迷惑とワガママの呪いを解く方法迷惑とワガママの呪いを解く方法

第6回

否定されることへの激しい怒り

2018.10.20更新

 先日、ハワイで東南アジアの武術などを指導している先生が来日され、3日に渡る講習会に参加しました(私は武術が好きなのです)。指先を柔らかく反らせるだとか、日本では馴染みのない動きやリズムに戸惑いながらも、見せていただいた手本の技を参加者同士で互いに掛け合っていました。

 先生は会場全体を回って様子を見つつ、参加者一人ひとりに声をかけており、3日間で私が聞いたのは「グッド!」「オッケー!」「エクセレント!」がほとんどで、質問に対しては「こうしたほうがいい」のアドバイスはあっても「それは違う」とか「その動きはダメ」の類は一言もありませんでした。

 ビジネスのセミナーやボディワークのワークショップでも、アメリカ人の講師はおおむね肯定から入ることが多いと聞いていたのですが、その先生がまさにそうでした。

 パートナーと組んで技がそれなりにかかって、相手が足元に倒れたとしても、私は「なんだかあまりうまくできないなぁ」と失敗のラベリングをしたのに、先生は「グッド!」とサムズアップをするのです。面映ゆくなって、つい「サービスで言ってくれているんだろうな」と思っていました。

 ところがです。講習会の途中から、こうした心の動きに対して、「ちょっと待てよ」と振り返りを求める気持ちがどうにも自分を突っつき始めました。不思議に思えてきたのは、先生の評価を受け取らずに拒否している自分の姿でした。拒んで、しかも勝手に「所詮はサービスだろう」と結論づけているのです。終始一貫して自分の考えから出ることがない。コミュニケーションの拒絶です。「これってすごく失礼なことじゃないか?」。そう思いはしても、「いや、そうじゃなくて、もっとうまくなりたいし、現状に甘んじられないからこその低評価なんだ」と言いたがる自分もいます。

 そうなるとさらに疑問が湧いてきました。「まだまだちゃんとできないのだ」と厳しく、否定的に接することで、果たして自分は何を手に入れているのだろう、と。

 相手の思いを受け取るのをためらう態度は、言い方を変えれば「謙虚」だとか「誉められることに慣れていない」になるのかもしれません。でも、これはうわべを捉えた見方でしかないでしょう。なぜなら実際の振る舞いは、謙虚とも言えないし、不慣れというより礼を失した態度だからです。私は面前にいる先生の言葉を受け取らないにもかかわらず、照れてみせる態度によって拒絶を曖昧にしていました。

 NOでもなければYESでもない。こうした私のリアクションが実際に示していたこと。それは起きている出来事と直面するのを避けて、やり過ごすという行動でした。あまり真摯ではありません。単純に「サンキュー!」で応えればよかっただけのことです。

 加えて「サービスで言ってくれているんだろうな」という結論づけは、やはり相手の言動を無視しているし、敬意を払っているとは到底言えないでしょう。

 自分と相手とでは出来事に対する評価は違って当然です。しかし、相手の意見は、それとして受け入れる。そこから自分の価値観とは異なる他者を尊重する第一歩が始まるはずです。

 ところが私は相手の言うことを受け入れないどころか、「本当かな」と不信感を抱いていました。突き詰めると、これは自分に対する不信が出所でしょう。そう、私は「評価に値するはずがない」と思っていたのです。満足にできるはずのない私を評価するあなたは疑わしい。言外にそういう態度を示していたのです。

 先生は「できたかどうか」の結果ではなく、「取り組んでいる」という過程に対し評価をしていたのだと思います。その場で結果がすぐ出せるなら、わざわざ生徒は習いに来る必要はありません。できないから指導を受けに来るわけです。先生は何を私に提示したかと言えば結果ではなく、学び方の手順です。手順は間違えていない。それでいい。だから「グッド」だったのです。

 なんでも肯定するような甘い指導では上達しない。厳しさが必要だ。そう思う人もいるでしょう。けれども、その発想で見落とされているのは、結果を出せるかどうかは講習後の自分にかかっているということです。つまり、先生の肯定は生徒の自立した学習を前提にしています。技術の精度を高めていくのは、自分の研究と取り組み方次第だから、誰にも甘えることはできません。

 翻って厳しく指導し、結果を求めたところで個々の自立があまり望めないのは、指導する人の考えや評価基準への依存を学習する側が強めるからでしょう。

 ここに至ると、自分に厳しく否定的であることで私たちは「何を手に入れているのか」は明らかになってきます。自立の拒否です。

 武術に限らず、スポーツや教育でも肯定ではなく、まず否定から入ることが多い。皆さんも思い当たる節があるでしょう。「ちゃんと言われた通り、まじめにやれ」「こんなこともできないのか」。こうした言葉に子供の頃からどれだけ晒されてきたでしょう。しかも、できたかどうかは問われても、その過程はあまり注目されませんでした。そんな経験をしてきたものだから、私たちは自分に対して真摯に向き合うことと「だから自分はダメだ」と手酷く扱って、頭ごなしに否定することの違いがなかなかわからなくなっています。内省は是々非々を問うはずですが、ダメ出しと自己嫌悪にしか行き着かない。

