「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法

第19回

記憶が作り出す怒りと感情のパターン 

2019.11.07更新

 条件反射の怒りは感情の発露に行き着かず、いつまで経っても治らないじくじくと膿むような感覚を身のうちに残します。それだけではなく周囲の人を萎縮させ、不穏な気持ちにさせます。

 スポーツにせよ力仕事にせよ、力を出し切るとクタクタに疲れはしても、清々しさを感じることはありませんか。それと同じで感情もひとつのエネルギーですから、思い切って放出すれば気持ちも晴れやかになります。泣いたら妙にすっきりしたり、怒ったら憑き物が落ちたような経験は誰しも持っていると思います。

 ところが条件反射の怒りには、その爽快さがありません。というのも、わざわざ過去を思い出して怒りを募らせるという、記憶に囚われた心残り=念があるからです。先に指摘した「慣習化された反応」とは、念を巡って発動するメカニズムに基づいているのだと思います。

 さて、記憶と怒りの感情の関係性についてこれから述べていきたいのですが、実例として私の家族を取り上げ、自分の体験から説明したいと思います。

 我が家にはお茶を飲んで菓子を食べつつ、何気ない会話でほっとする。そんなどこにでもあるような家族の風景などは絶無で、絶えず張り詰めた空気が漂っていました。緊張を走らせる原因は父です。物心ついた頃から私の父についての印象と言えば、とにかく怒っている。記憶の大半が怒りのシーンで彩られているといっても過言ではありません。

 よその家庭では成績がよくないとか行儀が悪いとか、そういうことで怒られると聞くたびに不思議な思いをしていました。なぜならテストで97点をとって「さぞかし誉められるだろう」と思って答案用紙を見せると、父は烈火のごとく怒ったからです。「あと3点取れないところにおまえの甘さがある。どうせなら100点か0点にしろ」と言い放ちました。きっと0点だとさらに怒るはずなので結局は100点しか許されないのです。勉強も喧嘩もとにかく「一番になれ」「勝て」が口癖でした。勝つこと以外に人生の選択肢がないような生き方を父はしてきたのです。

 先日、実家に帰った際に母が私に相談を持ちかけてきました。庭には植えて5年になる桃の木があったのですが、いくら待っても実を結ばないことに腹を立て、父はその木を切り倒してしまいました。さらには母が育てていた花が萎れてしまい、培養土を足して水をやりと様子を見ていたところ、気づけば父が引き抜いてしまっていました。「断りもなくなぜそんなことをするの?」と難詰したわけではなかったのは、父の性格を見越してのことでしたが、それでもあまりにも不可解すぎたので少々強い調子で問うたところ、父は返事もせずに部屋にこもってしまったというのです。以前なら自分の行いに疑念を抱かれただけで怒ったでしょうが、流石に老齢もあって機嫌を損ねるというレベルで怒りを表現するようにはなっていました。

 長年そばにいる母にも今回の父の行動はあまりにも謎だったようです。理由を尋ねられた私はこう答えました。「弱いものを見るのが耐えられないんだよ」。

 早くに実父を亡くし、7人兄弟と数は多くとも誰からも庇護されず、どん底の貧乏暮しは水を飲むことでしか腹を満たせなかった日もざらにあったそうです。将来を夢見ようと思っても、周りは貧困がもたらす低劣な暮らしにひしがれ、酒に溺れて正気を失っていく大人たちしか見当たらない。世間はそんな姿に自堕落の烙印を押すばかりで、子供の力では変えようもない事情を理解してはくれない。やがて父は故郷を飛び出し、誰の援助も受けずに起業し財を築き上げました。

 差別や貧困に傷つき、打ちひしがれた人を見ることで傷つく感性というものがあります。そこにかつての無力で立ちすくむほかなかった幼く弱い自分を見るのです。どうすることもできなかった現実は歳月がいくら経とうともずっとどうしようもないままです。

