「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法

第12回

苦労なく社会を生きる

2019.04.18更新

 先日、起業することになった、感度の高そうな高校生と知り合いました。自分が彼と同じ年の頃、店を立ち上げるなど考えもつかなかったので、「すごいね」と思わず口にしてしまったのです。その時の彼の表情を見て、なるほどと合点がいったのは、ただやりたいだけのことを「すごい」と言われても、ピンと来ないのだなということでした。

 彼なりに作りたい店の構想はあっても、それを具体化していく上でわからないこともあるでしょう。脇で支える大人は必要だということで私も声をかけられ、そのひとりに加わりました。

 そうした大人の中には、件の若者が店のリノベーションを手伝ってくれるメンバーへの進捗状況の報告が遅いとし、それを「責任感の欠如」と叱責し、加えて「楽しいだけが仕事なのは本当ではない。苦しいことがあって初めて仕事と言える」と諭していました。

 進捗に関する連絡が遅いと判断していたのは、その男性だけでした。なにせ起業する高校生が主体なのですから、報告の遅速も頻度も彼次第です。私はメールが遅かろうが早かろうが、それが彼の「間」なのだと理解していました。

 出資者でもない人が細かいところで責任感を問題にしている様は、私の目からはこう見えました。レスポンスの遅さを問題にしているのは責任感の有無を指摘したいのではなく、自分に対する敬意の欠如として捉えているからではないかと

 また、苦しんでなんぼ。楽しいだけが仕事でないのは、彼にとっての経験がそういうものだったのでしょう。

 ですが、極めて個人的に培った信念を他人に強いるのはマウント以外の何ものでもありません。当人の中では「若い人を育てる指導だ」と思っているかもしれませんが、その発言の意図は「その人をその人として育てること」になく、若者を自分のようにしたいところにあるように見えます。

 経験を積んだ人は迂闊にも「経験によって」何事かを教えようとします。それが正しいことであるかのように。

 経験者の言葉に価値があるのは、それが「経験によって」語られるのではなく、「経験を通じて」の発言である場合です。前者は自分の知り得たことを元手にこれから先を既定のごとく語り、後者は自身の経験を仮説としてこの先の未知を観ようとする。この違いは大きいです。

 その男性の発言から垣間見えるのは、経験や仕事に対する考えだけではありません。それらを包括している「社会」という言葉の意味を図らずも浮き上がらせてくれます。

 言うなれば彼は、「そんなことでは社会では通用しない」「社会人としてやっていく構えがなっていない」と警告しているわけです。

 何の気なく口にするがゆえに私たちは社会に何を見出し、どういうものとして思い描いているのか。その違いを突き合わせることはなかなかありません。彼我の差を明らかにすれば、私たちが生きていく中で知らず抱えてしまう恐れを明らかにしていけるのではないかと思います。

 そこでまず思い出してもらいたいのは、前回の終わりに記した内容です。自分らしく生きることを諦めさせ、自身の価値を低く見積もらせるべきだと信じさせたのは誰なのか? しかも、それをどうして受け入れてしまったのか? 換言すれば、周りから受け入れられるために「私は無価値だ」と自ら信じるようになったのはなぜか? と問いました。

 自己評価が低いというのは、実は信念のなせる技だと思います。そうでなければならない必然性が当人の中にあるからこそ生じるからです。そして自己評価のいう「自己」とは、あくまで他人の目から見た己の姿であり、優劣を決める評価基準は常に私の外にあります。主導権をあらかじめ自分以外に握られているのですから、ジャッジされるほどに自信を失っていきます。それでいて評価されるのを屈従として感じることなく、受け入れるのはなぜでしょう。

 それは自分を低く見積もるという信念を持つことで初めて周り、つまり社会に受け入れられると思っているからです。

 そうした社会を生きる上での振る舞いを時に協調性や空気を読むに変換してしまうわけです。その手法について「社会人」という日本語独特の言い回しから考えてみたいと思います。

 社会に参入した人を社会人と呼んでいます。「いつまでも学生気分ではいけない。これからは社会人としての自覚を持ちなさい」といったように、もっと現実的な生き方をするように激励されたり、「社会人として如何なものか」と善悪をわきまえるべきだとたしなめられたりします。そこからわかるのは、社会人には現実を生きるための常識的な振る舞いが期待されているということです。

 ところで、社会で生きるのであれば、全員が社会人のはずですが、子供を指してそうは言いません。「この春から社会人になります」といったように、会社勤めをすることがほとんど社会に参入するような意味合いになってしまっています。

 そもそもを言うと社会は「ソサイエティ」の訳語であり、語源を遡ると「結びつき」を表しています。人同士が結びついたのは、群れた方が衣食住を安全に確保する上で得られる利益も多いからです。その共同体に所属する限り安心して暮らせます。ですが、その安心は群れからはぐれてしまっては生きていけないという恐怖と裏腹です。

