「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法「迷惑とワガママ」の呪いを解く方法

第18回

身体のない感情

2019.10.10更新

 「腹が立つ」という言葉を聞けば、怒りの感情表現だとすぐにわかると思います。とはいえ、頭では意味を理解できたとしても、本当に腹が「立つ」という感覚が怒りそのものであると体験し、納得している人はどれくらいいるでしょうか。

 「平家物語」では「ふくりふ(腹立)」と表記されていることからわかる通り、「腹が立つ」という身体を伴った表現はこの島で暮らす住民にはおおむね馴染みがあるかと思います。

 長らく親しまれた慣用句のためつい見逃してしまいますが、ここで言う「腹」は西洋の解剖学の知見が輸入される以前から人々が口にしていたことなので、腹腔だとか腹筋だとかが指す部位ではありません。では、古人の感じていた腹はいったいどこを指しているのでしょう。腹と言えば力を込められる腹筋を想像しがちな現代人とは感覚的に隔たりがあるかもしれません。さらにはその腹が「立つ」に至ってはどうでしょうか。私たちは「立つ」という尖りをまざまざと感じられるでしょうか。

 「立つ」の実感が難しいのであれば、「腸が煮え繰り返る」など体感するにはなかなかハードルが高いと言えるでしょう。どちらかと言えば「腹が立つ」よりは「ムカつく」や「キレる」「頭に来る」の方がわかりやすい。ムカつくのは胸であり、「キレる」は脳の血管、「頭に来る」は文字通り頭部です。

 ここからわかる通り、身体を伴う感情表現の場所はどんどん上昇しています。そして、今では怒りは頭を通り越して空間に漂っており、クラウド化している傾向が多分に高いようです。炎上騒ぎがいい例ですが、自分の身に起きたことではない出来事に対して多くの人が怒りを募らせるのは、あたかもサーバーに上げられたデータをダウンロードしているのにも近いように思えます。

 このように身体を離れ、実感を伴わない一方で、怒りはなだめるべきものだし、中和させて行くのが望ましいという見解が広まりつつあるのは興味深い現象です。

 会議や友人との会話といった公私を問わず、人前で怒りを露わにすると必ずたしなめようとする人が現れます。冷静に話すことを重視する人が強調するのは概ね「感情的に話しても理解されない」「怒りは何も生まない」の二点です。

 そういう人が努めて冷静であろうとする物腰にはむしろ怒りを怖れ、忌避する様子を見て取ります。「感情的に話しても理解されない」と諭すのは、「それでは伝えるべき意味が受け取られない」と考えているからでしょう。

 けれども、仮にあなたが怒り心頭に発しているとしたら、「私はこういった正当な理由で怒っているのだ」などと意味を伝えたいでしょうか? 怒りでわなわなと震える。最もらしい理屈では言いようもない怒りは、そのまま「怒っている態度」として表すほかないわけです。「感情的に話す」ことが怒っている状態を伝える上でもっともストレートな表現です。であれば、「それは良くない」などと他人に自分の怒りを奪われる筋合いはありません。

 「怒りは何も生まない」についてはどうでしょう。歴史を振り返れば、虐げられていた人たちの怒りが世の中を変えもすれば、怒りが物事を前進させてきた例などいくらでもあります。むしろ感じた怒りを抑え、出すべき声を控えては現状に甘んじるばかりになってしまいます。特にいまのような時代に「怒りは何も生まない」という言説がもたらすのは、怒りを情熱に転換させる道筋を断ち、無力感を覚えさせることではないかと思います。

 もちろん衝動に任せてしまって怒りの感情のコントロールが効かず、暴言を吐くようなパワーハラスメントは認められるものではありません。これについては後述しますが、「抑制できず、つい衝動で言ってしまう」といったパターン化された感情表現は身体の内側から湧き出る感情と似て非なるものではないかと思います。

 怒りをなだめる人たちは怒りの感覚を本当に味わい、体験しているでしょうか。怒りの発露にあるべき姿からの逸脱のサインを読み取り、それをともかく正そうとする人は冷静さや平和、穏やかさを愛すからではなく、激した姿や怒らざるを得ない生々しい現実を受け止めきれないだけかもしれません。

 また「まあまあ、言いたいことはわかるけど」と怒りに理解を示し、あたかも翻訳するかのように、言い分を説明して見せる人もいます。他者の経験を社会的に価値づけられるようにしているとしても、その人の怒りと向き合っていると言えるでしょうか。

 常に冷静で穏やかであるのは、生物としては極めて不自然でも社会的には望ましい姿です。職場環境も一定の調子に揃えることができますし、感情に煩わされない分、生産性もよくなるというわけです。しかし、人間は工作機械や人工知能ではないし、常に効率や職場の人間関係に受け入れるために生きているわけではありません。

 感情的になっても有意義なことはないし、生産性がない。そうして感情を意識的に抑制していけば、いつしか感じていることに価値を置けなくなり、体感を抑圧することになっていくでしょう。ただでさえ空気を読むことが不文律の掟になっているのでれば、なおさらみんなとの和合のために自分の感情を封殺する方に向かうでしょう。