 怒りに対置するのが悲しみとすれば、父はひどく傷ついた悲しい経験をしたのだと思います。だから、そんな思いはすまいとひたすら強くなろうとしました。弱さの否定によって強くなろうとしたのです。けれども、それは決して叶いません。なぜなら幼い頃に無力だった自分がいつまで経っても心の中にあり続けるからです。

 父の怒りの引き金は「弱さ」です。彼は他人の弱い姿に我慢がなりません。努力をしていないから弱いのだと思い、怠慢さを責めるでしょうが、それはあくまで投影です。自身が「傷ついた」という弱さを受け入れるわけにはいかないのです。その葛藤のエネルギーが怒りとして噴出し続けています。

 常に怒りをたぎらせている。それが父の生きる力の源泉になっており、だからこそ「私は傷ついた。それは決して癒されることがない」というストーリーを繰り返す必要があります。こういったメカニズムが慣習化された怒りの感情を反復させ続けているのだと思います。 

 では、再現され続けるストーリーを意識的に止めることができるでしょうか。長年かけて念入りに養われてきた意識なのですから、それを意志の力でコントロールし、変えることは至難の技です。自分の書き慣れた字を意識的に他人のように書くと想像すると、その難しさが想像されるでしょう。仮に心理療法のテクニックで怒りを抑制できたとします。あくまで外形の行為に抑制をかけることはできるでしょう。しかし、その人の体験の意味合いが変わらない限り、怒りは潜在したままです。

 ここまで怒りの感情を主題に取り上げて来ました。なぜかと言えば、ベビーカー問題をはじめ、物議を醸す出来事に対し、「迷惑とワガママ」とラベリングする人のほとんどが怒りの感情をたぎらせていると思うからです。私はそこに怒りのメカニズムによるパターンを見て取ります。「迷惑をかけるな」「それは自由ではなく単なるワガママだ」と非難する人は、社会規範や社会秩序を信奉し、それを乱すことが許せないのでしょう。裏を返せば、従来の規範や秩序の幅を広げて現実を変えるよりも現状を受け入れることが大事。いわば「正しくあらねばならない」とかしこまる信念を持っていると言えそうです。そういう人は誰かが自分の信じる正しさを乱すと、傷つく感性を持っているのではないでしょうか。私の父ではありませんが、人それぞれに受け入れ難い過去がありそうです。

 「正しくあらねばならない」という考えは葛藤の存在を示しています。「そうでなければいけない」と言えば言うほど明らかになるのは、当人が決して現状に満足していない様子です。本当は受け入れたくはないけれど、そうせざるを得なかった。そんな出来事がかつてあったことを暗示しています。嫌々ながら受容した後、どういう展開を経て他人に怒りを向けるようになるのでしょう。その筋書きは例えばこういったものではないでしょうか。

 最初は「そうしなければいけない」と親に言われ抵抗したけれど、そんな態度をとると「ワガママばかり言うな」と怒られ、「世間を知らないから、大きな口が聞けるのだ」と叱咤された。いつしか甘えた自分を恥ずかしく感じるようになり、私はかつての幼い自分に別れを告げることにした。その結果、成長することができたし強くもなれた。断念に見えるかもしれないが、大人になるとは、社会で生きるとはそういうことのはずだ。なのに、なぜおまえは私がしたように弱い自分を克服しようとしないのだ。

 「したくなかったことを受け入れる」ことで確立した信念は葛藤を生じさせます。なぜなら「私が私ではない者になる」プロセスだからです。幼い頃は、それを「傷ついた」と素直に言うことも叶いませんでした。引っかかりを覚えて立ち止まれば、感傷的であり優柔不断な弱さとして扱われ、悲しいという感情に自身が寄り添うことすらできなかったからです。

 葛藤は克服といったそれ自体葛藤に溢れる物語を私たちの人生にもたらし、弱い己に打ち克つことが人生を前進させるというふうに錯覚させます。親から子へ、社会から個人へ「正しくあらねばならない」という教えを伝えるのは、実は信念と葛藤がもたらすストーリーを繰り返すことを次世代に要求しているだけかもしれません。同じ轍を踏ませるのは、自分の人生を無価値だと思いたくないからです。  

