して相手に屈辱感を与えないのが「親切」。

 小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、同級生がお金を集めて、すっかり貧しくなってしまった中学時代の恩師に届けるというエピソードがある。みんなから預かったお金を持って、笠智衆が東野英治郎のところに届ける。そのときに、先生に決して屈辱感を与えないようにしながら先生に「施し」をするというきわめて困難なミッションを遂行しなければならない。この場面がとってもいいんですよ。そういう課題を引き受けることを通じて人間は「大人」になるというのが見ていてわかる。親切にするって実はけっこう難しい仕事なんですよ。そして、親切になることによって人は成熟する。

後藤 僕が音楽をつくるときは、「信頼する」みたいなかたちですかね。この面白さを分かってくれる奴が絶対いる、みたいに。

内田 そう。読者に対する「目くばせ」みたいなものを発信すると、それを感知してくれる人がいるでしょ。大瀧さんは1曲つくるのに20曲くらいの引用を仕込むんだそうですけど、あれはリスナーに対する「贈り物」なんだと思う。リスナーが聴いて、「あ、このフレーズはあそこからの引用だな」ってわかると、その瞬間に作曲家とリスナーの間に「ホットライン」が繋がるから。それがどこからの引用か、わかる人間が少ないほど繋がりは「ホット」になる。

 ポップスを聴き始めたばかりの中学生が聞いても、「これってあれじゃん」てわかるネタが2つや3つはあるし、10年20年聴き込んでいるディープな聴衆だと「これがわかった人間は世界にオレしかいないんじゃないか」という喜び方ができる。いろんなレベルのリスナー全員に大瀧さんは「贈り物」を仕込んでいる。そういうのを親切というんだと思います。

(後編はこちら

ミシマガ編集部
(みしまがへんしゅうぶ)

編集部からのお知らせ

Gotchさんが3rdアルバム「Lives By The Sea」をリリースしました!

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前作「Good New Times」から約4年半ぶりとなるソロアルバム「Lives By The Sea」のLP/CDが、3/3から発売!

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本対談のアーカイブ動画を、期間限定配信中です!

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本対談のアーカイブ動画を、3/31(水)までの期間限定で配信中です! ぜひ動画にて、両先生のお話を全編通してご視聴くださいませ。

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