第9回
春の夜に
2026.05.30更新
春の夜がやってきた。
『枕草子』には「春はあけぼの」とあるが、春は、夜の間がなかなかよいのではないかと思い始めている。
春が桜の季節なら、そのたおやかな花、朗らかさ、光のやさしいぬくもりを愛でるべく、いくつものすぐれた詩歌が編み出されてきたが、その詩集を閉じ、一日の疲れを慰めるように、柱にもたれて窓の外を眺めると、この春の闇、ひんやりとした静けさが、心に沁みることに気がついた。
清少納言も、この春の夜を眺め尽くして、そうして迎えたあけぼのではなかったろうかと思い探りたくなる。
春の夜というと、藤原定家の、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という歌が有名で、そのイメージが、多かれ少なかれこれまでの文学に影響を与えていると思う。春の夜のはかない夢が覚め、明け方に、峰の横雲が景色として広がる、そういう大意だが、男女の逢瀬の別れの、どこか恋の情趣を色濃く漂わせる言葉のチョイスで、どこまでもムーディーで、エモーショナルな情景だ。要は、エモい。
春の闇も美しい。夜に隠された梅の香りも芳しいし、闇に浮かぶ夜桜も幻想的だ。古典に例を求めれば枚挙にいとまがない。
でも私が今回いうのは、そんな雅やかな正統じみたことではなくて、この春の季節の、夜の時間帯の、その好みである。
夜、窓辺に座って本を読んだり、机で書き物をしたりする。窓を開けると、日中は汗ばむような日差しでも、だいぶひんやりとして、旬によっては冷えて戸を閉めるだろう。初夏に近くともなかなか肌寒い。でもその気温は冬のそれとは違って、春の夜の間のよそおい、と受け容れることができる。何しろ春は万人が待ち望む季節であって、その夜なのだ。温度計の目盛りの上下に違いはないのだが、春ならば、信じて夜と付き合える。不思議なものだ。
朧月夜で月明かりはこちらを刺さない。縁側や外灯のライトを点けると、小さな庭の樹木が照らされて、面白い。
家で新しい居場所を探すのが最近ちょっと楽しい。日が暮れると椅子に腰掛けるか、ソファーに寝転ぶかしかないと思っていたが、例えば和室の縁側に、壁に寄りかかって外を眺めるのがなかなか一興で、そういえば『源氏物語』でもなんでも、夜長に柱にもたれ物思いに耽る王朝人を、昔はそんなものかと思っていたのに、自分が同じような轍を踏んでいて笑った。柱にもたれかかる気持ちよさを、今は人に勧めたい。
本を読んでもいいし、盃を傾けてもいいし、無粋だが仕事に襲われたっていいとも思っている。
それくらい、心地のよい場所で過ごす春の夜はいい。先ほどの闇の信頼もある。夏の夜ほどつれなくない。冬の夜ほど重くもない。秋の夜長も好きだが、猛暑と大寒に挟まれてそもそもの秋が消えかかっているのを危ぶむ。
ほととぎすの声がした。慌てて旧暦カレンダーを見る。今夜は昔でいうところの三月、弥生の末だった。
ほととぎす思ひもかけぬ春鳴けば
今年ぞ待たで初音聞きつる
(『後拾遺和歌集』春下・162・藤原定頼)
鶯は春にさえずり、ほととぎすは夏に鳴くものとされる。そうやって季節の巡りが楽しまれてきた。花実の時を忘れない草木、あるいは動物たちも、人間の暦やカレンダーなんて知ったことではないけれど、やはり時候は守り、その節になると例えば初音を聞かせてくれる。
望外の恵みを、少し洒落込んで、私もここにいるよと、心の中で返事したりする。
ほととぎすの声は、真夜中に、印象的に響く。夜は、自分という存在が独りぼっちであることを、しみじみと感じ入る時間だと思う。そんな闇の孤独に、高い調子のさえずりが夜の空高く響き渡る。残業のデスクワークでも、謡の覚え物でも、締め切りの筆入れでも、あの声を深い深い夜中に聞くのは、とても意外で、真夜中に伝わる大通りのバイクの音よりも驚かされる。テレビもラジオも電波放送を終えたって、さえずる鳥なのだ。自分のことは措き、ほととぎすよ、そんなに仕事に忠実でなくてもいいんじゃないの、と慰め返したい。
彼らは彼らで、さえずらなくてはならない事情があるのだろうと、ぼんやり想像する。
春の夜の、花の影より明け初めて、
鐘をも待たぬ別れこそあれ。
能《西行桜》
西行法師は、嵯峨野の奥に庵を結んでいたが、庭の桜が評判となり見物人たちを集めてしまう。憂き世を捨てきれない隠遁の生活に、「花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」と詠む。群衆を「桜の咎」と戯れたのである。すると西行の夢枕に、老木の桜の精が現れ、咎という言葉をまさに咎めつつ、都の桜、春の夜を閑雅に讃え、夜明けとともに消える。
夜を楽しみ寂寞を愛する時間は、孤独をかこち愛でながら、同じ心の友と響き合う。
結局、西行が出会ったのは、老桜の精ではなく、西行の夢中の、西行自身だったのではないか。夢覚ます嵐の吹かぬこの西山に、小さな庵を結び、老木の桜と共生しながら、自然を観念し、古来「人を呼ぶ力」のある桜を、うらやみ、うらみ、老いを一緒に見つめながら、この春の夜の時間を共に過ごす。「待て暫し待て暫し、夜はまだ深きぞ」と春の夜を惜しむシテは、老いの中で咲く花、限りある生命の中の花を見つめている。
人は皆死ぬ。桜は定めて散る。だから、同じ心の友とのこの時を、何にも代えて楽しむのだろう。
じつは、明日は父の通夜である。前夜に、実家でこの文章をしたためている。
その日の昼まで元気でいたのに、夕方から体調を崩し、深夜にそのまま帰らぬ人となった。目立つ持病もない急逝だった。あれよあれよという間に、この夜だ。「待て暫し、待て暫し」という言葉が繰り返しよぎった。
父が葬儀までの間、家に帰ることができたのは幸いだった。いよいよ別れが迫る。寝ているような顔だ。母や妹弟も惜しんで隣から離れようとしない。私も父が好きだった酒を手向け、ぼんやりと盃を傾けている。
先に、《西行桜》のシテは西行自身と意欲で書いた。いくぶん訂正しようと思う。西行自身に、少し夢を乗せた、自分よりもいくつか大きな存在との対話であるような気がする。
能では夜も夢も明けて、幕を閉じる。現実が始まる。夢の時間は終わるということだ。
気がつくと、「死出の田長」というほととぎすはもう鳴いていない。
筆を擱こう。朝が来る。




