島の底、風のしるし――戦争を聞き継ぐ人類学

第11回

市場と港(2)

2025.12.18更新

「市場と港(1)」はこちら

 湧上さんの父の思わぬエピソードを聞いたのは、港川の名物行事であるハーレーの話題から、同日に開かれる角力すもう大会に話が及んだときのことだ。

――〔港川の〕角力大会にみんながわざわざ出るというのは、賞金とかがあったんでしょうか。

湧上さん あったようですね。あったと思います。

――人によっては、ハーレーよりも角力を観る方が楽しみだったりとか。

湧上さん はい。だからハーレーのときは角力大会があるし、綱引きのときも、終わってから角力大会があるんですよね。〔...〕
......で、うちの親父が師範学校の頃は、柔道部のほうでやってたもんですからね。けっこう沖縄角力が強かったみたいですよ。それで、師範学校ですから、まだある意味では若造ですよね。地域で角力をとる人はもう、わりと体格のいい人たちがいるんですね。
 それを、あるとき〔大里の〕大城の方で綱引きの後に角力大会があって、たまたま当時、地域の横綱としてじまの方に大男がおったらしいんです。大マギーといって。マギーというのは大きいという意味ですが、有名な人がおったらしいんですね。その人はその頃、ちょっと年齢もいっていたみたいですね。
 で、向こう〔大城〕で、うちの親父が角力を見物していたところを、みんなに勧められて、この人とシージマ、最後の角力をとったみたいなんですよ。そしたら、うちの親父が勝ったもんだから。

――ええー。

湧上さん その翌日、この大マギーの母親がわざわざうちに来てですね、うちの父の格好を見て、「こんなほっそりした子どもに負けた」と言って、ショックを受けて帰られたと。〔...〕そういうのを、うちの祖母が話していました(笑)。

 湧上さんの父、湧上かますけさんが沖縄県師範学校に通っていたのは、一九二七年四月から一九三二年三月のことだ。師範学校時代、蒲助さんは各種の運動競技で活躍し、最上級生の頃には柔道部の主将を務めていたという(1)。湧上さん曰く、沖縄角力は技をかけて相手の背中を地面につけることで勝負が決まるため、柔道の技に秀でた蒲助さんに勝機があったのだろう。
 無名の若者が大マギーを倒したこの勝負は地域中の評判になり、蒲助さんはその後、あちこちの角力大会で引っ張りだこになったらしい。

 おそらくその頃から、ナンミン角力といって、〔那覇の〕波上なみのうえ〔宮〕で全県の角力大会があったらしいんですね。〔父は〕ああいうところにも出されたみたいですね。〔...〕昭和六、七年くらいじゃないですかね。

 他方で、戦前のながもうと港川について湧上さんが鮮明に憶えているのは、ハーレーや角力といった年中行事ではなく、祖母に連れられて行った銭湯での一幕だ。

 あの、小さいときですからね。祖母に連れられて、女性用の風呂場に私も連れて行ったわけですよ。そしたら周囲の、中に入っている女の人たちが、「なんで男の子が」とか、どうのこうのってね。〔...〕
 そして、それに対してうちの祖母は、「なまわらびどぅやんどー」、「まだ子どもなんだよ、だからいいんじゃないの」と。それで、ようやく一緒に入った覚えが。それだけは強烈に憶えていますね(笑)。おそらく五歳か、六歳くらいじゃなかったですかね。

 湧上さんや勲さんと同年輩で、船越に生まれ育った泉スミ子さんも、冬場、銭湯に入るために長毛に連れていかれた子どもの一人だ。その道中の思い出を、スミ子さんはこんな風に生き生きと語ってくれた(2)

 冬の寒いとき、歩いて、こっち〔船越の畑地〕からね、いまの車の通る道じゃないよ。松の木も、〔風で〕びゅーんびゅーんしてね。
 おじさんたー、おばさんたー、十名ぐらい行くわけさ。うちはちっちゃいから、ついて行くわけ。ちっちゃいのに、「あんたは〔家に〕いてるけー」〔と訊かれても〕、「ううん」〔と言って〕、どんなとこだかね、見たいわけさ。で、行くわけ。それで、はっさ、おうち〔帰って〕来るまで〔体が〕冷たくならんかね。どんなに遠いか。〔...〕
 昔はすぐユーレイも出る、お墓も古墓がある、あれだったはずよ、大変な。めーがーびらも打って上がりして〔土手になっていて〕、歩きにくかったさ。石段ぐゎーして登って、雨降りなんか滑って転んで、はっさ。

 そんな風に苦労して銭湯に通ったスミ子さんだったが、それだけではなく、彼女は子どもの頃、長毛の写真店で写真を撮られたこともあった。

スミ子さん 〔長毛には〕やーどぅぐゎー〔宿〕、旅館もあったし、風呂も、断髪屋も、写真屋も。うちなんかあっちに歩いて行って、写真を写しよったよ。小さいとき、戦前よ。もう七、八歳の頃、あっちに歩いて行きよった。

――それはお正月とか、何か特別なときに?

