利他的であること

第4回

業力-It's automatic その3

2020.11.08更新

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この連載が本になりました。ぜひ書籍でもご覧ください。

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『思いがけず利他』

業とは何か?

 ここで「業」について、考えてみましょう。「業」とは一体何か。

 ヒンドゥー教において「業」(カルマ)とは、輪廻という観念と結びつくため、前世の「報い」として語られます。いまの自分が苦しい思いをしているのは、前世の悪行の報いであるとされ、因果論や決定論、宿命論として機能します。

 しかし、仏教では「業」を宿命論から解放しようとします。仏教とヒンドゥー教は同じインド世界で誕生した宗教ですが、対立点があります。それはアートマンの存在をめぐる見解の相違です。アートマンとは、意識の最も深い内側にある個の根源を意味し、「真我」と訳されます。ヒンドゥー教では、このアートマンが宇宙の摂理であるブラフマンと同一の存在である(=梵我一如)と説かれます。

 これに対して、仏教では「アートマン」の存在を否定します。むしろ、存在しない「真の我」に固執することで「我執」が生まれ、苦しみが増幅されると言われます。絶対に変わることのない我という幻想から解放され、「無我」を認識すること。これが大切だと説かれます。

 仏教では「無我の我」というあり方が説かれます。「無我」というのは、アートマンの否定です。世の中は無常であり、常に変化の途上にあります。だから、「我」もまた無常で、変わりゆく存在です。

 では、仏教では「私なんていない」と主張しているのかというと、そうではありません。「私」はここに存在します。では、ここにいる「私」とは、どのような存在なのか。

 それは「変わりゆく私」です。私たちはいろいろな人と出会います。本などを通じて、思想や観念と出会い、物語と出会います。動物との出会いもある。自然との出会いもある。一枚の絵との出会いによって、人生が変わってしまうかもしれない。私たちは、日々、新たな出会いを繰り返しながら、生きています。

 ここで仏教にとって重要な観念が登場します。「縁起」です。私たちは、無数の可能性の中から、極めて限定された出会いを経験しています。いまこの文章を読んでくださっていること自体、とても奇跡的な出会いです。なぜこの文章を読むことになったのかを辿っていくと、それは無数の「縁」が連鎖し、ここに至ったことがわかると思います。全ての現象は、様々な原因や条件が折り重なり、相互に関係しあうことによって成立しています。特定の存在は、それ自体として独自に存在しているわけではありません。

 私という存在だって、同じです。いまの私が存在し、いまの私が特定の価値観を持って生きていることは、複雑な縁の相互関係によって成り立ったものです。そして、これから新たな「縁」を得ることで、私のあり方はどんどん変化していきます。これが「無我の我」です。アートマンは存在しない。だからこそ、「縁起」という力によって生成し、変化し続ける「我」が存在する。「我」とは一種の現象である。これが仏教の存在論です。

 そのため、仏教における「業」は宿命論ではありません。それは「縁起による業」です。私は常に縁起的現象として存在しています。私が私を所有しているのではありません。私は「縁起」によって変化し続ける存在です。

 これは「私らしさ」という軛(くびき)から、私を解放してくれます。「私らしくあろう」とすることで、私は「仮想の私」「あるべき私」に支配され、苦しんでいます。「縁起」による「無我の我」という考え方は、そんな「私への固執」(=我執)から私を解放し、無限の変化への扉を開いてくれます。「無我の我」という教えは、自分探しという迷路から、私を救出してくれます。

 しかし、一方で、「縁起」というのは怖い存在でもあります。なぜなら、この先の私は、縁によってどのような振る舞いをするか分からない存在だからです。今の私だってそうです。私という存在は、自分でも手のつけようのない深い煩悩を抱えた存在であり、今後、新しい変化を遂げたとしても、欲望から逃れることはできないでしょう。むしろ、とんでもない存在になってしまうことだってあり得ます。

