第7回
たぬきの毛
2026.01.27更新
習字の先生の家は、悪ガキたちによって、そこらじゅう墨汁で塗りたくられていた。柱も、窓も、机も、トイレのタオルも、庭の椿の葉っぱも、真っ黒。先生は汚されたことを怒ったりはしなかった。というか、もはや、それがいつの染みか分からないくらいに家も古かった。私だって、ときどき椿の葉っぱや石垣を黒にしていたことを白状します。
今では考えられないが、書き終わると、外へ出て小川へ筆を洗いに行った。川がざざーっと真っ黒になるのが爽快だった。筆を揺する度に、なんぼでもなんぼでも。気が晴れて、さらぴんみたいになった筆を絞ると、また薄い黒い汁がでて、いつまでも筆を洗った。
「久美ちゃん、この家はなんぼしたと思う?」
家っていくらくらいなのか子どもの私には見当がつかなかった。
「1000円?」
「おしいなあ。この家はねえ700円なんよ」
「えー! 私でも買える!」
母たちも驚いている。家って案外安いんやなと思った。
いやいやいや、いくら田舎でも700円て、聞き間違いだったかもと思って、先日母に電話をかけて確かめたが、やっぱり700円だった。
小学校教師をしていた先生が、昭和の最初に旦那さんと建てたと言っていた。先生より15歳くらい年下の祖母が、戦後の物価高騰により、花嫁道具を買うために貯めてくれていたお金で浴衣一枚しか買えなかったと言っていたから、この700円は戦前の話だろう。
そんな時代の人や家がこの頃にはまだ残っていて、私の暮らしの基準を作っていった。自分がその後中学や高校で浮いていたのも、「高橋と話していると大正時代の人と話しているみたいだ」と中学校の先生に言われたのも納得できる。
習字の先生は、明治の終わり頃の生まれだろう。第一回目に書いた、高校時代の塾の先生も八十代だったが、私の人生の始まりはじいさんばあさんに支えられてきた。そろばんの先生も、ちょっと若いおばあさんだった。
働き盛りの父や家事で忙しい母世代の印象は薄く、子どもの頃の記憶の大半はおじいさんおばあさんでできている。遊んでくれたのも、叱ってくれたのも、習い事の大半もそうだった。子育ても仕事も引退した彼らが、自分の特技を生かし、有り余る情熱をもって、安い月謝で子どもを引き受けてくれていたのだ。
水曜日、硬筆の日。学校帰り、小学校近くにある公民館に寄ると、もう座敷に先生が来て小さい子のお手本を書いている。先生は家から5キロ以上の道のりを自転車に乗ってやってきた。もちろん電動付きなんてない。子どもの頃は何とも思わなかったけれど、80代で雨の日も風の日もそれをやってのけるというのは、かなり達者であり、負けん気というか、気合いの程が今の人とは違っている。
先生の勝ち気っぷりは、餅拾いが趣味ということが証明していた。
どこやらで餅投げがあると聞きつければ、袋一つ持ってチャリで駆けつけた。あれって、すごい人数なんですよ。しかも餅を食べたい血眼の人々。若い人だって5つくらいしか拾えないのに、先生は20も30も拾うのだった。
「あれはねえ、上見とってもいかんのよ。下だけみて、転がってきたんをさっと拾うんよ」
餅拾い名人の言うことは決まって同じだが、私はそんなに拾えたためしがない。姉は昔も今も名人である。私には、絶対餅を食べてやるのだ!!!!という、気合が足らんのだろう。
「先生、本当に気をつけてくださいね」と母は餅拾いの度に先生を心配していたが、ある年、地元の産業祭の餅拾いに行って、でっかい男の人の下敷きになって先生は入院するはめになった。ほら言わんこっちゃない。その後、餅拾いはやめたのかと思い返してみるのだが、あんなに好きだったから、やはりこっそり行っていたように思う。
日曜日の午前は書道教室の日。先生の700円の家に行く。水曜の硬筆教室でまず鉛筆文字が上手くなったら、日曜の書道教室にも参加することができた。
