利他的であること

第2回

業力-It's automatic その1

2020.10.07更新

落語「文七元結」-長兵衛はなぜ文七に五十両を差し出したのか

 私が「利他」という問題を考える際、その核心に迫っていると考える落語の噺があります。「文七元結」です。この噺は明治中期に三遊亭圓朝が創作したもので、明治政府の中核に就いた薩摩・長州出身者に対して「江戸っ子気質」を提示した噺とされています。
 元来の江戸っ子にしてみれば、薩摩・長州の出身者は田舎侍です。そんな彼らが政治権力を握り、東京の町を闊歩する姿が気に入らなかったのでしょう。「江戸っ子の心意気をみせてやる」という思いが、「文七元結」には反映されていると言われています。
 この噺の主人公は長兵衛。腕のいい左官職人です。しかし、あるときから博打にはまってしまい、仕事がおろそかになってしまいました。妻のお兼と娘のお久は、貧困生活を余儀なくされます。家財道具や着物は、大方売ってしまい、家にはわずかばかりの生活用品しか残っていません。それでも長兵衛は博打をやめず、なかなか家に帰ってきません。
 ある日のことです。長兵衛が博打を終えて家に帰ると、お兼の様子がいつもと違います。聞くと、お久が昨晩から家に帰って来ず、あちこち探したものの、見つからないと言います。困っていると、そこに吉原の「佐野槌」という店の番頭がやって来て、「うちへ来ていますよ」と言う。長兵衛は妻の身につけている着物を借り、吉原に駆けつけました。
 すると、佐野槌の女将が出てきて、長兵衛に説教を始めます。せっかく腕のいい職人なのに、博打ばかりして家族を困らせている。時に暴力まで振るう。娘は家を出て、吉原に「身を沈める」ことで、お金を作ろうとしている。「長兵衛さん、悪いと思わないのかね。どうする気なんだね」。
 女将は一つの提案をします。いまから50両を貸すので、真面目に働いて、来年の大晦日までに返しに来ること。それまで娘は自分が預かり、用事を手伝ってもらう。もし、約束を守れず、50両を期日までに返せなければ、娘は店に出す。「どうする長兵衛さん、性根据えて返事をおし・・・」
 長兵衛は女将と約束をし、50両を受け取ります。そして、女将に促され、娘に礼を言います。これまで威張っていた父が、自己の不甲斐なさを突きつけられ、娘に頭を下げるこの場面は、落語家にとって腕の見せ所です。
 店を出た長兵衛は、帰り道を急ぎます。そして、浅草の吾妻橋にさしかかったところで、一人の若者が川に身投げをしようとしていることに気づきます。慌てて若者をつかみ、飛び込むことを阻止すると、若者は涙ながらに「どうぞ、助けると思って死なせてください」と懇願します。事情を聞くと、取引先から預かった50両を道で盗まれたと言い、店の主人に申し訳が立たないと話します。何度も長兵衛が止めるものの、ふとした隙に、若者は川に飛び込もうとします。
 ここで長兵衛は苦しみます。懐には先ほど借りたばかりの50両がある。これを若者に渡せば、彼の命を救うことが出来る。しかし、この50両は娘が作ってくれたお金で、これを手放してしまうと、借金返済は不可能になる。どうするべきか。
 長兵衛は悩み抜いた末、50両を差し出します。そして、大金を持っている事情を話し、娘が客を取ることになっても悪い病気にかからないよう「金比羅様でも不動様でもいいから祈ってくれ」と言います。そして50両を投げつけて、その場を去って行きました。
 若者の名は文七。彼は50両を手に店(近江屋)に戻ると、盗まれたと思っていたお金が届いており、取引先に置き忘れててきたことがわかります。文七は動揺します。そして、吾妻橋で死のうとしていたところ、名も知らない人から50両もらったことを主人に打ち明けます。
 主人は50両を差し出した男に感銘を受け、番頭を使って探し出します。やっとのことで家を突き止め、文七と共に50両を届けに行きます。
 主人は長兵衛に50両を返却した後、「表に声をかけてくれ」と言います。すると、そこにはきれいに着飾った娘のお久が立っていました。50両を佐野槌に渡し、着物を買い与え、お久を連れてきたのです。
 「お久が帰ってきた」と長兵衛が言うと、着物を夫に貸して、裸のままのお兼が飛び出してきます。親子3人、その場で抱き合って涙を流します。その後、文七とお久は結婚し、「文七元結」という小間物屋を開業した。これが「文七元結」という噺のあらすじです。人情噺の代表作とされ、これを十分に演ずることができれば一人前の真打ちとして認められるとされる作品です。
 ポイントは、50両と共に起動する「利他」です。父を助けようとする娘、長兵衛を助けようとする女将、文七を助けようとする長兵衛、そして近江屋の主人。利他的贈与が連鎖し、50両が循環することで、皆に幸福がもたらされます。
 しかし、重要なことは長兵衛が必ずしも「根っからの善人」や「規範的な人間」ではないということです。いや、むしろ博打に明け暮れ、家族に暴力を振るうどうしようもない人間です。そんな長兵衛が、大切な50両を、たまたま出会っただけの若者にあげてしまう。しかも名前も告げずに去ってしまう。その動機は何なのかが、この噺の勘所であり、最大の謎です。
 なぜ長兵衛は、名も知らぬ若者に50両を差し出したのか?
 この解釈は、演ずる落語家によって分かれます。
 まず【解釈A】は、「文七への共感」です。長兵衛は、吾妻橋で身投げしようとする訳(わけ)を聞きます。すると、近江屋にとって大切な50両を、自分の不注意で盗まれてしまい、主人に申し訳が立たないことが理由だとわかります。この文七の「主への忠義」に感じ入ったから、そして文七の「正直さ」「まっすぐな生き方」に心を動かされたから50両を差し出したというのが、この解釈です。
 もう一つの【解釈B】は「江戸っ子の気質」という、なかなか説明が付かない理由です。「俺も江戸っ子だ」と語る噺家もいれば、「見殺しにしては目覚めが悪いから」と語る噺家もいますが、共通するのは、あえて明確な理由を提示しないことです。行動のあり方から「江戸っ子」の気風を表現しようとします。