 しかも、「自分に厳しく」といったところで、ほとんどが親や教師から教えられた価値観をなぞっているのが実情でしょう。要は他人の望む自分になるための厳しさであり、否定的な扱いでしかなく、まるで自分と向き合っていないわけです。

 本当の意味での自己否定は「他人に望まれるような自分を演じる」というエゴを相手にしなくてはならないでしょう。これを温存させたままの厳しさは見せかけのことで、実は自分を甘やかす態度と言えます。

 さて、ここからが本題です。前回の「恐れから私たちがついとってしまう態度」では、みんなから爪弾きにされず、協調して生きるために、私たちは自身を否定的に扱い、そのことに非常に巧みになった結果、以下のような「ふたつの身なりの整え方」を手に入れたと書きました。

 ひとつ目は自分の興味に従って物事を試してみて、その体験の中で培った「正しい」と感じることを述べたり、それに基づいて行動することを放棄しました。
 ふたつ目は怒りを表現することを恐れ、それでいて怒りを募らせ、捻くれた形で表現するようになりました。

 ひとつ目については先の連載で触れたので、今回はふたつ目の怒りについて考えていきます。怒りを恐れると同時に募らせている。このメカニズムと自分に厳しくあたることは背中合わせだと言えます。互いをつなぐ上でのキーワードは「謙虚」にあります。

 私たちが生まれたときから親しんでいる文化は、物事ができるようになるのを求められながら、自ら「こういうことができる」と訴えることを謙虚さの欠如とみなします。だから「大したことはできない」という謙遜を踏まえて、「いや、そんなことはないですよ」といったような打ち消していく他人の声を頼りに、自分を示そうという慣例に従いがちです。

 私たちはこの慣わしを謙虚さの表れと思っています。ですが、自らを否定的に扱うのは、他人と足並みを揃えるための方便でもあります。それを習慣とするうちに、「私なんて・・・」と自己評価を低く見積もることも習い性となってしまいます。そういう例も多いのではないでしょうか。だから本人は謙虚なつもりでも、実態としては卑屈な振る舞いでしかないこともしばしばです。

 自身の実力を信頼する気持ちがあるからこそ、自分や他人を思いやれます。それが謙虚な態度を生むでしょう。しかし、「私なんて・・・」から始まる卑屈さは、他人の提示する価値観や基準を満たせないことへの焦燥や妬みを内包しているものです。自信が持てないからこその装われた謙虚さは居丈高な態度にいともたやすく反転します。卑屈さと傲慢さを往き来することでしか自分を認められないのです。

 「彼はできるが、私はできない」。ただの比較で終われば卑屈にはなりません。しかし、「あいつはできるのに、なぜ自分はできないんだ!」と比較に嫉みの感情が重なるとき、私たちの身の内で怒りが生じます。この怒りの起源はなんでしょうか。おそらくは常に「できること」のみが評価され、自身の思っていること、感じていることは全く顧みられなかった。「私は理解されていない」という傷が怒りを呼ぶのでしょう。

 できないのは「能力がない」「努力が足りない」「いけないことなのだ」と叱られ、嘲笑されてきた。弱い自分をひたすら否定されてきたのです。だから、できる人を前にすると、癒えることのない痛みや悲しみが疼き、常に評価されてきたことへの怒りが頭をもたげます。そうなると人と比べて何かができない。それがあたかも自分の存在の否定として感じられてしまいます。できないことがただのできないこととしてではなく、沽券やプライドの問題に発展してしまうのです。

 ここまで読んでおや? と思った人もいるはずです。私たちにとって馴染みのある文化は自己否定を謙虚な態度として奨励していたはずです。蓋を開けると、シビアに力量が問われる局面になると自分が否定されることに耐えられず、かといって自分の弱さを見つめられず、受けいれられず、いたずらに他人の否定に奔走するのです。

 私たちは世間が求めている価値観や道徳や眼目に従って、自分の主張を取り下げ、他人と同等に振る舞うことを良き事としてきたはずです。けれども本当のところは社会が用意した基準でジャッジされ、否定されるたびに怒りを募らせてきたのではないでしょうか。それを明らかにすることはできませんでした。なぜなら極めて個人的な思いから発露された怒りは、単なるワガママな振る舞いだと言われるからです。本当は比較などされず、自分を自分として受け入れたい。そのことをストレートに怒りとして表現できず、他人の否定のために怒りのエネルギーを投入する。そんなねじくれた形で怒りを表現しているのではないでしょうか。

尹 雄大

尹 雄大
(ゆん・うんで)

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、政治家など、約1000人にインタビューをおこなう。著書に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。
プロフィール写真:田中良子

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