 「みんながそう言っている」「みんなのため」「普通は~でしょう?」と様々な言い方はされても、「あなたはどう思う、どう感じる?」と大事な局面であればあるほど聞かれることは少なかった。それは間接的に体感を否定することが社会を生きる上で大事だと教えられた経験になっているのだと思います。

 感情が確実に身体を伴わなくなっており、いま私たちが「感情」と呼んでいるものは、もはや意識でコントロールできる装置めいたものになっています。セクシャリティや人種など属性を差別するような言動であっても、それがビジネスパートナーや友人の発言であれば、関係にヒビを入れたくないから受け入れるべきでしょうか。「ここは怒りを抑えるべきだ」と自分に下す命令で感情を抑え込められるとしたら、それは冷静というよりは意識的に操作できるものになっているはずです。そうなると激昂や悲憤慷慨は野蛮の証と受け取る感性が常識となっていくのも当然です。感情は庭師が手入れした木のようにきれいに切りそろえられ、荒々しさは趣向としてはよくても、本当に自然そのままの発露であってはならないのです。

 けれども本来ならば感情は表れるものであって、封じたり我慢するものではありません。意識的にコントロールするから表出にならず、突然キレたりといった逸脱や暴走になってしまうのではないでしょうか。

 身体が必要なだけ訴えている感情の輪郭を把握する術を私たちは失いつつあります。そこでみなさんに試みて欲しいことがあります。先ほど「身体を伴う感情表現の場所はどんどん上昇しています」と記しました。逆にこれを下降させていくとどうなるでしょう。想像してみてください。クラウド化された空間上の怒りから頭、胸、腹へと感覚を徐々に降ろして行ったとします。どこまで実感が持てるでしょうか。腹が先人と現代人では感覚的に同じ場所かわからないと言いましたが、「腹に落ちる」「腹を割る」「腹が座る」といった慣用句から連想されるのは、腹による体感は意識が介入し、コントロールしてはあれこれと迷うといった余地が生じにくいらしいということです。

 そうなると「腹が立つ」には「なんだかモヤモヤする」といった不透明さはなく、明確に「立つ」感覚が伴うということがわかります。立っているのだからどうしようもない。意識的に「冷静になれ」などと言ったところで紛らわしようがない。だから腹いせに何をするかといったら暴飲暴食とか路傍の石を蹴り上げるとかの八つ当たりです。言葉による沈静ではなく、必ず行為が生じることで腹立ちも紛れるわけです。

 何か物事が起きたことを受けて感情が生じます。そういう意味では受け身かもしれませんが、確固とした身体から発した感情には能動性があります。だから、「自分が怒ると周りの迷惑になるだろうか」といった社会性が登場する余地はあまりありません。なぜなら立腹は至って個人的な出来事であり、だからこそ本人にとって大事な感情だからです。

 いつでも感情の抑制を利かすことができるとしたら、それは他人に受け入れられる「あるべき姿」として仕付けられ、選ばれた「意識的感情」とでもいうべきものです。発火するような、物事に直接応じるような感情表現ではありません。想定された感情なので拠点となる主体がなく、つまりは身体が伴いません。「腹が立つ」といった怒りの表明は「いま・ここ」にいる私の身体に根ざしています。しかし、身体のないイメージの感情なら私の怒りは表していいかもわからない、常に曖昧なものにならざるを得ないでしょう。

 他人からの理不尽な攻撃や不快な言動を受けてすら、怒っていいかどうかわからなくなるのは「怒ると相手に嫌われる」とか「場所を弁えないといけないのではないか」といった社会性を優位に置こうとする意識が瞬時に介入するからでしょう。私だけの怒りを味わいもせず、体験もしない。それは冷静さとは呼べず、ネグレクトに近いかもしれません。

 私の基盤が身体になく、怒りの輪郭が明らかでないのであれば、何が自身の行動の指針になるかと言えば空気との同調でしょう。そのとき「どういう空気であるか」は問わなくていいのは、何より空気であることだけが大事だからです。

 「本当は嫌だけど周囲に同調した」という説明が示すのは、雰囲気が息苦しくても本質的には構わないということです。「居心地が良い」とはそこに馴染めるかどうかの慣れの問題であって、体感として心地良いとは限らないかもしれません。そうでもなければ嫌なことをし続けられないはずだからです。

 ここまで話を進めると次第に明らかになってくるのは、パワハラに見られるような、感情のコントロールの効かない、衝動に任せた暴言とは本当に身体に根を持った怒りなのか? ということです。衝き動かされるとは、その時その場でしか起こらない一回性の出来事のはずです。だから「抑制できず、つい衝動で言ってしまう」が執拗に繰り返されるとしたら、それは慣習化された反応に他なりません。いわば「レモンを思い浮かべたら唾が出る」といった条件反射であって、怒りとは別の企てがあることになります。それが「迷惑とワガママ」のジャッジを厳しくする方向に働きかけているのではないかと思います。

尹 雄大

尹 雄大
(ゆん・うんで)

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、政治家など、約1000人にインタビューをおこなう。著書に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』(晶文社)など。
プロフィール写真:田中良子

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