島の底、風のしるし――戦争を聞き継ぐ人類学

第2回

豚の息(1)

2025.03.20更新

 低い山のふもとに沿って緩やかにカーブしていく道路のそばの小高い土地に、その屋敷跡はあった。
 呑殿内ヌンドゥンチ。そこは昔、この集落の祭祀を司っていた祝女ヌルの生まれた場所だ。敷地の西側には、セメント造りの四角い神屋カミヤーが立っている。中を覗き込むと、薄暗い空間の奥に香炉の置かれた祭壇が見える。香炉の傍には花が供えられ、床は清々しく掃き清められている(1)
 神屋の裏手は、樹々と下生えに覆われた山の斜面に面している。そのふもとに、石造りの古い祠がひとつ、ひっそりとあった。
 そのそばに立って、湧上さんが言う。

......そして、巫火神ヌルヒヌカンというのはこれです。〔...〕これがヒヌカン。

 祝女の祀っていたという小さな祠は、斜面に掘られた窪みを石灰岩で囲んだだけの簡素な造りだ。その祠のそばの緩い斜面を上って、私たちは林の中に足を踏み入れた。木陰はひんやりと青く、鳥の声がする。

湧上さん ここに、稲穂祭ウマチーとか何か拝むときに、二、三日、ここに〔祝女が〕籠って。家があったんでしょうね。

――〔籠るための〕小屋があったんですか。

湧上さん はい。それから祀り事をやったみたいです。......そして、〔山の〕向こうには船越のグスク。そして、ここのクバの木ですね......この辺一帯、クバの林だったんですね。ここにクボー御嶽ウタキというのがあります。

 クバの林はしんとして、瑞々しい空気に満ちている。この林は山のふもとに位置し、山上には城跡がある。集落のために祈る祝女の屋敷と神屋、火神ヒヌカンの祠に御嶽、そして城。ひとつひとつの場所が有機的につながりあって、祈りの流れがつくりだされているようだ。

 呑殿内の屋敷がいまは礎石しか残っていないのは、戦争で焼失してしまったからだ。最後の祝女だった女性も、戦火に巻き込まれて亡くなった(2)。そのようにして祝女の系譜が途絶え、住む人のいなくなったいまも、この屋敷地は廃墟という感じがまったくしない。庭も神屋もこぢんまりと落ち着いて、親密な雰囲気が漂っている。この場所に暮らしていた人たち、生きていたものたち、祀られていたものたちの気配がそこかしこに残っているような。
 私たちは斜面を下り、庭を横切って敷地の東の端まで歩いていく。そこで湧上さんは立ちどまり、まるで地面に生えているかのような、苔むして風化した石の建造物を指してこう言った。

湧上さん そして、私が皆さんを案内した目的は、これ。これがあるんです。これを見せようと思って。

――これは、何ですか?

湧上さん ウヮーフール。豚舎とんしゃです。

――豚の?

湧上さん うん、豚小屋。......こういう風に豚を養って。そして、これ〔目隠しの壁〕は見えないようにちゃんと。これは、トイレでもあるんですよ。

――ここで用を足すと、豚が食べる?

湧上さん 食べます。

 低い石の囲いの中には朽ちた葉が積もっている。豚は一頭ずつ、石の壁で仕切られた小さな空間に飼われていた。その囲いの手前に浅い溝があり、そこにも落ち葉が積もっている。
 この溝にしゃがんで用を足すと、豚がそれを食べる。人の食べたものが排泄されて、それが豚の餌になる。その豚もまた、いつかは人に食べられる。それはひとつの、ミニマムな循環だ。その結節点としての豚便所ウヮーフール(3)
 石囲いのそばに屈みこんでいたとき、屋敷地の東の方からクバの林の方へ風が吹き抜けていったような気がしたけれど、林は変わらずしんとしている。鳥の声だけが、あたりの空気を震わせている。