  初めは、むき出しの自然相手に生き延びる過酷さをやわらげるため社会を作り、それに参入しました。次に他のメンバーの顔色を伺うことで社会の中で生き残りをはかるゲームに参加しなくてはならなくなりました。生存のための社会への参入とメンバーを相手にした生き残りは、互いの「結びつき」と「しがらみ」をもたらしました。両者は関係性によってどちらにも転びますから善し悪しは問えません。

 ともあれ社会は、ひとりとして同じ人間がいない同士の結びつきによって成り立っているので、様々な結びつき方が放射状に広がっていいはずです。けれども会社員が社会人を意味するように、どうも単純な結びつきがだいたいの生き方の目安だと思われています。

 そこから伺えるのは、社会とはそれを形成するメンバーが話し合って、従来であれば社会の枠に収まらないという理由で異分子として排除していたものを、むしろ社会の幅を広げることで包摂していく。そういった試みで新たに構築していくものではないということです。新卒一括採用のように、あくまで出来合いの形やルールに合わせていく、範囲の決まったモデルなのだという信奉を知らず抱いていると言えます。

 そうなると苦労の意義も見えてきます。社会は流動的ではなく、限られた範囲で有効なものが社会の一般的なルールになり得るならば、新参者には「ここでのやり方を何も知らない。だから教わる必要がある」と言えますし、それも妥当でしょう。何も知らないうちはやっていることの意味がわかりません。そうした何もできない苦しい時期を経て、熟達した技を身につけられる。そうなれば先人の経験に対して自然とリスペクトの気持ちも湧きます。

 ですが、結びつきがいつの間にかしがらみに転化するように、「知見や技術をものにするには苦労もある」が「苦労なくして身につくはずがない」と苦労自体に意味を見出すことになってしまっては話がおかしくなります。その態度がマウントにしかならないのは、自身の経験が無駄ではなかった証明のために共感を強いており、他人の人生を自分のために費やすことにしかなっていないからです。

 冒頭で述べた男性を引き合いに言えば、本質的な責任を取り沙汰するなら、実は彼のほうが問題です。と言うのは、高校生に「社会を生きる上でのまっとうな振る舞いから逸脱している」と言いながら、自分のやっていることの正しさの証明を若者に依存することで果たしているからです。最終的に依存や自らの正しさの証明に行き着くのであれば、果たしてそれは本当に苦労の名に値するのでしょうか。

 「苦労が人を育てる」と巷間では言われます。この言い様を口にする人は習慣で言っているだけで、本気で苦労について考えていないのかもしれません。

 というのは、苦労はやって来るもので、選びようも避けようもないものだからです。それだけが人を育てるわけでもないですし、また側からは骨を折っているように見えても、本人は難儀さと取り組むことが創意工夫の試みで楽しかったりします。もちろん、この楽しさは快楽ではなく焦りや失敗など苦を交えたものではあるでしょう。

 「あの時の苦労した経験があったから今の成功がある」と人は振り返って言いがちです。これもよくよく吟味しなくてはいけないのは、失敗に対しては「あの時の苦労した経験があったから」とは決して言わないからです。非常に恣意的な関係性を苦労と成功の間に見出していると言えないでしょうか。

 経験とは未知に向けて身を投げ出すという試みです。どうなるかわからない試みの結果はそれとして受け入れ、本当に注目すべきは成功や失敗ではなく、それらをもたらした原因のはずです。

 つまり、因果の因という始まりは、「やりたいこと」や「できること」にあります。そこに苦労は介在しません。なぜなら「やりたいこと」や「できる」ことは、当人にとって楽にできる状態だからです。そこでは自分のやりたいことを他人と比較して低く見積もる必要もなければ、「できなかったらどうしよう」という恐れもありません。行いが苦労としての意味や重さを持たないのです。

 そのとき私たちは理解します。みんなの群れから離れると生き延びられないという恐れはあくまで想像であって、実際には群れを飛び出しても死にはしないし、孤独であることは悪いものではないし、何ならそこから新たな仲間との出会いだってあるということです。

 この世に生まれ、自分が自分として十全に生きていく。そのことに誰の許可も必要としなければ、「それは間違っている」だの「正しくない」と言われる筋合いもないのです。権利という言葉を持ち出さなくても、私たちは感覚的にわかっているはずです。 

「感覚的にわかっている」と言われてしまっては、理解に手を伸ばしても取っ掛かりがつかめずに置いてきぼりを食らったように感じるかもしれません。

 それが理想の体型になるためのトレーニングであれ、幸せになる方法であれ、数値や科学的根拠が明確に示されない限り信じるに値しないと思うような世相では特にそうでしょう。

 けれども「感覚的な理解」とは「信じるか信じないか」の信念によって左右されることではありません。感覚的な理解という体まるごとの把握は、信念という重さに囚われない軽やかさがあるからです。

尹 雄大

尹 雄大
(ゆん・うんで)

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、政治家など、約1000人にインタビューをおこなう。著書に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。
プロフィール写真:田中良子

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