第11回
父の不在、父の死
2026.07.23更新
金曜日、ベビーサークルに入り込んで二歳の息子を寝かせていると、いつしか自分も眠りこけていた。深夜、妻の呼び声で目を覚ました。二十三時過ぎだったろうか。東京に住む母からの電話だった。
「お父さんが、急に意識がなくなって、いま救急車で運ばれています。これから病院で処置を受けます」。
いつもの母の、少し真面目なことを伝える時の、落ち着いて、丁寧な口調だった。言葉にわずかな揺れを感じた。でもドラマのような取り乱しはなかった。
寝耳に水、と書けばよいだろうか。大事の用事と聞きたくなかった。
肉親やかえがたい環境を引きちぎる災患は、なかなか信じられず、そんなはずはないとまず思う。心配しすぎとか、後の笑い話がよくあるではないか。
自分の身体でも、もう上がることのない視力を眼鏡で補ったり、永久歯の虫歯、一生消えない傷跡を肌に負ったりして、後戻りのできない諦め、老い、死という終焉にうっすらと対面してきたが、あの震えるような身悶えに、普段は蓋をして、いやそもそも、適切な処置を施せば健康の状態にだいたい回復してきた。
持病もなかった父がそんなことになるはずがない。少し脇道に逸れただけで、本道にほどなく合流するはずだ。そう強く思った。
三十分して、再び母から、救急病院に入ったという電話があった。妹弟たち、それから有松の本家に伝言した。
本家は、次男だった父の兄家族が寺を営んでいる。久々の、しかも真夜中の連絡に気が引けたが、伯父が出てくれた。救急車の報告をしただけなのに、伯父の、か細く、気落ちしたような声が気になった。寝起きだったせいだろう、と思う背中で、自分の正常性バイアスが疼いていた。
まもなくして、母から三度目の電話があった。父は亡くなった。
大動脈解離だった。七十五歳。救急車で運ばれた時にはほぼ亡くなっているような状態で、心肺が蘇生しなかった。これ以上の措置は身体を傷つけるだけなので、処置をもう止めましょうということだったらしい。
病院に一人でいる母が気になった。実家から近くの妹がタクシーで駆け付け、車で小一時間のところの弟夫婦も病院に急行してくれた。長男はまだ京都で一番遠い。
伯父とその子(従兄弟)も病院に来てくれた。父と対面できたようだ。
母によると、父は、夜の初めに背中が痛いと言い出したらしい。居間でうつ伏せになり、母が背中をさすっていた。七転八倒するような痛みではなかった。明朝に休日診療へ行こうと言い合った。お粥を食べる気にもなれず、軽くシャワーを浴びて快くなり、その夜は肌寒かったので居間の隣の寝室で布団に横たわっていたら、二十三時頃に、小さな一声を上げ、突然意識を失った。
自宅で急死すると、警察の取り調べが入る。救急病院の後、父の身体は警察の検死に向かい、実家には警官が来て簡単な現場検証が始まった。
自分も東京の実家に向かわねばならない。しかし今夕の、神社の薪能が済むまでは動けない。妻子は昼間の明るいうちに、自分は終電で東京に行こう。
その夜は興奮して寝付けなかった。そういえば、家のローンを支払っている振込口座にまとまったお金を入れなければならないのだった。近々に出勤した祝儀袋を集めて現金を取り出し、夜な夜な勘定した。何をやっているのだろう。見る見るうちに外が白む。六時。薄い札束を捻出できた。
祝儀袋の日付が昨日より前だと、そのとき父は生きていたと思った。
朝、母から通夜や告別式の相談があった。その週は、土曜日も日曜日も舞台がなかった。申合もない。しばらく東京に滞在できそうだ。
今夕の薪能まで、昼のあいだ、三つの大学講義、社中の稽古、オンライン講座「有文舎」の生放送、ミシマ社の原稿締め切りと、各方面に延期と謝罪の連絡を送りまくった。一週間分のリスケジュールだった。公演事前レクチャーも一件あったが、これは担当者の好意で内容を変更してくれた。
先発した妻から、東京の実家に着いたと連絡が来た。部屋に入ると、母と、弟夫婦の三人が、『あしたのジョー』の矢吹丈、ラストシーンのようになっていたという。