 呑殿内の屋敷跡に出かけたちょうど翌る日、私たちはまたウヮーフールの話を耳にした。それは、船越の隣にある前川という集落に住んでいる大城勲さんに、戦前の暮らしについて伺っていたときのことだ。勲さんは湧上さんと同じ一九三五年生まれで、二人は幼馴染でもある。
 マブイウトゥシ、という言葉につられるようにしてその話は出てきたのだけれど、その前日に私はたまたま、湧上さんからこんな話を聞いていた。

湧上さん よくあるんですよ。子どもが親とか、特にばあちゃんなんかに手を引かれて歩くとき、何か石ころに〔つまづいて〕転ぶ場合があるんですね。そのとき、このおばあさんは、「マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー、マブヤー」とかですね。〔魂に〕「ついてきなさい、逃げるな」と。「ついてきなさい、逃げるな、逃げるな」っつってね、こんなにして〔手で石をなでるような仕草〕やるみたいですよ。

――転んだら魂が落ちちゃうってことですか。

湧上さん はい、そうです。よくそういう風にして、まじないをやりよったですよ。たまに元気なく寝込んで、子どもが。聞いたら、どこで転んだとか何とか言うもんだから、じゃ、そこでマブイを落としてるなあということで〔...〕ユタみたいな人にお願いして、マブイグミをして、逃げた魂を連れてくる(4)

 マブイウトゥシとマブイグミ。魂を落とすと、それを身体に込めなおす。湧上さんたちによれば、それは昔はさほど大層なことではなく、よくあるまじないのひとつだったようだ(5)

勲さん これ〔マブイグミ〕ももう、ほとんど自分でやりよったんですね、うちのおばあたちは。

――自分で?

勲さん フールという豚小屋、ウヮーフールといってあるんですよ。んで、そこはウヮーの神といって、神が宿るところで。で、外出して、遠いところに、昔は車もないから歩いて、夜通し、日が暮れても歩くから。親戚は遠いところもいるから、家着くには〔遅くなる〕。この道中でいろんな怖いことがあったり、幽霊をみたとか何とかそういうことがあったりしたら、すぐ家には入らないで、ウヮーフールのところに行って......。

湧上さん 豚小屋ね。

勲さん 向こうで。

湧上さん 豚を起こしてね(笑)。

勲さん マブイ、マブイ、ワーマブヤークミティキミソーレ〔私の魂を込めてください〕(笑)。

湧上さん 「悪者は〔魂を〕離しなさい」っつってね。〔...〕

勲さん いまはもうこれ、ウヮーフールが残ってるところもあるが、昔のウヮーフールが。ほとんどの家庭には、これはもう崩されてないさーね、いまは。〔...〕石で囲って四角にして、だいだい二メーターぐらいの四角で、〔...〕ちゃんと屋根もつけられて、ここに豚を養って。
 で、昔はもうそういう習慣だから、トイレはぜんぶ豚に食べてもらう。そういうことで、あれも昭和の日本軍が入る時期になってから、見苦しいからといって、行政、役場のほうから、ウヮーフールを潰して便所を作ると。補助金も出たはず、たぶん(6)。〔...〕それまでうちもウヮーフールで用を足したのを覚えてるんですよ。私が小さい、小学生の頃(笑)。

――その厠に神様がいるわけですか。

勲さん うん、そういうウヮーフールといって、そこは豚が住んでるだけじゃなくて、ここにはウヮーの神といって......。

――ウヮーの神がいる。

勲さん ウヮーというのは、豚さ。

――そこでお祈りをすると、悪いものが離れていくと。

勲さん そう、マブヤーグミといって。〔...〕魂が道ん中に落ちて、いろいろ力抜けしてる人もいるさ。そういう時にはウヮーフールに行って、マブイグミサビラ〔マブイグミさせてください〕といってね(7)

