凍った脳みそ リターンズ

第10回

億千万の胸騒ぎ

2026.05.11更新

 出逢いは億千万の胸騒ぎ
 まばゆいくらいに
 エキゾチック・ジャパン

 郷ひろみの「2億4千万の瞳」のサビのフレーズが脳内で繰り返し響いていた。正確には、郷ひろみが歌い上げる件の歌詞の裏で、バッキング・ボーカルの一団が「臆千万!億千万!」と郷ひろみを静かに煽っている。その煽りの部分だけが、全く望んでもいないのに木霊していた。

 というのも、音響設計の専門家Sさんがにこやかに人差し指を立て、石の蔵のスタジオ改築には一億円の施工費が必要であると俺に告げたからだった。

 人差し指を立てたSさんの隣で、エンジニアKが深く頷いていた。「建物だけで、ですからね」と釘を刺すようにKは呟き、この一億円にはスタジオに必要な巨大エアコンとダクト網、各種配線と機材の設置費用などは含まれておらず、建物の取得まで考えると2億4千万までかからずとも2億円はかかるのではないか、と言葉を重ねて、俺の決意というか覚悟のような精神的なフィールドに軽めのジャブどころか、致命傷にもなりかねない強烈なパンチを打ってきたのだった。

 何故にこのような意地悪を言うのか。

 ひとつは、Kが借金で火達磨になっているからだった。「止まったら死ぬエンジニア」として名を馳せていたKは、音響エンジニアリングの大海原を泳ぎ続けていた。

 東京都台東区の彼のスタジオは、訪れる度に何らかの改修が為されていた。大きなパネルが運び込まれていることもあれば、壁から手作りのような木の板がぶら下がっていることもあった。ロビーにはいつも買い替えによって弾き出されたスピーカーや音響機材が転がっていて、新しい何かを発見したら試さずにはいられない性分がそれらによって表明されていた。そうした性分は仕事ぶりにも勿論色濃く反映されており、「良い加減、手を止めろ」とSONYの偉いディレクターに叱られるKを見たことがあった。エンジニアというのはまったくの受け身ではいけないが、創作の中心である音楽家の作業を技術で支えながら、自身の創造性も折に触れて問われるような難しい役割で、何度もその仕事に助けられてきた。しかし、工夫しすぎて叱られているエンジニアを見るのは初めてで、物事には程度というものが存在することを改めて確認する良い機会になったのだった。

 叱られてもめげず、工夫する手を止めることなく、これからは立体音響の時代だとエンジニアKは息巻き、もうひとつも触るところがなくなってしまった自身のスタジオの大改修に乗り出していたのだった。最新の設備にはお金がかかる。通常はふたつのスピーカーで制作していた楽曲を、立体的に配置された20台以上のスピーカーで行おうというのが立体音響なのだから、単純計算で通常の10倍の費用が必要だった。Kは音楽の未来を見据えて、設備投資を行った。同じ覚悟が俺にあるのかを問うているのだろう。

 臆千万!億千万!

 エンジニアKの魂の叫びが響いていた。

 エアコンも音響機材も配線も料金は別なので覚悟したほうがいいというマウントは、Kの個人的な苦労が彼の精神から搾り出した言葉なのだろうと思った。スタジオの工事は建物の施工費だけだと思ったら大間違いで、エアコンなどの電気工事、各種の音響機材を繋ぐケーブルも専門家による配線計画と施工が必要であり、それらは専門的であるが故に高額なのだ。自らが経験した苦労を友人にはさせまい、そういう気持ちからのアドバイスかなと思ったが、スタジオを造るなら不可避の苦労なので、よく考えると純度100%、ド直球のマウントだった。

 億千万!億千万!

 Kの目は血走っていた。こっちにおいでと、俺を借金の世界へと導く何らかの土着の神のようにも見えた。Sさんは仕事を受ける側なのでにこやかなままだった。

 石の蔵の購入費用として考えていた価格の約10倍。ひとりのミュージシャンがスタジオにかける費用としては明らかに過大と言える。自分や仲間たちの人生を豊かにするために探し始めたスタジオ候補地だが、2億円となると人生を賭けた挑戦になってしまう。地方都市で時間に捉われずに創作を、という発想の極北で、借金返済のための仕事に忙殺されるとしたら本末転倒だが、返済のためには年間数十本のコンサート活動が必要だろう。

 10年間のコンサート活動で2億円の返済が完了する頃、俺は年齢的に赤いちゃんちゃんこを羽織ることになる。身を粉にして資金を捻出したスタジオも、恐らくコンサート活動で多忙なためにほとんど使うことができない。気がつくと「爺さん」という概念のドアノブに手をかけていた。どうして俺だけというような恨み辛みが心身に充満し、やってくる人々、特に市役所の空き家対策課のような気の優しい人たちに呪詛の言葉を吐きかけて、妖怪化してしまうかもしれない。石の蔵スタジオのメガネの妖怪。

 悲しいことだと思った。

 絶望するわけにはいかないが、人間が生命として許されるギリギリいっぱいの撫で加減くらいまで肩を落として、俺はSさんやエンジニアKと、K林の運転する車で静岡駅に向かった。概算の工事費を知らないK林は、車内で交わされるの専門性の高い音響の雑学に目を輝かせていた。3人の合唱が高らかに市役所の作業車内に響き、俺の胸騒ぎは頂点に達して爆発する寸前だった。

 億千万!億千万!

 気休めに駅のキオスクで一合徳利の日本酒を買い、上りの新幹線の3人掛けの指定席にSさんとエンジニアKと並んで座って乾杯した。スタジオ建設の可能性や、現実的な金銭の話、彼らがこれまでに積み上げてきた知見などを聞き、借金や将来のことは一旦忘れて、とても楽しい新幹線飲み会だった。

 縁もたけなわ、新幹線が神奈川県に入る頃、突然、エンジニアKが少しだけ神妙な面持ちになり、そう言えば報告があると切り出したのだった。

「実は癌になりました。」

後藤 正文

後藤 正文
(ごとう・まさふみ)

1976 年静岡県出身。
日本のロックバンド・ASIAN KUNG-FU GENERATION のボーカル&ギターを担当し、ほとんどの楽曲の作詞・作曲を手がける。
ソロでは「Gotch」名義で活動。また、新しい時代とこれからの社会を考える新聞『THE FUTURE TIMES』の編集長を務める。
レーベル「only in dreams」主宰。
2024年5月、静岡県藤枝市にて『NPO法人 アップルビネガー音楽支援機構』を設立。
主な著書に『何度でもオールライトと歌え』『凍った脳みそ』『青い星、此処で僕らは何をしようか』(藤原辰史との共著)(以上、ミシマ社)、『朝からロック』(朝日新聞出版)、『YOROZU~妄想の民俗史~』(ロッキング・オン)、『INU COMMUNICATION』(ぴあ)、編著に『銀河鉄道の星』(ミシマ社)。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

ページトップへ