スミ子さん 正月じゃない、どなたか旅に出るとか、そういうときに。移民していくとか、戦争に行くとか、とにかく旅にでるときに、写真ぐゎー持たせて行かすりち、写しよったわけよ。〔...〕
 写真屋さんは、長毛寄りにあったわけさ。〔...〕怖かったよ、写真はもう、こんなして撮るでしょ。あっちから何するかわからねーりーち、怖いわけさ、わったーちっちゃいから。従弟はうぇーんして泣いて、私はそのまま写って。

 当時の写真店での撮影といえば、大きなカメラを黒い布ですっぽり覆って、大掛かりな装置でフラッシュを焚いて......というものだったろうから、確かに小さな子どもには恐怖だったかもしれない。
 興味深いのは、当時、このあたりの人びとがわざわざ写真店に出向いて写真を撮ってもらうのは、遠い土地に旅立つ人に家族の写真を持たせ、あるいはその移住先に送るためだったということだ。

勲さん 昔は、写真はとっても盛んでしたよ、戦前は。わざわざ写真撮りに那覇まで、そんなして写真を撮りに行っていた。〔...〕昔はみんな、ブラジルとか遠い外国に、儲けに行ったりする。しょっちゅう写真を送るんですよ。ハワイとかね、移民に、名古屋でも大阪でもいい、出稼ぎに行ってる人に。

――なるほど、家族が移民して行ってるから。

勲さん そうそう、〔写真は〕自分の家で使うもんじゃないんですよ。戦前、ハワイに送ってる写真もあるし、ブラジル、アルゼンチン、ペルーあたりにも。前川はたくさんの人が外国に行ってるから(3)

 海を越えて本土へ、ハワイへ、南米へ。港川と長毛は、仕事や商いのために島のあちこちからやってくる人びとの交流の拠点だったけれど、それだけではなく、島や国の境界さえも越えていく、さらに大きな人の移動の中にあったのだ。
 勲さんの家族もまた、農村に基盤をもちながら、一箇所に留まることのない越境的な労働のあり方を体現する人たちだった。

 うちも、(イシ)(アナー)といってね、穴場といって、向こう〔港川〕の石採るところには、うちの親父も〔行っていた〕。ここにある粟石はぜんぶ、〔親父が〕自分で採ってきたもんだよ、この屋敷内にあるのは。
 ......で、戦争が来る前は、おうち作ると言って、もう毎日、うちは弁当持って行きよったんですよ、石切場に。昭和十九年頃。だけど戦争が来て、もうお金もぜんぶ、どこに行ったか、焼け野原で。
 うちのおじい〔祖父〕はアルゼンチンに行って、当時、四千円も現金持っていたみたい。もうこれだけあれば立派な家ができるということで、〔親父は〕粟石切って、この門とかやろうとして。戦争が来たもんだから、これ、パーになってしまった。

 海の道と陸路の両方に開かれ、活気あふれる港町だった長毛と港川。
 だが、勲さんの父が石切場で働いていたという一九四四年頃から、太平洋に面したこの地域は沖縄本島南部の軍事的要衝として、しだいにその姿を変えていった。そして、一九四五年の三月下旬、港川の沖合は米軍の艦艇で埋め尽くされることになる。




(1)湧上蒲助さんについては船越誌編集委員会(二〇〇二:三五四−三五五)、なんじょうデジタルアーカイブ(二〇二四)参照。
(2)本章で引用した泉スミ子さんの語りは、二〇二五年十月二十一日、南城市玉城船越にて湧上洋さんと堀川輝之さんとともに行った聞き取りに基づいている。
(3)前川と船越からの海外移民については、玉城村前川誌編集委員会(一九八六:三六二−三六六)、船越誌編集委員会(二〇〇二:六二−六九)参照。このうち後者には、船越出身の海外移民への旅券交付年月と各人の渡航先が記載されている。それによると、最初の旅券交付は一九〇六(明治三十九)年九月、大城林三氏ほか六名に対するものであり、彼らの渡航先はハワイだった。戦前の移民先はハワイとブラジルが最も多く、一九二五(大正十四)年以降にペルー、フィリピン、アルゼンチン、サイパンが散見されるようになる。戦前の沖縄県民の海外移住については、沖縄県立図書館・独立行政法人 国際協力機構沖縄センター(二〇二〇)、森(二〇二四)参照。

参照文献
 沖縄県立図書館・独立行政法人 国際協力機構沖縄センター(JICA沖縄) 二〇二〇「「世界のウチナーンチュの日」関連企画展示 ボリビアに生きる 日系社会の中のウチナーンチュ」(二〇二五年十一月四日閲覧)。
 玉城村前川誌編集委員会 一九八六『玉城村 前川誌』玉城村前川誌編集委員会。
 なんじょうデジタルアーカイブ 二〇二四「湧上洋さんのオーラルヒストリー(12)「師範学校生の友情」」南城市教育委員会文化課(二〇二五年十一月四日閲覧)。
 船越誌編集委員会 二〇〇二『玉城村 船越誌』玉城村船越公民館。
 森亜紀子 二〇二四「〈南洋群島〉という植民地空間における沖縄女性の生を辿る――「実践としての写真論」を手がかりに」風間計博・丹羽典生編『記憶と歴史の人類学――東南アジア・オセアニア島嶼部における戦争・移住・他者接触の経験』風響社、一五九−一八三頁。

石井美保

石井美保
(いしい・みほ)

京都大学人文科学研究所教授。文化人類学者。これまでタンザニア、ガーナ、インドで精霊祭祀や環境運動についての調査を行ってきた。2020年の夏、アジア・太平洋戦争で戦死した大叔父の遺した手紙を手にしたことから、戦争と家族史について調べ始める。主な著書に『裏庭のまぼろし──家族と戦争をめぐる旅』『環世界の人類学』『めぐりながれるものの人類学』『たまふりの人類学』『遠い声をさがして』など。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台Vol.5「宗教×政治」号』にエッセイ「花をたむける」を寄稿。

石井美保研究室

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