利他的であること

第12回

与格-ふいに その5

2021.03.23更新

親鸞『教行信証』のスタイル

 私は、このような人間のあり方を見つめたのが、親鸞という宗教家だったと思っています。「自力」を徹底的に疑い、「他力」に促される「私」を見つめた親鸞は、常に与格構文で「私」を捉えていたのではないでしょうか。
 これは親鸞の主著である『教行信証』のスタイルによく表れています。親鸞といえば『歎異抄』が真っ先に頭に浮かぶと思いますが、これは第1章でふれたように、親鸞が書いたものではありません。弟子の唯円が、親鸞の言行録として記したものです。親鸞本人が書いた主著は『教行信証』です。しかし、こちらはあまり広く読まれていません。なぜでしょうか?
 それはこの本の読みにくさに要因があると思います。親鸞は鎌倉時代に生きた僧侶なので、古い日本語で書かれています。現代の私たちが読みにくく感じるのは当然です。しかし、この本は現代語訳になっても読みにくい。ページをめくる手が、どうしても止まってしまいます。
 その原因は、引用の多さにあります。『教行信証』の本文の大半は、親鸞以前の仏典や仏教者の著述の引用で構成されています。そして、引用と引用の間に、親鸞自身の言葉が添えられています。まるで引用文同士の懸け橋になるように。なので親鸞の書いた本を読んでいるというよりも、いろんな仏典の引用集を読んでいる気分になります。引用された仏典の時代背景はまちまちです。文体も統一されていません。なので、本の流れをつかむことが難しく、どうしても引用が切り替わるたびに、突っ掛かってしまうのです。
 このようなスタイルで、しかもかなり膨大な分量があるため、初学者は必ずと言っていいほど、躓きます。なかなか最後まで読み通すことができず、途中で挫折してしまうのです。何を隠そう、私も何度となく途中で挫折しました。
 親鸞は比叡山の僧侶たちのエリート主義に背を向け、一般社会の中に入っていった人物です。そして、自己の罪深さに苦しむ庶民に、他力の教えを説いていった人です。親鸞の目の前にいたのは、文字を読むことのできない無学の人たちでした。そのような人たちに、日々、教えを説いた親鸞は、権威主義から最も遠くに立っていた僧侶です。現実の場面では、とても平易に教えを説いたはずです。現に、『歎異抄』に描かれている親鸞の姿は、とても親しみやすく、わかりやすい言葉で話をしています。なのに、なぜ『教行信証』は難しいのか。なぜ引用ばかりで構成されているのか。
 それは、親鸞が「言葉の器」になろうとしていたからだと思います。親鸞にとって、『教行信証』を書く自分は、先人の言葉を繋ぐ触媒に過ぎません。言葉は私のものではなく、私にやってきて留まっているもの。自分がオリジナルの何かを表現できるというのは、賢しらな自力に他なりません。言葉は常に過去からやって来るもの。そして、その背後にある浄土からやって来るもの。だから、『教行信証』は「言葉の器」になった自分を、そのままの形で表現するという方法がとられました。『教行信証』は、その内容以上に、そのスタイルが思想であるような書物です。

「今、いのちがあなたを生きている」

 2011年から12年にかけて、浄土真宗の諸教団は、親鸞の「750回大遠忌法要」を行いました。一連の行事は、東日本大震災と重なったため、大幅に縮小されて開催されましたが、この「法要」に向けて、数年前から様々な準備が積み重ねられていました。
 京都の東本願寺を本山とする浄土真宗大谷派は、この時、テーマとして次のような言葉を掲げました。
 ――「今、いのちがあなたを生きている」
 私は、特に大谷派の檀家であるわけではありません。組織に属している人間ではありません。しかし、この言葉は、親鸞の世界観を表す素晴らしい言葉だと思っています。
 私たちは通常、私がいのちを生きていると思っています。生きていることを、主格でとらえています。しかし、この言葉は、「いのち」の与格性を表現しています。私が「いのち」を生きているのではない。「いのち」が私を生きている。私は「いのちの器」であって、「いのち」の所有者ではない。そんな与格的生命観が、言い表されています。
 親鸞の他力思想は、与格的主体によって成立しています。浄土真宗では「如来の呼びかけ」という言葉がよく使われます。阿弥陀仏は、衆生を救済しようと、常に呼びかける存在です。問題は、その呼び声を聞くことができるかどうかです。自力を過信し、自分の能力で何でもできると考えると、私たちは阿弥陀仏の声に耳を澄まそうとしません。阿弥陀仏の声を聞くためには、自己の限界を見つめる謙虚な姿勢が必要で、そうしなければ私たちは他力に対して自己を開くことができません。
 近代日本を代表する仏教者で、大谷派の僧侶だった高光大船は、次のように言っています。

聞こうとして聞こえる救済ではなく、己を投げ出すとき、聞こえてくる救済である。

 仏の声を聞こうとすることは重要です。しかし、ここには聞こうとする計らいと自力が存在します。大切なのは、無力に立つことです。自力の限りを尽くした末、それでもなおどうにもならない場面に出会ったとき、私たちは決定的な無力を知ります。この「無力の場所」に立ち尽くした時、聞こえて来るのが仏の救済です。他力は常にやって来るもの。仏の声は「聞くもの」ではなく「聞こえてくるもの」。与格的な存在です。

中島岳志

中島岳志
(なかじま・たけし)

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』『朝日平吾の憂鬱』『保守のヒント』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『保守と大東亜戦争』、共著に『現代の超克』(若松英輔、ミシマ社)などがある。

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