 夜遅くに出先から帰ってきたら、すぐには家の中に入らずに、小屋にいる豚を竹の鞭で叩いて起こし、ひと声鳴かせてから家に入る(8)。魂をどこかに落としたせいで具合が悪くなったときには、豚小屋のそばでマブイグミをして、落とした魂を込めなおす。
 魔除けのまじないと、落とした魂を取り戻すまじない。どちらもウヮーフールがその要所になっている。
 それにしても、なぜ豚で、豚小屋なんだろう。
 そこは内と外の境界であり、穢れていながら神様のいる場所でもあり、ミニマムな循環の要でもある。
 そうしたことは言えそうだけれど、わかりそうでわからない。
 この話を聞いてから、ウヮーフールの不思議について考えるともなく考えていたのだけれど、ふとしたきっかけで閃いた。
 そうだ、豚の息だ。

つづく


(1)呑殿内を含む船越の拝所とその歴史について、詳しくは湧上・泉・糸数(二〇〇五)参照。
(2)船越の最後の祝女は一八八三(明治十六)年生まれの幸地カメさんである。湧上さんによれば一九四五年の沖縄戦当時、呑殿内家は九人家族だったが、他県に出稼ぎに出ていた四名を除いてカメさんを含む全員が戦災で亡くなった。この家の敷地内に現存する神屋は戦後再建されたものである。湧上・泉・糸数(二〇〇五:四二)、山本(二〇二四)も参照。
(3)船越では戦前から一九六〇年代の半ば頃まで、ほとんどの家で数頭の豚を飼育していた。船越誌編集委員会(二〇〇二:一九八−二〇〇)参照。
(4)二〇二四年三月七日、沖縄県南城市玉城船越にて、湧上洋さんへの聞き取り。
(5)この地域におけるマブイグミ(マブヤーグミ)について、詳しくは船越誌編集委員会(二〇〇二:三四五−三四六)、玉城村前川誌編集委員会(一九八六:三七六−三七七)参照。
(6)『玉城村 前川誌』によれば、すでに大正の中期頃には衛生上の理由から、豚小屋に併設された便所(トゥシヌミー)を廃止し、新しく便所を造るようにとの指示があったという。玉城村前川誌編集委員会(一九八六:三七一)参照。ただし、湧上さんによれば近隣の集落を含めて多くの家庭では、一九六〇年代までウヮーフールを使用していた。
(7)二〇二四年三月八日、南城市玉城前川にて、湧上洋さんと大城勲さんへの聞き取り。
(8)沖縄と奄美諸島における豚をめぐるまじないや伝承については、栗原(二〇二一)参照。

参照文献
 栗原健 二〇二一「沖縄・奄美における豚妖怪の伝承と境界性」『沖縄研究ノート〈共同研究〉南島における民族と宗教』三〇:一四−二四、宮城学院女子大学キリスト教文化研究所。
 玉城村前川誌編集委員会 一九八六『玉城村 前川誌』玉城村前川誌編集委員会。
 船越誌編集委員会 二〇〇二『玉城村 船越誌』玉城村船越公民館。
 湧上洋・泉スミ子・糸数栄輝 二〇〇五『船越の拝所』有限会社南風原印刷。
 山本正昭 二〇二四「歴史散歩――船越区 神々が宿る深き社に抱かれた集落」令和5年度県立玉城青少年の家事業「歴史散歩」資料。

石井美保

石井美保
(いしい・みほ)

京都大学人文科学研究所教授。文化人類学者。これまでタンザニア、ガーナ、インドで精霊祭祀や環境運動についての調査を行ってきた。2020年の夏、アジア・太平洋戦争で戦死した大叔父の遺した手紙を手にしたことから、戦争と家族史について調べ始める。主な著書に『裏庭のまぼろし──家族と戦争をめぐる旅』『環世界の人類学』『めぐりながれるものの人類学』『たまふりの人類学』『遠い声をさがして』など。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台Vol.5「宗教×政治」号』にエッセイ「花をたむける」を寄稿。

石井美保研究室

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