古今亭志ん朝と立川談志の解釈

 私は落語通というわけではないので、あらゆる噺家の「文七元結」を聞いたわけではありません。数は限られています。ですので、断定はできませんが、「文七元結」の演じ方としては、概ね【解釈A】と【解釈B】が混合した形式が多いように思います。
 例えば、三代目古今亭志ん朝。いわずと知れた戦後を代表する落語家ですが、彼が40代の頃に演じた「文七元結」では、【解釈A】と【解釈B】が重層的に語られています。
 長兵衛は50両を差し出す寸前に、ふと「ばか正直なんだな、てめえは」と漏らします。これは非常にぶっきらぼうな言い方ですが、青年の純粋さへの共感がさりげなく示されています。長兵衛が文七の人柄に惹かれ、何とかして「誠実なこの青年を助けたい」という意思を持っていく様子が演じられます。これが【解釈A】の部分です。
 一方、長兵衛は「黙って帰ると形がつかない」と言い、50両の受け取りを拒否する文七に対して「一度出したものを引っ込めるわけにはいかねえ、もってけ」と突き放します。これなどは明らかに「江戸っ子気質」を強調する台詞で、【解釈B】の部分に当たります。
 志ん朝は、【解釈A】と【解釈B】を巧みに織り込み、あっという間に長兵衛と文七の人物像を浮かび上がらせます。さすが名人で、思わず聞き惚れてしまいます。
 これに対して、ライバル関係にあった立川談志は、異なったアプローチでこの場面を演じます。談志の特徴は、明確な【解釈A】の欠如です。2003年10月に京王プラザホテルで演じた「文七元結」では、「江戸っ子だ、言ってみろ」「江戸っ子だからな」と語り、「江戸っ子気質」が繰り返し強調されます。そして、「(吾妻橋を)通った俺が悪いんだから」と、偶然性や運命を贈与の理由にします。「何か言え、畜生!」「あーっ、あーっ」と逡巡し、さんざん苦悶したあげく、しかたがないといった感じで「50両やろう」と言います。
 もう一つ重要なことがあります。談志は夜の吾妻橋に、霧をかけます。この場面は、すべてが霧の中で展開します。つまり誰も見ていない。長兵衛の行為を誰かが見ていて、「あいつはえらい奴だ」と言ったような社会的評判になることはありません。二人の間だけで展開する出来事です。
 談志は、1992年の高座を収録したDVDに「文七元結」を収録し、次のようなコメントを添えています。

世の中、これを美談と称し、長兵衛さんの如く生きなければならない・・・などと喋る手合いがゴロゴロしてケツカル。大きなお世話である。

 談志は、長兵衛の贈与を「美談」とすることを拒絶します。長兵衛が文七に共感し、青年を助けたいという良心を起こして50両差し出すという解釈を退けます。
 談志は一体、長兵衛の行為をどう捉えているのか。ここに私は贈与を考える重要なポイントがあると思っています。

中島岳志

中島岳志
(なかじま・たけし)

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』『朝日平吾の憂鬱』『保守のヒント』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『保守と大東亜戦争』、共著に『現代の超克』(若松英輔、ミシマ社)などがある。

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