第8回
三月十五日の《角田川》
2026.04.23更新
さても、去年三月十五日。
や、しかも今日にて候ひし。
能《角田川》
能《角田川》は哀しい。
能の四番目物、物狂いの能は、自分の大切な人、恋人や子どもと離れ離れになる憂き目にも、最後に必ず再会が待っていて、狂気をしずめ、めでたく終わる決まりとなっている。
そんな中、観世元雅という天才作家は、子と再会はする、ただし亡霊として、という悲傷を添えた。
それも、舞台横にいる地謡の八人が、情景や心情を描く合唱隊から、いつしか念仏を唱える群衆へと役変わりをし、その張り上げた大念仏の中へ、作リ物の塚に潜ませた子方の謡を取り混ぜるという、とんでもない出色の工夫によって、観客は否応なく引き込まれ、人生の不条理に向き合わされ、一人ひとりがシテと等しい存在になる。
観世元雅は世阿弥の長男。あの世阿弥でさえ舌を巻いた才人だ。
能《角田川》では、都からはるばる関東の角田川(隅田川)まで子を尋ね歩いた母が、船渡りする間の、ワキの「語リ」が重要になる。
ワキの船頭は、ここでの去年のある出来事を、船を操る慰めに語り、よそごとに控えていたシテが、聞けば聞くほど、我が子の事に違いなく、わずかな望みにすがって生きてきた自分を保てなくなる。物狂いの興奮が、かえって残酷な現実から身を守ってくれていたのだ。
ワキも、まさかその母親が同船しているとはつゆと思わず、長い台詞を、淡々と、しかしだんだんと心を入れて謡っていく。
他人の会話から我が子の死を聞く、その演出も憎いほどに利いている。
都の人とて十歳ばかりなる幼き者を、人商人奥へ連れて下り候。
この人ならはぬ旅の疲れにや、路次より以っての外に違例し、
この川岸にひれ伏し候ひしを、なうなんぼう、
世には不得心なる者の候ひけるぞ、今を限りと見えたる
幼き者をば捨て置き、商人は奥へ下りて候。
能《角田川》
都から十歳ばかりの少年が、人身を商う者に買われ、奥州へ連れられるのを、慣れない旅に、病にかかり、非情にも人商人は手負いを嫌って角田川の辺りへ捨てていく。
《角田川》の語リは一曲の中でも大事な場面であり、ワキを勤める者も心するし、観客もみな心を向けている。他の舞台上の演者たちは、謡いも囃しもしない。ただワキだけが、静かに独りで語リを語る。
語リに入る前、今日も大丈夫だろうか、といつも思う。
ありがたいことに、《角田川》は何度か勤めていて、詞章自体は自分の中に入っている。「今日の自転車はうまく漕げるかな」とペダルを踏み出す人はいないように、心配は無用とも思いたい。
しかし、舞台というのは、本当に何が起きるかわからない。唾がわずかにも突っかかるとか、不意の観客の咳払いで脳が止まるとか、あらゆることが起きうるところと思ってよい。
長いマラソンは、稽古の積み重ねに身を委ねつつ、完走することが何より大事だ。
定めて我はこの病中にて空しくなり候べし。
我空しくなりて候はば、この路次の土中に築き込めて給はり候へ。
それをいかにと申すに、まことは都の人の足手影までも
懐かしう候程に、かやうに申し候。能《角田川》
憐れに思った船頭は、末期の少年に寄り添う。聞けば、都の北白川の出、吉田家の一人子で、父は死に、母とも別れ、身売りに拐かされたらしい。名は梅若丸。十二歳の子ながら、この病の死を悟り、自分の亡骸を埋め塚を築いてほしいと頼む。健気ではないか。
都が懐かしいと言う。子どもなのに故郷から引き離され、遠い異国の地で命の終焉を迎えるさびしさは、これだけ世界がグローバル化した現代人には共感が難しいだろうか。
