第9回
私は18歳でした
2026.03.31更新
ある日、農業チームでバーベキューをしていたら、O君が古い卒業文集を持って来た。
「お母さんて、△×高校ですよね。うちの母と同じ年に卒業なんすよ。ほらこれ」
文集を見た母は明らかに嫌そうだったが、O君はかまわずページをめくっていった。
O君のお母さんとは別のクラス写真に、母の写真も並んでいた。かわいらしい18歳の少女だった。
そのページの下に載せられた寄せ書きを見てみんなどよめいた。
197△年○月×日 私は18歳でした
母は達筆でそう書いていた。頭をガーンと殴られたような衝撃。パンクすぎやしないかね。
「3-Aのこと絶対忘れないよ。みんな大好き」とか、「私たち卒業してもずっと友達でいようね」とか、Theという言葉が並ぶ中で、明らかに浮いていたし、いいセンスだった。私なら友達になっただろう。
母の真顔が目に浮かぶ。パンクというか、ロックというか、今と同時に、限りなく遠くを見ていたんだろう。そういう人だ。
普通に見える人ほどやばい、というのが大人になった私のたどり着いた結論だけど、この人の子であることに妙に納得した出来事だった。
母は、小学から中学卒業までの間に11回転校をしている。祖父が銀行員だったので、辞令が出れば1週間で準備をし引っ越した。半年で移動することもあったようだ。仲良くなり始めた頃に引っ越すので、途中からは友達を作るのも諦めた。「旅芸人の子供みたいに」と母は表現したが、学校というステージを点々とする日々は、母をどんどん孤独にさせ、自分の世界の色を深めた。
今でもよく覚えているのは、私の小学の卒業式のこと。多くの母親も泣いているのに、母は涙一滴こぼしていなかった。帰りに理由を聞くと「だって全員同じ中学に行くだろ。来月からまた会えるやん」と一言。潤っていた心がみるみる乾いていった。確かに。
同窓会の案内が来たこともなければ、竹馬の友もいないと言った。確かに、転校していった子って、1年くらいは手紙をやり取りするけど、じわじわと疎遠になっていくよな。
「変な人にはついていけ」となれば、そりゃあ真っ先に母が浮かんだ。明らかに私という印鑑の大部分は母から受け継いだものだ。でも、書けない。分かりやすい父に比べて、母は全部を見せなかった。何十年親子をしていても掴めない。母は黙々と人のために動いてきた人生だ。私たちに光を当て続けてくれたが、母に光が当たることは一度でもあったろうか。おまけに好き嫌いがはっきりしていた。スマホは持たないし、苦手なことはやらない。でも困っている人を放って置けない。権威を嫌って、長いものには巻かれない。「簡単に人を信用したらいかん」と若い頃よう言われたなあ。いつもどこか冷めていて、一緒にカラオケに行っても1曲たりとも歌わない。そんなヘラヘラした気分にならないと、武士のようなことを言っていた。ただ、私たちの歌を聴いていた。いやあれほんまに聴いてたんかな。最近は、映画に行っても、ミュージカルへ行っても、15分後には寝ている。唯一、劇団四季のアラジンとライオンキングだけは寝なかったなあ。
孫たちが悪いことをしたら、母親以上に本気で叱った。孫たちは嫌うどころか母に一目置いていて、母の周りはいつも人が集まった。子どもはよく見ている。ま、何かというとすぐに100円をあげる甘いおばあちゃんですが。
銀行の支店長の子、ということで当時としてはそこそこ裕福で自由な生活をしていたのだろう。四国内でも都市部に住んでいたのもあり、祖母がデパートで素敵なコートやカバンを見つけては、勝手に買ってきていたそうだが、どれも派手すぎて3回くらいしか着てないと、真緑のウールのコートを高校生の私にくれた。70年台の古着ファッションに目覚めていた私は、めちゃくちゃ可愛い!と、母の昔の服を探しては着るようになった。
高校卒業後は金融関係に就職した。祖父母は大学に行ってほしかったようだが、早く外で働いて、自分の足で立ちたかったと言っていた。
