変な人にはついていけ

第8回

沖縄の、チーム82

2026.02.27更新

 インスタグラムの投稿に、コーシンさんからメッセージが届いたのは1年ほど前のことだった。『わたしの農継ぎ』を読みましたというものだった。

 読者から本の感想が届くというのは、嬉しいことだった。

 しかし、このコーシンさん「感想は葉書にてお送りします」と書いていた。

 長い長いメッセージを送ってくださる方が多いなかで、この「葉書で送ります」は目を引いた。さらに、「小生はJAおきなわにて、さとうきび及び製糖工場の仕事に携わっております。プライベートでは鹿児島県喜界島に製糖の師匠がおります」と、世界中の人に見られるタイムラインの返信に書いていた。個人情報だだもれやないかい!

 ほんまかなあ。怪しいなあ。と思いつつも、「JAおきなわ」という言葉だけが浮き出して見えていた。これは見逃せないぞ。

 なぜなら、『わたしの農継ぎ』の三分の一がサトウキビ栽培と、黒糖を作る話だからだ。そうです、私は今もサトウキビを育てて黒糖を作っていますから。沖縄といえば黒糖の本場、何としても繋がっておきたい。相談したいこともたくさんある。でも、怪しいよ。この人について行って大丈夫か? 実際に会っていないSNSという場においては、かなり慎重にならざるを得なかった。

 数カ月後、「ミシマ社さまから葉書の返事をいただきました。報告は以上です」と、今度はDMに担当編集の星野さんの手書きの返事の写真がきた。

 本当に感想葉書を出してくれたようなのだ。星野さん、こうして一人ひとりに丁寧に返事を書いてくれているんだなあ。ありがたいなあと思った。報告は以上だった。

 え、以上なんかーい。怪しさは募るばかりだった。

 今度は私の方が連絡したいことばかりだった。師匠たちのチームが最近買った搾り機が、全然安くないのに、全然絞れなくて、まがい物を掴まされたと工場全体がザワツイていたのだ。もともと使っていた沖縄製の機械が、これまでも何度か壊れて沖縄に送って見てもらったけれど、工場長のおじいさんが他界されたそうで、今後の修繕は不可能だと知らせをもらっていた。この一台だけというのは心もとなかった。

 サトウキビ栽培や刈り取り、煮詰めも人力でいけるが、圧搾だけは機械でないとやれない。「昔みたいに牛と石臼でもできんことはないけどなあ」と笑う師匠たちだったが、笑っている場合ではなかった。今後、製糖中にこの機械が壊れてしまっては全てが終わってしまう。

 藁をも掴む思いでコーシンさんに相談をした。

 でも、ここでポーンと解決に向かったわけでもなくて、やはり実物が見られないことや、私が新刊の執筆で多忙になったこともあったりして、やり取りは中断してしまった。機械を休ませ休ませ、なんとかその年の製糖は全チーム終わったので、ほっとして心配も薄れてしまったのだった。

 コーシンさんからは、その後も『わたしの農継ぎ』をJAの前田会長に渡しました! とか、喜界島の師匠に送りましたとか、『その農地、私が買います』や『いい音がする文章』を買いましたとか、この本がおすすめですとか、沖縄物産店の話とか、いろいろと連絡が来ていた。極めつけに、那覇のジュンク堂にトークイベントができないか相談していますという連絡も来て、え、勝手にそんなに動きになってんのか!? と心配になってきていた。 

 もはや、これは本当に変な人なんだろう、会って巻き込まれてみた方がいいわ。と思い始めていた。

 ろくに返事もしていなかったが

「沖縄行きますわ!」

 と、変な人に変な人が返事したのはこの年末のことだった。

 ずっとここで話していてもいかんだろうと思ったのと、機械のことや、サトウキビ栽培、製糖を実際に本場で勉強したいという思いがマックスだったのもある。

 そして2月頭、私は友人と沖縄へ飛んだ。

 コーシンさんが、那覇空港まで迎えにきてくださった。

 沖縄の全ての農協が合併して那覇にできたばかりの農協につれていってくれることになった。見上げるほどに大きな農協ビルの駐車場についたとき、

「実はわたし、昨日が誕生日だったんですよ」とコーシンさんがおもむろに言った。

 ええー! おめでとう。何歳になったんですか? 