さる深夜一時半、父の身体が警察の検死へ行くと、そのまま夜三時に実家へ警官が来て、一時間近く現場検証。父の財布のお札の番号まで控え、冷蔵庫の中身もチェックされた由。四時から葬儀社選び、朝六時に就寝と思いきや、八時にチャイムが鳴り遺体が戻ってきた。十時から葬儀社と打ち合わせ、十三時にようやく一連の始末から解放されたらしい。そこへ十五時に妻子が着いた。
母は、電話口では平常の声に聞こえたが、心身に疲れが押し寄せ、悪阻のような吐き気を催していた。飲み物も口に入らない。子どもの前では気丈に努めた母も、一人の人間だったのだ。
妻は、大至急に三人を寝かせて、家の番をしてくれた。
全員に感謝の念を抱きながら報告を聞いた。我ながら役に立たない長男だ。
十五時半に車で舞台へ向かう。丸太町通を走っていると、三回も救急車が追い抜いた。ハザードランプを点けて路肩に寄る。一往路でこんなに遭遇するものだろうか。
河原町丸太町を通るとき、初めて京都へ来たときの下宿地だったことが思い出された。二十歳で、大学も関西も一人暮らしも何もかもが初めてだった。東南角のびっくりドンキーで食事中、父が「河原町丸太」とか言って妙な省略をしていた。懐かしい。誰も丸太町通を「丸太」とは略さない。ちょっと粋ぶって空振りする感じも父らしかった。
今日のお役は《邯鄲》の大臣だった。
能《邯鄲》は、「邯鄲の枕」という中国の故事に拠る。人生に悩む青年盧生は、邯鄲の里で、不思議な枕に眠る。たちまち勅使が現れ、帝位を譲られる。大臣の並み居る華やかな宮殿。四季折々を目の前に、春夏秋冬の万木千草が一日のうちに花咲く、千喜万悦で、異様の、不思議な栄華を味わう。
かくて時過ぎ頃去れば、五十年の栄華も尽きて、
まことは夢の内なれば、皆消え消えと失せ果てて、
ありつる邯鄲の枕の上に、眠りの夢は覚めにけり。
能《邯鄲》
すべては夢だったのだ。五十年の栄華も、粟の飯が炊けるまでの、ただ短い夢。この世はまさに夢だと頓悟して、盧生は故郷へ帰っていく。
この大臣のワキツレは、王の盧生に仙界の酒盃を捧げる。不老長寿の祝宴を開く。そしてシテの甘い夢が覚める瞬間、急に立ち上がり、舞台から退くという一仕事がある。ワキツレながら、単独でシテと謡の掛け合いもある。
何度も勤めているし、台詞など放っておいてもすらすら出る。しかし今日は、とにかく無事、とにかく無事に勤めなくてはいけない。
平生と違う状況にあると、舞台は何がどうなるかわからない。思わぬところであらぬ力に引っぱられることもある。不意の盲点を突かれてなだれ崩れることだってあるかもしれない。
神社の祭神に、ただただ無事を祈った。
親しい仲間内に、昨夜からの時事を打ち明けたい欲にも駆られた。しかしやはり憚られた。変に気を遣われても、遣われなくても、その気は本来一〇〇%舞台作りに向けられるべきものだ。私事でリソースを乱すものではない。ましてや観客は巻き込めない。
ひたすらに平常心へと集中して、楽屋に戻って無事の挨拶を交わすこと、それだけを考えて幕前に立った。
「皆消え消え」と舞台から立ち去る動きも大過なかった。いつもできることが急にできなくなるのが舞台でもある。足の痺れが制御不能にならなくてよかった。
終演の楽屋挨拶も済んだ。ワキの先輩だけに、今回のことを報告した。
薪能の帰り、寺町今出川を過ぎた頃、驟雨に遭った。ワイパーが追いつかない。どうしたことだろう。演能中は曇り空で、野外能の成功を演者たちで喜んでいたが、こんな横殴りの雨、どこからやって来たのか。思わずアクセルを緩める。と、千本通になると雨は止んだ。以降、全く雨の影がなかった。愁雲はどこへ消えたのか。
家に着物を置き、喪服や子どもの追加の荷物を取って、終電の新幹線に飛び乗る。手前の在来線で、車内に救急看護の乗客が出て危うく間に合わないところだった。
妻の知らせの通り、その夜の東京は、驚くほど寒かった。この冷えで、父は居間の寝転びから寝室の布団へと移ったのだな。六月が間近とは思えなかった。
スペアの鍵で実家の玄関を開ける。二十四時の頂はとうに過ぎていた。照明は落ち、静まり返っている。どんなに遅く帰っても誰かしら起きて待っている実家に、いつも申し訳なさやうら恥ずかしさを感じていたのに、今日の玄関の暗闇は、いっそう濃く感じられた。その寝静まりの漆黒に、父親の息は混じっていないのだと思った。
スーツケースをそっと二階に上げ、誰とも会わず、客間で寝た。
(つづく)