「こりゃー、ちゃんと座ってやらんかね!」
筆を持って走り回る男子を今日も叱っている。朱色の長机が何列にも並んで、子どもや親が筆をもって真剣に練習をするその隙間で騒いでいる男子ども。もう墨で真っ黒よ。
うちの3姉妹含め、みんな書道用のぼろい服を着ていた。墨がついたら二度とおちないものねえ。
「あの子は、態度は悪いけど、ええ素質を持っとるんよ。大きなええ字を書くの」
「そうですねえ、いい字を書きますよねえ」
先生と母がそんな話をしている。
半紙の左一列に名前を書くことも考えず、はみ出しそうな勢いのある字を書く子もいれば、きっちりと紙に収まり、いつも書道大会で表彰される私のような子もいて、文字はまさに体を表した。私は「上手だねえ」と皆から褒められるけど、何か物足りなかった。半紙に収まりきらない妹や男子達の字を見る時の方が、先生の目が面白そうだったからだ。
先生は先頭の長机に座り、月はじめは朱色の墨でみんなにお手本を書いた。
「弘法筆を選ばずと言うじゃろう。ええ筆買うより、まあまあの筆で毎日練習する方がええの」
先生用の朱の墨汁に染まった筆の先は、すり減って少し短かった。私達の使うのはたぬきの毛の、まあまあの筆。腰があって初心者にも扱いやすいのだと言った。
月謝もかなり安かったし、昇級のある会派に生徒を入会させないというのが先生流だった。毎月全員が本を買わないと進級試験を受けられないからだろう。先生一人が会に入り本を取り寄せて、それを私達に書いて練習させるというスタイルだった。
そんな先生を自分の祖母のように気遣っていたのが若い母だった。
家族の潮干狩りとか、公園で遊ぶときにも時々先生がいた。一人暮らしの先生を気遣っていたんだろうと思っていた。
ちらし寿司や炊き込みご飯を作ったときには、パックに入れて包装紙に包み、先生の家まで持っていった。なぜあんなに慕っていたのかと最近尋ねると
「だって、尊敬していたんよ」
と返ってきて驚いた。
「あの先生って凛としていただろう。女の人が一人で暮らして、一人で教室を開いて、話も面白かったし格好いい人だったよな。年の離れた友達だと思ってたんよ」
そうか。心配する気持ちよりも、憧れだったのか。
ある夕方、いつものようにちらし寿司を持って行き、なんぼ「こんばんは」というても先生が出てこないので、母と妹と中へ入っていった。子どもが誰もいない真っ暗な書道教室の奥で、ちらちらと明滅する光が見えた。先生は暗い部屋で一人大きなベッドにもぐり、テレビを見ていた。教室の奥には、先生の日常があり、そこには、いつもよりおばあさんな先生がいた。私は胸がぎゅっとなった。先生、私達が帰ったあとは一人ぽっちなのか。寂しいだろうなと思った。一方で、その姿を格好いいなと見ていた母がいたのか。
私達に気づくと、先生はハッと先生の顔に戻り、出てきてくれた。
「うわあ、嬉しいなあ。久美ちゃんのお母さんのお寿司は絶品よ。これをどうやって食べるか知っとる?」
と言った。
「これをね、白ごはんの下に入れて食べるんよ。そしたら、最後にお寿司の味が残るし、何回にも分けて食べれるだろう?」
なんという天才的な考えだろうと思ったし、こんなに喜んでくれていることが嬉しかった。
「久美ちゃん、ヨーグルトいるで?」
「うん! いる」
先生が奥の部屋から持ってきてくれたのは、ヤクルトだった。えー、と思った。なぜって、祖母がヤクルトを毎日とっていたから、いつだって家にあったのだ。でも先生が嬉しそうだから私も嬉しくて、お礼を言ってヤクルトを飲んだ。
おばあさんたちがヨーグルトとヤクルトを間違える率は高かった。母方の祖母も、いつも「ヨーグルト飲むで?」と言って、飲むヨーグルトでなくヤクルトがでてきた。あと、「ケーキ食べるで?」でショートケーキが出てくることも滅多になかった。殆どの場合、アイスクリームだった。