「43歳なんです」

「うそ、私達三人とも同い年じゃないか!」同行した友人も82年生まれだった。

「葉書の返事で星野さんも同い年と書いてくれていましたね」

 そうそう。そうなのよー! チーム82だねえと盛り上がったコーシンさんは83になるが同学年)

 そうか、四国、沖縄、長崎、東京、それぞれの土地のそれぞれの思いを引き受けながら私達は43歳になったんだな。

 明らかに、コーシンさんは故郷の沖縄を好きだったし、だからこそジレンマも多いようだった。農協の広報を業務外でもやっていて、私達を案内してくれることもその一つだったのだろう。

 農協では、前田会長と沖縄の産業について話した。沖縄の場合、農業や水産業だけでなく国防の意味も含めての第一次産業であるという話にハッとした。与那国島は台湾の方が近いものね。日本の領域のはじっこにあたる島々を保有する県は、国土を守ることも話し合いの議題になるのだそうだ。

 米軍基地の問題だけでなく、太平洋の他の国と近い場所に島々をもつ沖縄ならではの緊張感は常にあるのだそうだ。琉球王国だった時代もそうだったろう。薩摩に侵攻され、その後大和になり、アメリカ統治下におかれ、そして今現在と・・・アジア貿易のハブとなる豊かな島だったために、華やかな歴史の反面、陰も大きかったのではいないか。沖縄と黒糖の歴史も、実は苦い物語なのだと後で知った。

 にこにこと終始笑顔で優しい前田会長だったが、抱えていること、考えなくてはいけないことが他県よりも大きいだろうことは想像に難くなかった。

 その後、サトウキビ振興部の小林さんにサトウキビの品種のことや、より収量を高める育て方、植え替えの時期などについて教えてもらった。沖縄だけでサトウキビの種類は30以上あるそうで、それらをブレンドして最上の黒糖を作るそうだ。

 沖縄本島よりも、宮古地域の方がサトウキビの収量が多いという話にも驚いた。サトウキビの半分は宮古地域の島々で育てられ、お砂糖になっていくのねえ。改めて地図でみると沖縄の島の縦の連なり! 長いよ!

 沖縄というと、集合時間より少し遅く集まるものだと思っていた。「ゆんたく」と言うそうよね。実際にバンド時代のライブも沖縄では開始が30分押すこともあって、それもならではで楽しかったのだ。

 でも、コーシンさんは集合時間の15分前には必ず来て、逆に私の方が「うわー、すまんー」ってなった。翌日見学させてもらう予定の製糖工場へも「明日の下見に行こう!」と車で40分かけて道の下見をするまじめさ。すっかり私の沖縄のタイム感へのイメージが変わった。

 コーシンさんは沖縄の離島で育ち、高校卒業後は大阪に出たそうだ。

 大阪で就職していた時代、「沖縄出身」と言うと、時間を守らないとかゆるいと思われ、また方言をバカにされる、いわゆる島差別にあったと言った。それで、こんなにきっちりな性格になったのか。でも、めげずに笑顔で対話を続けたら、大阪の人たちは懐が深く、受け入れてくれたのだそうだ。今も連絡を取り合う仲だと言った。

 私も、父や地元の人達といろいろあったけど、めげないで進んできたから、わかるなあと思った。コーシンさんの少しお節介なところや、何度へこんでもまた立ち上がるところは、私とよく似ていた。多忙でも必ず本屋さんへ通って新刊を読み、そこで私と出会ったのだ。

 私達と同じくらい小さな製糖場「農水苑虹」へお手伝いに行ったり、逆にあのスプーンマークのお砂糖も作っている巨大な「ゆがふ製糖工場」へもJAの前田会長が連絡してくださって、特別に見学させてもらった。砂糖まみれな数日間を送った。

 何箇所かの産直へも連れて行ってくれて、様々な黒糖商品を見て回った。昔は沖縄というと黒糖が一番のお土産だったけれど、今は黒糖の棚も縮小されて、マンゴーや南国フルーツ、沖縄そば、ジーマミー豆腐などが肩を並べていた。そして黒糖を使った六次化にも力を入れているようで、なにこの「黒糖バター」っておいしそうだわ。これだけでも様々な団体が出していて5種類くらい並んでいた。一つ新商品が出たらみんなこぞって真似するらしい。