でも、たとえば地球から放り出された、知らぬ銀河の知らぬ星で、死ぬとしたら。ちょっと目の前が昏くなる。SFのこういうシーンには鳥肌が立つ。せめて、同郷の人の、繋がる縁を残して旅立ちたい。
ただ返す返すも、都にまします母御の御事こそ、
何よりもって恋しう候へとて、弱りたる息の下にて、
念仏四五遍唱へ、つひに事終はって候。
能《角田川》
いよいよ死が迫り、事切れる直前、少年は母を強烈に思う。何よりもって恋しい。人間は最後、母を思うのだろうか。
謡っていて、自分の妻の顔を思い出した。いま仕事は育児休暇中で、たっぷりの愛情を息子に注いでくれている。それを浴び、息子もすくすく育っている。我が子が梅若丸のようになったら。考えたくもない。しかし、この《角田川》では「実際に起こったこと」なのであり、むしろ現実世界では、事故でも戦争でもこういうことがあちらこちらで溢れている。何と救いのない世の中だろう。
息子の顔も浮かんだ。まだ二歳にもならないが、このまま成長して梅若丸の歳になったら、どのような言葉を船頭に残すだろうか。
親になってから初めて勤めた《角田川》は、何の奇遇か、上演日が三月十五日だった。
語リで自然と浮かんできた、妻のこと、息子のこと。妻は私の配偶者であり、息子は私の長男である。つまり私は、息子に先立たれる母を思い、母と死に別れる子を思った、それを同時に想起したことになる。
謡の詞章としては、ここは梅若丸の直接話法になっている。その話法に従うなら、息子はともかく、妻の顔からは、妻と彼女の母とを思うべきだし、私も、自分の実家の母を思って、それぞれの親子の像を結ぶのが筋だろう。
だが、自分も子というものを持ち、そこで目に浮かぶ家族の顔というのは、多様の中にあって、そこから関係性の中の命というものを見つめていた。落語のように、人称をくるくると変える一人芝居ではなくて、能の謡という枠の中に、人称を超えた物語が据えられている気がした。いわば言語以前の、記憶の集合体のような、「人類の話者」というものを想定したくなった。なぜなら、そうでなければ語リの間、まさに私の預かり知らぬうちに、母側の視点と、子側の視点と、それを見守る視点と、いくつもの横顔を同時に思い浮かべられはしないと思うし、謡に規格外のそういう力があるからこそ、ワキの語リからシテの心情を照射するということができるのではないか。
我が子と見えしは塚の上の、草茫々としてただ、
しるしばかりの浅茅が原と、なるこそ哀れなりけれ、
なるこそ哀れなりけれ。
能《角田川》
「あれは我が子か」「母にてましますか」と互いに手に手を取り交わす母子は、子が亡霊であるからして、当然にすれ違い、「面影も幻も見えつ隠れつ」しているうち、東雲の空がほのぼのと明ける。夜ならば幻にも戯れられるが、朝日は現実を照らし出してしまう。
朝を迎えてしまった母親は、これから、どうやって生きていけばいいのだろう。
この能は、終曲すると、会場はきわめて重い空気に支配され、拍手の起こりにくい演目としても知られる。能は緞帳がないので、シテも、ワキも、囃子方も地謡も、終われば舞台を去っていくが、この歩みに独特の重みが生じる。
三月十五日の命日に、この母親が、この船に乗ったのは、何の巡り合合わせだったか。船中の話題に上らなければ、梅若丸の墓とも交錯せず、この母はまだ旅を続けただろう。消え入りそうな小さな希望の光を抱いて。あるいは、夢幻でも我が子の声を空耳し、姿を空目した一閃を、せめてもの救いとすべきであったろうか。
人の親となり、三月十五日という日に《角田川》を勤める奇縁を得たけれども、それはまだわからなかった。
舞台後、ある演者が語っていた。「《角田川》は哀しい物語だが、この作品に出会えるのはたいへんな幸せだ」と。