 「正しくあらねばならない」という物語は生存のために採用されています。誰しも自身を認められたいし、価値ある存在だと思われたい。幼い頃に「したくなかったこと」を受け入れたのは、親や教師をはじめ外部の承認を得るために仕方なかった選択でした。そうでなければ生きていけないと思った以上、自分の気持ちを犠牲にするほかありません。その対価として社会的に承認されはしました。

 しかし、根底に「わかってくれない」という悲しみがあります。そこから生まれる怒りは、「自分にはわかられるだけの価値がない」という無力感と表裏一体です。 

 癒えていない傷と虚しさがもたらす飢餓感は強烈な記憶としてずっと疼き続けているはずです。傷と虚しさに触れるような他人の言動は耐え難い痛みをもたらし、そのリアクションは怒りのパターンとして現れるでしょう。本人には衝動的に感じてしまうのは、怒りをめぐる物語が自覚されていないからです。

 常に怒っている父がいる環境で育ったので、私も父のようなパターンを身につけてしまっていました。例えばレストランに入って席に着いてしばらく経つのに、一向に注文を聞きに来ないと途端にイラッと怒りがこみあげてきます。サービス業なら機敏に対応して当然だ。悪いのは自分を苛立たせる店員だ。そう思っていました。でも、一緒にいる友人は「いま忙しいから手が回らないんだな」とのんびりとした態度で待てます。怒りの原因は店員にあるように見えて、本質は「自分の期待通りに他人が動かないこと」にあると言えます。

 この心中の苛立ちは「短気だから」で片付けられるものではないと、いつしか気づくようになりました。怒りに身を任せきることなく、その発火点を観ていくと、私は急かされ、怒られたかつての自分を見出しました。かつて私が萎縮し、悲しくて仕方なかった体験を店員に味わわせていたのです。そうして再現してみせることで、「私は傷ついたし、怒っている」と受け入れ難い過去があった事実をひどく回りくどいやり方で自分に見せていたのではないかと思うのです。この怒りは発散されることはなく、怒るたびに解決されていない痛みを生じさせます。

 けれども痛みを感じるのは紛れもない事実ではあっても、身体に根を持つ感覚ではありません。感覚はこの一瞬一瞬に起きては去っていきます。もしも繰り返し味わえているとしたら、傷んでいる身体のもたらす痛みではなく、記憶の中のイメージの自分が作り出しているはずです。「私は傷ついた」という憐憫がもたらす幻覚の痛みとドラマを抱えている人は私に限らず、とても多いのだと思います。

 ドラマの筋書きは「正しさとの照らし合わせ」です。人に教えられ、自分でも信じた正しさから逸脱していないか、常に再確認します。ここで言う正しさは公正や正義を意味しません。「みんなと同じである」という同質性に正しさの根拠が置かれている場合も大いにあるので、正しさは時に長いものに巻かれることや出る杭を打つ立場にまわることを促しもします。

 「みんな」が「自分にはわかられるだけの価値がない」という体験を同じようにしていたとしたらどうでしょう。「迷惑とワガママ」のジャッジが「みんなが迷惑だと感じている」「みんながそんなワガママをすれば世の中はおかしくなる」と論拠なく「みんな」をあてにできるのは、同じような体験で犠牲を払った記憶を多くの人が共有しているからではないでしょうか。それが意識化されない文化として、私たちを抑制する空気を醸成することになっているのかもしれません。

 ひょっとしたら私たちの信じている善悪や正誤は自らの試行錯誤の体験を経たものではないのかもしれません。葛藤に満ちた記憶を未処理のまま、築き上げた価値観を社会規範に合わせてカスタマイズしているだけかもしれないのです。

 けれども自分の人生から立ち上げた価値でなければ、私たちは満足を得られることもなければ、自らを信じることもできないのではないでしょうか。

尹 雄大

尹 雄大
(ゆん・うんで)

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、政治家など、約1000人にインタビューをおこなう。著書に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。
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