高校で簿記やそろばんなど、いろいろ資格もとったからか仕事は朝飯前だった。大卒の男性の倍のスピードで仕事をこなせた。時には教えてあげることもあったそうだ。「なーんだ、こんなもんか」と思った。
でも、男性だけが昇進していく。結婚せず仕事を続ける女性の先輩たちへの風当たりの強さを見るのが耐えられなかった。男性より仕事ができても、寿退社するように追い詰められる現実。女性には道が開かれていないことを知った。
初任給で買った美しい腕時計を見せてもらったことがあった。就職後も家にそんなにお金を入れなくていい、どこか浮世離れした人。社員旅行という名の、自腹北海道旅行にも先輩に混ざって行ったそうだ。当時、四国から北海道へ何日も行くとなると、2ヶ月分の給料が飛ぶので、多くの新入社員はいかなかった。でも、その北海道旅行がこれまでの人生の中で一番に素晴らしいものだったと言った。2ヶ月分の給料が飛んでも、19歳で得た感動は何にも変えられなかったと言って。
だから、お金は生き金にせんと意味がないよ、と母はよく言った。安いものをちまちま買わずに、ほんとに欲しい物を買いなさいと。そして、作れるものはなんでも自作して、節約に努めた。何より、母の作るものは美味しかったし素敵だった。貧しくもないけど裕福でもない我が家において、母の哲学は、私たちを自由に冒険させた。
そんなこと言う母の一番の謎は、親の言うままフワーッとお見合いして、フワーっと「農家の長男」の父と結婚したことだ。そこからは、「なーんだこんなもんか」とは言ってられない人生が始まる。
いや、母のほんまの旅はここからだったんだろうな。義父母と同居。父も長男、祖父も長男。ひいおばあちゃんも夫の弟もいる家。つまり、お嬢様は、20代前半で本家の嫁になってしまった。核家族で育った母が8人の家事をすることになる。Xでよう聞く地獄話よ。いやもうこれ、母の父母も世間知らずだったとしか言いようがないわ。
母方の祖父母の家に行くと、ちょっといいお菓子とか洒落たカップが出てきた。買い物に行けば、なんでも好きなものを買ってくれた。お母さん、お嬢様だったんやなと姉妹でこそこそ話した。「結婚してから10年間は、実家から持ってきた服がいっぱいあったから助かったわ、あれ全部着潰して捨てたなあ」と言っていた。10年以上服を買ってなかったそう。写真の母はいつもなんか洒落た服を着ているが、なるほど、おばあちゃんがデパートで買った服が役立ったのだ。
ただ1着だけ、ある日、ひいおばあちゃんが、行商の人が家に訪ねてきたときに、それはそれは可愛いブラウスを買ってくれた。年金制度ができ、初めてお金をもらったときに、曽祖母は「お上がくださった」とたいそう喜んだそうな。
そう、それで買ってくれたのだそうだよ。母は嬉しくていつもその服を着た。
一番仲が良かったのが明治生まれのひいおばあちゃんだったそうだ。「Nちゃん、今日はジャガイモで、田芋で?」と聞いてくれ、家族分の芋の皮をせっせと剥いでくれたのが本当に助かったと言っていた。義両親も父も働きに出ている昼の束の間、ひいおばあちゃんと羊羹を食べる時間が至福だったそう。姉や私も小さい頃、ひいおばあちゃんによく面倒を見てもらったそうだ。
本家となると、お法事やらお彼岸やらで定期的には親戚が集まりそれは賑やかな家だった。近所のお爺さんお婆さんも常に入り浸っていて、今自分が母の立場だったら、絶対無理。ストレスで逃げてるだろうな。
母は30人分のご飯を作った。いわゆる花嫁修行だろう、お茶にお花、洋裁学校にお料理学校にも通っていたようで、「何もかも役に立ったなあ
さあ30人分の料理です。お金をかけず、ものすごいスピードで大量に何品も作るもんだから、親戚も祖父母も、この子すごいぞ!と驚いていたのは私もよく覚えている。
これが辛いだけの話にならないのは、母は、子育ても、家庭のことをするのも好きだったからだ。近所の人からも、親戚からも慕われていた。