なんだー。と思ったが、これも今考えると、食べ物のない戦中戦後を経て豊かな時代に突入した祖母世代にとっては、何もかもが新商品。突然出てきた横文字を覚えられなかったのだ。
正月が近くなると、先生は人が変わったように厳しくなった。毎日新聞主催の書道コンクールがあり、それに命を懸けていたのだった。いつもの半紙だけでなく、長机サイズの条幅の作品も出さなくてはいけない。筆もいつものたぬきの毛でなくて、何の毛かわからんけど、でっかい筆になって、そいつを操れるようになるまでも一苦労だ。
その指導を全員にするとなると、そりゃあ先生も殺気立ってくる。
ある年、母方の祖母の家で年末年始をゆっくりしすぎて、出遅れてしまった。
「あけましておめでとうございます〜」と呑気に行ったら、私達姉妹も母も「やる気がないなら来なくていい!」と、怒られた。
正月の間も通っていたらしい同級生がもう仕上げに入ろうとしていた。
書道の流派に属して進級をさせることには興味のない先生だったが、この書道コンクールで何人が賞を取ったかというところには闘志を燃やしていたんだなあ。
冬休み明けの朝礼で、自分の生徒たちが次々と表彰されることが、生きがいだったんだろう。
コンクールが終わると、またいつもの楽しい先生に戻った。
先生の、手の甲の皮膚を引っ張っても山になったまま戻らなくて、うわあ、なにこれ、すごいなあと、妹としばし先生の手で遊んでも、ちっとも怒らない。
「くみちゃんもMちゃんも若いから皮がすぐ戻るでしょう。年を取ったらね、こんなふうになるんよ」
しわしわで血管の浮き出た、細い先生の手。
小学5年生のとき、休み時間に担任の先生がクラスメイトを廊下によんで話しているのが聞こえた。
「習字教室の先生が亡くなったそうよ。お葬式だから帰ってきてとお母さんが言っているよ」。先生が大腸がんになって入院していて、私もお見舞いに行っていたので、なぜTちゃんだけが葬儀に行くのか不思議だった。
そのことを帰ってから母に尋ねた。母は葬儀に出席していた。
「生きているときにいっぱい会っていっぱい教えてもらったけんねえ。その方が大事なことと思うんよ。きっと、先生なら学校を休んでまでこんでもええって言うと思ってねえ」
と言った。なんだよ、私も行きたかったのにと思ったけど、確かに、先生ならそう言いそうだなとも思った。
その後、大人向けの書道の先生をしていた母方の祖父に習うことになった。これまでの先生以上に厳しい祖父によって、私達三姉妹はさらに鍛え上げられた。そして、一番アクロバティックな字を書き、いわゆる上手い字とはかけ離れていた妹が、書の道へと進んだ。
『ぐるり』という小説を筑摩書房から出したとき、カバーと扉、それに挿絵を奈良美智さんに描いていただいた。
「扉の題字は久美子さんの直筆がいいんじゃない?」
と言ってくださって、「ぐるり」と書くことになった。しかし、私はにわかに字が上手なのだった。小さいうちに硬筆や書道を習うと個性がない字になるとも言われている。
周囲のアーティストの友人たちは皆デザイン文字みたいに個性的な文字を書く。私は、赤ペン先生のような整った文字。おもしろみがない・・・ということで、左手で「ぐるり」と書いたのだった。これで良し、とペンの蓋をしめながら、心のはじっこでは、両方の先生に申し訳ないなと思ってしまった。
「『と』は斜めから差し込んで、下が少し短くなるように。『山』は右と左が同じ幅になるように。『道』のしんにょうは、へを書いてだんだん太く、最後は抜いて。筆を立てて、背筋を伸ばして」。書いてみて自分でも驚くが、全ての平仮名と、大抵の漢字で、先生の言葉が記憶されている。
「字が上手ですね」と言われる度に、あの細い先生の手がここに今も生きているのだと思う。たぬきの毛の筆で落書きした古い家を思い出す。