 どれがいいんだろうと吟味していたら、

「いやあ、でも元祖は石垣島の『黒糖バター』さ。なかった?」

 それから、何件か見て探したが、どこにもない。人気だから一時は売り切れていたそうだから、まあ仕方ないね。

「久美ちゃんたちも六次化した方がいいと思うよ。黒糖だけだと、だんだん売れなくなるでしょう?」

 そうなんよ。年々売れ残るようになってねえ。黒糖バターか。

 沖縄でも、おばあの家だったらお茶請けに黒糖があるけど、今は甘いお菓子はいくらでもあるから、黒糖を食べることも少なくなったそうだ。やっぱりチョコレートには負けるさーと言った。チョコレートだと思って黒糖を食べてほしいけどねえ。体にもいいのにね。

 どうやって沖縄の黒糖をもっと広めていくのか。

 でも、サトウキビの殆どは黒糖にならず、製糖場に運ばれたあと原料糖になって、千葉の工場に運ばれ上白糖などに仕上がるそうだ。

 家に帰ってから白いお砂糖の袋の裏を見たら「沖縄のサトウキビや北海道の甜菜糖で作られています」と書かれていた。白いから科学的に精製されているんじゃないかと思われることもあるが、ちゃんと沖縄の大地で育ったものだった。

 私が手伝いに行った知念さんというサトウキビ農家さんは、一人で80トンを育て、手刈りしていた。私達チガヤ倶楽部の約50倍の量である。衝撃的すぎて立ちくらみがした。

 斧で一本一本、黙々と叩き折って、10本を束ねて縛っていく。私達と同じように全て手で。ハーベスターというコンバインのような巨大機械で収穫するのが今は全体の7割だそうだが、機械のレンタル代やゴミが入る量が多いとされて、差し引かれる金額などを考え、手刈りをし続けている方々もいるのだった。ハーベスターの場合は、短くカットされるので、痛むのも早いために品質のためにも手刈りが良いというのはわかる。わかるけれど・・・その買い取り値段を聞くと、とてもやっていけないなと思った。国からの補助金をプラスしたって、安かった。そこに肥料や、必要な機械、さまざまに経費はかかります。

 私がサトウキビを束ねて縛っていた紐、このビニール紐代だけでも年間2万かかるんだよと仰っていて、頭を抱えた。

 翌日、ゆがふ製糖工場に行った。まるで草のように積み上がったサトウキビの山。そこに知念さんの手刈りした80トンも入っている。どこの誰が育てたと書かれないけど、あの白いお砂糖には、サトウキビ農家一人ひとりの時が刻まれているんだと思うと、胸が熱くなってきた。そしたら、どう考えたって砂糖の値段は安すぎる。安すぎますよ。

 帰りに空港でお土産があるからね。とコーシンさんが言っていた。

「どうしよう、めっちゃでかいものかもしれないよね!」

「だって、農協のカレンダーくれたもん」

「さらにでっかいもの来るかもしれんよ」

 お土産でぱんぱんのリュックでコーシンさんの車に乗り込むと、

「この袋開けてみて」とビニールの袋を手渡してくれた。

「うわ、つめた!」

 氷の袋と一緒に入っていたのは黒糖バターだった。

「島から取り寄せたんよ」

 わあ、覚えていてくれたんや!

 諦めていたのに、数日の間に取り寄せてくれていたのだった。八重山JAの女性部の方たちでこしらえた黒糖バターの美味しいことよ! 黒糖の甘みと苦味にバターが負けていない。もったいなくて、パンに塗ってちびちびと食べている。

 そうそう、那覇のジュンク堂書店にも連れて行ってもらったんです。『わたしの農継ぎ』も『いい音がする文章』も展開してくださっていました。最新刊の『こくとう ぴょ〜』も、ありました! さすが沖縄。

 近いうちにトークイベントで行かなきゃねえと話している。
 チーム82、沖縄にまた集合しましょうか!

高橋 久美子

高橋 久美子
(たかはし・くみこ)

作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、翻訳、様々なアーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。また、農や食について考える「新春みかんの会」を主催する。著書に『その農地、私が買います』『わたしの農継ぎ』(ミシマ社)、小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『いい音がする文章』(ダイヤモンド社)、『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ちいさいミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。

公式HP:んふふのふ 公式Twitter

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