迷惑とワガママの呪いを解く方法迷惑とワガママの呪いを解く方法

第4回

「周囲への配慮がない」に潜んでいるもの

2018.07.24更新

 連載1回目で満員電車へのベビーカーの乗り入れに対して、「周囲への配慮がない」といった意見があることを紹介しましたが、覚えているでしょうか。改めて思うのは、この言い回しはなかなか使い勝手がいいということです。ベビーカー問題に限らず、ちまたの炎上騒ぎで、誰かをたしなめたり批判する場合に、よくこの手の文言を目にします。

 どういう出来事であれ、ともかくこの言葉を用いれば、何か言っているような気になりますし、それなりの正当性があるように思えてしまいます。そういう不思議な力があります。ありふれた表現でありながら実に汎用性が高いと言えます。だからこそ、この言葉は私たちが内側で育んでいる価値観の姿を知る上で手がかりになりそうです。

 というのも、「周囲への配慮がない」という文句を額面通り受け取るのではなく、「この文言を使うことで、その人は何を言おうとしているのか?」と視点を変えて捉えると、見えてくるのはこれを口にする人の思惑だからです。「周囲」には自分も含まれているにもかかわらず、そこが背景に溶け込んでぼやけているのはなぜでしょう。

 恐らくは「他の人はともかく私に対する気遣いがない」ことへの違和感がいちばんのポイントでしょう。「あなたの行いは私の気持ちをひどく損ねている。だから私に対して一言あってもいいのではないか」という隠れた意図がこの発言の主体性のなさを演出しているのだと思います。

 そうなると周囲、つまり「みんな」という言葉に換えて自分の心情を表しているのはなぜかと言えば、かりに「私への気遣いがない」と前面に自己を押し立てて主張してしまったら、みんなから「結局は自分かわいさか!」とばかりに今度はこちらがワガママと言われかねないからでしょう。

 知らぬ間に「素の自分を出して、思っていることを言うのはワガママなことなのだ」という判断をしているということです。

 ところで、この言いようは引っかかりなくそのまま聞き逃してしまいそうですが、ちょっとおかしいと感じないでしょうか。「思っていることを言う」ことがどうして「ワガママ」にすかさず結びついてしまうのでしょう。しかも「みんなにワガママだと思われてしまう」と実際に言われたわけではなく、周囲の視線を取り込んで、先回りするように自分の素の思いを抑圧しています。

 他人にどう思われようが、「私に対する気遣いがないことは受け入れられない」と明らかにすることへの恐れが「みんな」の意見との同調を重んじる方に働きかけているのではないかと思います。そして、恐れからみんなと調子を合わせているということは、確固とした考えが本人の中に取り立ててあるわけではなく、空気やノリ、流れ次第でどうとでも変わるということです。ベビーカーの乗り入れを全然問題にしない空気になれば、それになびくでしょう。

 このように見ていくと、「周囲への配慮」を持ち出し、物事の良し悪しを他にならって判断しようとする態度に潜んでいるのは、「私のことを気遣って欲しい」であって、決して起きている出来事への関心ではないとは言えないでしょうか。

 巧妙に意図を隠しながら、実はまったく自分のことしか考えていない。「人をワガママと非難するけれど、あなたのほうがよほどエゴイストだ!」などと非難したいわけではありません。それに、こういう指摘の仕方を磨き上げて行くことを鋭さと思う人もいるかもしれません。残念ながら私たちが自分を離れた外の世界について語っているところのほとんどは、自身の願望や期待を含めた、他に承認を求める意見の披露でしかありません。

 確かに甘えた態度かもしれません。かといって私たちは聖人ではないので、こうした顕示欲を完全に捨て去ることは難しい。ただ、自覚しておいたほうがいいのは間違いありません。どれほど鋭い意見を養ったところで行き着く先が承認欲求なら、なんら変わらない現実の繰り返しに手を貸すことでしかないからです。では、凡俗の人間なりにどうすればいいのでしょう。

 「私のことを気遣って欲しい」が本音だとしたら、「所詮、人間はワガママな生き物だ」と開き直るのでもなく、「自分はなんて醜いのだろう」と罪悪感に浸るのでもなく、いったん認めてみるのはどうでしょう。すると、自分も含めてこの世相では、いかに配慮や気遣いに飢えている人だらけかが見えて来るはずです。それに注目すると別のストーリーが浮かび上がってきます。

 つまり「私のことを気遣って欲しい」という承認に向けた飢えが根底のところで訴えているのは、「私は他人の目を気にする自分ではなく、私は私であることに配慮したい。自分を肯定したい」という切実さです。

 誰しも自分を大切にしたい。尊重したい。そしてできれば敬意を払われたい。けれども、自分のことよりもみんなに合わせ、協調しないとこの社会では爪弾きされてしまいます。

 みんなの顔色を伺い、空気を読むためには、自分の気持ちや思いや感情を押し殺さなくてはいけない。この社会で生きて行くために「そうあるべきだ」という常識をきちんと身につけました。その結果、常識にかなうような人間に立派に育ったので、人からは誉められるかもしれません。

 しかし、誉められるのはみんなと一緒だからで、決して私が私として認められているからではありません。そのことに当人はどこかで気づいているはずです。私が私として存在している。この単純なはずのことがかなわない。そのことへの葛藤が自己肯定に対する飢餓感として現れているのだと思います。端的に言うと、私らしくいたい。あるがままの我としていたい。我がままでいたいのです。

 実はベビーカー問題に限らず、迷惑とワガママをめぐる論題の背後には、「私らしくいたい」があるのではないでしょうか。

 「私に対する配慮」をみんなをだしにして、遠回しに自分を承認してもらうのではなく、私は私であることをただ肯定したい。恐れからそうは言えない気持ちが「周囲への配慮がない」にすり替わってしまうのだと思います。

尹 雄大

尹 雄大
(ゆん・うんで)

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、政治家など、約1000人にインタビューをおこなう。著書に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。
プロフィール写真:田中良子

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