利他的であること

第5回

業力-It's automatic その4

2020.11.18更新

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『思いがけず利他』

人間の業、仏の業

 親鸞はこの地点から「業」について考察します。親鸞の議論のポイントは、業に突き動かされているのは人間だけではなくて、仏も同じだという点です。
 まず人間の側から見ていきましょう。繰り返しになりますが、人間は自己のどうしようもなさを、阿弥陀仏の「大悲の光明」に映し出されることで気づきます。他力に照らされた衆生が、「煩悩具足の凡夫」であることを深く認識し、「罪業深重の業」に気づく。これが「機の深信」といわれるものです。反省的契機の瞬間が、同時に仏からの救済の瞬間なのです。
 一方、仏の側の業(=仏業)ですが、これは阿弥陀仏の「大願業力」と表現されます。阿弥陀仏のはたらきで、衆生を救済する他力です。
 ここで重要になるのが法蔵菩薩の存在です。法蔵菩薩というのは阿弥陀仏(=阿弥陀如来)の前身です。法蔵菩薩は長い年月、修行を積み、功徳を積み重ねた末に阿弥陀仏になったのですが、その過程で「願」を起こします。これを「四十八願」と言います。
 48個ある「願」の中で重要なのが、「十八願」です。法蔵菩薩は、たとえ自分が仏になるとしても、全ての衆生が往生することがなければ 私は仏にはならないと宣言します。そして、最終的に「四十八願」が成就し、阿弥陀仏になりました。この法蔵菩薩の請願(四十八願)のことを「大願」と言い、四十八願に基づく衆生救済の力を「大願業力」と言います。阿弥陀仏が衆生にはたらきかける仏業、つまり「他力」です。「他力」はすなわち「仏の業」なのです。
 親鸞の主著『教行信証』には、次のように記されています。

【原文】一切善悪の凡夫、生まるることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなきなり、と。

【現代語訳】善人悪人を問わずどのような凡夫でも、阿弥陀仏の業力に乗託する限り、必ず極楽浄土に往生することができる。

 さて、ここで疑問がわきます。なぜ阿弥陀仏の「他力」は「業」なのでしょうか。
 「業」とは、止まらないものです。仕方がないものであり、どうしようもないもの。不可抗力であり、意思を超えた存在です。つまり「オートマティック」なものです。
 宇多田ヒカルさんのヒット曲に「Automatic」があります。この曲の歌詞に、次のような一節があります。

It's automatic/側にいるだけで その目に見つめられるだけで/ドキドキ止まらない Noとは言えない/I just can't help

 あなたがそばにいて、見つめられているだけで、ドキドキが止まらない。ドキドキしたいと思っているわけでも、ドキドキしようと思っているわけでもない。どうしようもなくドキドキしてしまう。それはオートマティックなもので、意思を超えたもの。不可抗力です。
 「業」とは、It's automaticなのです。私たち衆生の業もオートマティックなものですが、仏の業もオートマティックなものです。仏は衆生を救ってしまうのです。煩悩にまみれ、悪人としてしか生きることのできない私たちを、必ず救済する。そんな「他力」は、止まらないものです。
 仏はどうしようもなく、私たちを救済してしまう。だから仏の「業」なのです。

「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」

 さて親鸞は、ここから「利他」の問題を考えます。すなわち「慈悲」という問題です。
 『歎異抄』には、「慈悲」が明記されています。それは「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」です。

【原文】
 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
 聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。
 浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
 今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。

【現代語訳】
 慈悲といっても、聖道門と浄土門では違いがある。
 聖道門の慈悲とは、他人や一切のものを憐れみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいう。しかしながら、どんなに努めても、思うように満足に助け切ることはほとんどありえないのである。
 それに対して、浄土門で教える慈悲とは、念仏によって速やかに浄土に生まれ、仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分、生を受けた人々に恵みを与えることをいうのである。
 この世で、かわいそう、なんとかしてやりたいと、どんなに哀れんでも、心底から満足できるように助けることはできないから、聖道の慈悲は、一時的で徹底せず、いつも不満足のままで終わってしまう。
こうしたわけだから、弥陀の本願に救われ念仏する身になることのみが、徹底した大慈悲心なのである、と聖人は仰せになりました。

 「聖道の慈悲」というのは、「いいことをしよう」「いい人になろう」「かわいそうだから施しをしよう」というもので、自力の利他です。しかし、これにはどうしても限界があります。一時的で徹底しないもの(=「この慈悲始終なし」)です。
 これに対して「浄土の慈悲」は、他力の利他です。自分はどうしようもない人間で、本質的な悪から逃れることのできない存在です。そのことを認識したとき、私たちに念仏がやって来ます。私たちは他力に導かれ、死後に浄土へ行きます。そして、浄土で仏になり、仏業によって衆生を救済します。これが「浄土の慈悲」です。
 私たち衆生には、「自力」を超えた「他力」の働きかけがやってきます。私たちは、その力を受けて生きています。「他力」を受けるためには、自己が「煩悩具足の凡夫」であることを自覚しなければなりません。自分の「罪業深重の業」を認識することで、仏業を受容するのです。人間が行う利他的行為は、この他力が宿ったときに行われるものです。意志的な力(=自力)を超えてオートマティカルに行われるもの。止まらないもの。仕方がないもの。どうしようもないもの。あちら側からやってくる不可抗力なのです。

中島岳志

中島岳志
(なかじま・たけし)

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』『朝日平吾の憂鬱』『保守のヒント』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『保守と大東亜戦争』、共著に『現代の超克』(若松英輔、ミシマ社)などがある。

編集部からのお知らせ

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