 私の力ではどうにもならないもの。縁という力に支配されているもの。これが私をめぐる「業」です。

親鸞の「悪人正機」

 この「業」の問題を深く探究したのが、親鸞です。彼は人間の「どうしようもなさ」と徹底的に向き合い、自力の限界を見つめた僧侶です。

 親鸞の説いた有名な概念に「悪人正機」があります。これは親鸞の死後、弟子の唯円が書いた『歎異抄』に明記されています。

 『歎異抄』第3章には「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と書かれています。これは「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」という意味ですが、文字通り読むと、大変な誤解を受ける文章です。現に「悪人こそが救われるのであれば、盗みや傷害など、悪行を重ねた方が往生できる」と解釈し、あえて犯罪を行う人まで出てきてしまいました。

 もちろん、親鸞は犯罪を奨励しているわけではありません。「悪人正機」を理解するためには、もう少し『歎異抄』を読み進めてみる必要があります。

 親鸞は次のように言っています。

【原文】煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

【現代語訳】煩悩にまみれたわたしたちが、どんな修行をしたところで、生死の迷いを離れることが出来ないのを、あわれとお思いになって、願を立てられた阿弥陀仏のご本意こそは、悪人を救いとって仏とするためであるから、阿弥陀仏の本願にすべておまかせしきっている悪人こそ、じつは浄土に生まれるのにもっともふさわしいひとなのである。

 ここで考えなければいけないのは、「罪」という概念です。「罪」は英語でcrimeとsinという単語があります。

 Crimeというのは「犯罪」です。他者を傷つけたり、物を盗んだりすると、私たちは警察に捕まり、法に従って処罰を受けます。これに対してsinは「存在すること自体の罪」です。

 私たちは、毎日、何かを食べて生きています。その食べ物は、すべて生き物です。肉であろうと野菜であろうと、私たちは常に動植物の命を奪って生きています。私たちは何かを殺しながら生きています。殺さなければ生きれない存在。それが人間です。

 この「生きること」そのものに組み込まれた罪がsinで、親鸞はsinにかかわる「悪」から、人間は逃れることができないことを深く認識しました。

 人間は煩悩によってできている。だから欲望や怒りなどから解放されることがない。常に迷いの中に生きていくしかない「どうしようもない存在」である。阿弥陀仏は、そんな人間の醜さを照らし出す。しかし、その光によって、私たちは自己の「悪」に自覚的になり、反省的契機をつかむことができる。そんな仏の光に照らされた人間こそ、救いを得ることができる――。これが親鸞の「悪人正機」の考え方です。

 ここから自力の限界と他力の救いという考え方が導かれます。「煩悩具足の凡夫」である人間は、愚かで弱い存在です。その能力には決定的な限界があり、自分の力ではどうしようもできないことがたくさんあります。人間の本質は、絶対的な無力です。私たちの命は有限で、全ての人間が死を迎えます。私たちは死にあらがうことができません。

 しかし、そのような限界や悪に気づいたとき、私たちに「他力」がやって来ます。「他力本願」というと、「他人まかせ」という意味で使われますが、浄土教における「他力」とは、「他人の力」ではありません。「阿弥陀仏の力」です。「仏力」というように言い換えた方が理解しやすいかもしれません。

 自力に溺れている者は、他力に開かれません。自分の力を過信し、自分を善人だと思っている人間は、「自力」によって何でも出来ると思いがちです。一方、「自力」の限界を見つめ、自分がどうしようもない人間だと自覚する人間には、自己に対する反省的契機が存在します。この契機こそが、他力の瞬間です。私たちは絶対的な仏の存在に照らされ、深い反省と共に、仏の光に包まれる。親鸞が見つめ続けたのは、この瞬間にほかなりません。私たちは、このとき真の念仏に出会う。何かを求めて念仏(「南無阿弥陀仏」)を誦えるのではなく、念仏が阿弥陀仏からやってきて、私たちの口から発せられるのです。

中島岳志

中島岳志
(なかじま・たけし)

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』『朝日平吾の憂鬱』『保守のヒント』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『保守と大東亜戦争』、共著に『現代の超克』(若松英輔、ミシマ社)などがある。

編集部からのお知らせ

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