ひいおばあちゃんの最後を看取ったのも母だった。それがまだ20代よ。ちょっともう信じられません。親戚のおじさんたちはきっと母に頭が上がらなかったのではないか。結果、私たちにたいそうおもちゃを買ってくれた。でも、たくさんのおもちゃは子どもをダメにしてしまうと、そっと近所の人にあげたりバザーに出したりしていたそうだ。
その親戚たちも一人、また一人と年老いて、認知症になり、そうすると帰巣本能から、実家である我が家に、遠い道のりを歩いてやってくる。私が遭遇しただけでも3回なので、かなりの回数来ていたのではないか。
母は、大叔父や大叔母にいつも通りにご飯をふるまった。息子さんが慌てて迎えにきても「何時間も歩いてやっと来たのだから」と、ゆっくりとさせてあげていた。
父が仕事に行って不在の間、母はずいぶんとこの家の守人をやってきたのだ。もちろん祖父が大きな守人だったけれど、それはまたどこかで書くことにします。
何かというと父に「お前は常識がない」とか「変わっとる」と言われているのを聞いた。今はその矛先は私に向けられる。
「あんたもようやるわ。もう何言われても黙っときな」
と言う母は、無駄な闘いはしない。そうか、この人、うまく諦めることを小学生の頃からしてきたプロなんやな。「無駄な闘いするより、自分の中の好きなことを深めて行った方が余程いい」と言って、一人の時間を大切にした。
「おやすみ」と言ってそれぞれの部屋に行ってから、母は深夜まで本を読み、毎日家計簿と日記をつけているのを知っている。
学校から帰ったらいつも母がいて、手作りのおやつがあった。干し葡萄の蒸しパンとか、ホットケーキとか、夏みかんの房を丁寧に剥いて砂糖をかけて冷やしたのや、素朴なのが。クリスマスや誕生日にはケーキを焼いてくれた。服も殆ど手作りだった。ジャンパースカートやキュロットや、パーカー、ピアノ教室の手提げカバンまで。
あの頃は服も高かったものねえ。
ある日、母に、ドラえもんの押し入れの寝床に憧れていると言ったところ、学校から帰ったら、押入れの上の段に布団を敷いて、天蓋や絵を飾った押入れベッドができていた。私も恥ずかしくなるくらいに真面目に楽しんで作り上げていた。
私が小学時代、本の読み過ぎからか目が悪くなってメガネになり学校でもからかわれて悩んでいた時期だったので、母も私を喜ばせたくて一生懸命だったのだろう。母はいつでも人のために動いた。
母と地域の読書クラブに入り、夜の少しの時間でも本を読んでいた。時に、紙芝居を自作して私たちに見せてくれたし、幼稚園のお母さんと人形劇団を結成し、人形を作っていろんな施設で披露していたのを思い出す。基本静かだが、好きなことには熱量の高い人だった。今思うと、本当に愛情深く育てられたんだ。
「女の子だから、家事をしなさいと言わないこと」。これは母方の祖母からの教えだったそうだ。たまにはご飯や洗濯を手伝ったけど、母は「女の子だから」とは絶対に言わなかった。
母は生まれながらに体が弱く、体育の授業の殆どを休まなくてはいけなかった。そういう体質が内側の熱をより強くしたのだとも思う。子供を三人産んだことも医者に驚かれていた。今ならストップがかかっていただろうとのことだった。
子供が生まれたときのことを、母は「やっと仲間ができて嬉しかった」と言った。夏休みが来るのが待ち遠しかったとも。私たち三姉妹は、初めての母の友達だったのではないか。
外で働くお母さんたちが増えてくると、父はよくパートのチラシを黙って母の席に置いた。これだけ大家族の家事をして、農業も子育てもして、虚弱体質なのに。そのくらい家の中の仕事は見えにくいものだ。できていて0点だった。
今は大分時代が変わってきたけれど、この時代の女性がいかにしんどい思いをしてきたことかと思う。
腹が立ちすぎると私は父の分のご飯を作らないが、母は「どんなに憎らしくても、ご飯を分け隔てするようなことだけはしたくない」と言った。「それはなんで?もっと怒ればいいのに」と言うと、母は「自分がさもしい人になっていく気がするんよ」と言った。私はハッとした。自分の大切な泉を守るために、今も昔も母は黙って我慢してきたのか。
父が「田畑は負の遺産だ」と言うのに対し、母は農業がとても楽しい、天職だと言う。母のコツコツ真面目にやれる性格に、ぴったりだったのだろう。嫁いできた時は、白菜のもぎ方も知らなくて笑われたそうだ。でも、近所のお婆さんやお爺さんが、野菜の作り方を教えてくれ、どんどんと畑に目覚めていく。出荷用とは別に、子供の食べるものを自分で作る。お金はかからないし、美味しいし、安全だし、最高じゃないかと思った。
小学生のある日、母が種をくれた。私はほうれん草、妹は人参、姉はカブの種だった。その日から、子どもも一人一つ畝を持ち、それぞれに野菜を育て始めた。上手に育てば、母が買い取ってくれ、食卓に並んだ。
今、母はそれを孫たちにも実践し、姉は子どもたちが育てた野菜を買い取っている。こうして、私たちは自然と畑に親しみを持ち、今につながっている。
母がするように、私も梅を漬け、一緒に味噌を作りはじめた。味噌作りは、家では麹から作る。一年分の味噌の麹を買ってたらすごい値段になるからね。米や大豆は育てているから種麹の500円だけで作れる。外のかまどは薪で燃やすのでガス代もかからない。
買っても安いのだから、もう味噌作りをやめろと父は言うが、母と私たち姉妹は毎年30キロの味噌を仕込む。そうやって手を動かすことが好きだし、自家製の味噌の美味しさは何にも変え難い。
みなさんもうお気づきでしょう。母がここまで開眼したのは、真逆の考えをもつ父と暮らしているからですよね。サメと同じ水槽に入れられた魚は長生きする、みたいなのなかったでしたっけ? その効果があるんですかね。
『その農地、私が買います』や『わたしの農継ぎ』を読んだ方の多くが、私ではなく、母に注目する。その通り、母の知恵とサポートがなければ私はとうに音を上げていただろう。母が開拓してくれた道の途中に私がいたのだ。
これまで何かやると言って、母に反対されたことはなかった。
「あんたは反抗期がなかったなあ。というか常に反抗期。全部、事後報告」
確かになあ。相談してこなかったなあ。
姉妹もできる限りで私をサポートしてくれるが半分は呆れている。母だけが「またそんなことするんでー」とため息をついた後に、「ほんなら手伝おうか」と言う。
「あんたは時代の半歩先を行くなあ。あんたが言いよったことが今頃新聞に載っとる。時代が追いついてきたんじゃ」と言って、帰ったらいつも切り抜きを見せてくれる。
方々で小さな農業チームが生まれ土を耕し始めていること、石垣の修復が県内でも話題になり始めたこと、サトウキビを育てる人が増えてきたこと、ユーカリを県が推奨して育て出したのも私が畑にユーカリを植えた数年後だった。
その時は父にボロクソに叱られ、鼻で笑われた。でも、ほら、みんなもやり出したよ。マイノリティがマジョリティになって、やっと認めてくれるのか。
それまでは、ずっと「変な人」なのだった。
それなら、随分長く母は「変な人」だ。SDGSとか、コンポストとか、自給自足とか、丁寧な暮らしとか、そういうのが市民権を得るずっと前、使い捨て全盛の時代から、淡々と黙々と、我が道を突き進んできた頑固さと美学みたいなもの。
そういうものに魅力を感じ、若者はついて行きたくなるのではないか。子供や孫以外の若者にも母が慕われているのはそういうところなのだろうと思う。
母は、何も言わず、私が困っていれば自分の畑をおいても手伝ってくれた。サトウキビの最盛期は、毎週土日に、多いと10人前の弁当を作ってくれた。
「私だって初心者だったんよ。それでも30年後にはこんなにやれとるんだから」
どんな農業初心者が訪ねてきてもいつでも家に迎え入れてくれ、
「初心者こそ希望があるんよ」と言った。
そして、最後に「このお米はお父さんが育てたものよ」とつけ加えた。




