感じる坊さん。感じる坊さん。

第11回

逡巡する〈とまどい〉の仏教

2018.10.13更新

Don't worry.Be happy.

 もう、数年前のことであるけれど高野山にのぼるケーブルカーに乗っていると、ある白人のおばさん(50歳〜60歳ぐらいだろうか)が、気づくと僕の顔をじっと見つめていて、

 「Don't worry.Be happy.」(「クヨクヨせずに楽しくやろうぜ」)と突然、言葉を発したことを時々思い出す。「あれは、もしかして妖精だったんじゃ・・・」とまでは、思わないけれど、不思議と言えばかなり不思議な話だ。

 でも、もしかしたら、その人は界隈では有名な「Don't worry.Be happy.おばさん」で、日本のあらゆる場所に出没し、冴えない表情をした日本人(時々坊さん)を「Don't worry.Be happy.」と励まし続けているのかもしれない。そうだとしたら、なかなかご苦労というか有り難い話である。

 この話を、年上のお坊さん(前職が板前さん)に話したら、「俺も、いつも密成さんに思っているよ、"Don't worry.Be happy."って」とのことだった。意外と世界は妖精に満ちているのかもしれない。

お経に笑いが止まらない

 僕は、不勉強で落語というカルチャーに、あまり触れたことはないのだけど、(釈徹宗さんの『落語に花咲く仏教』が、〈いつか読みたい本棚〉で待機中なので、読もう)「坊さん生活」を現実に送っていると、(あくまで僕のイメージの中の)落語のようなことが時々ある。

 縁があって時々、仏壇を拝みに行く老夫婦の奥さんは、僕がお経を唱えていると、笑いが止まらなくなる。最初、故人のことを思い浮かべて、思わず嗚咽が漏れていると思っていたのだけど(そういうことは、わりにあることである)、しばらくすると、そのおばあさんが「涙が出るほど笑いをこらえていて、思わずその声が漏れ出ている」ことに気づいた。

 これは、その時だけでなく、そのおばあさんは、僕がお経を唱え始めると、いつも涙を流しながら、笑っている。そして、大笑いしないように渾身の力で、その笑い声を押し殺しているけれど、すごく、その声が漏れている。これは僕の法衣が常に破れていて、お尻が露出しているとか、人並み外れてお経の調子が外れているとか、様々な仮説が検証可能だとは思うけど、謎を残したまま、そのお婆さんは亡くなられた。

納骨の忘れ物

 つい先日は、法事を終えて納骨に墓を訪れたら、家族の人たちがトウバや、線香、ロウソクやら石屋など、納骨に必要な物は、すべて揃っているのに納骨する「お骨(こつ)」だけ、家に忘れてきていることに気づいた。

 「"納骨に骨を忘れる"という格言が生まれそうですね」とボソッと僕が言うと、ここでも家族の皆さんは、顔を見合わせながら大笑いされていた(故人が大往生であったこともあると思う)。

 これは同じことが仮にあったとしたら、大喧嘩を始める家族もあると思うけれど、法事とか葬式というのは、その一族のカラーや雰囲気が、如実にあらわれる。なんにせよ怒るよりは、笑っていられることは、なんというか好ましい。

80歳の僕

 坊さんである僕は大きな声では言えないけれど、子供の頃から人並み外れて「怖がり」で、学生時代、暗くなってから寺に帰るのが恐かった。そしてよく憶えているのが、部屋で眠ることが、ちょっと恐かったこと。寺だから恐いのではなくて、暗い部屋でひとりで眠るのが単純に恐かったのである。

 高野山で、ひとりで生活を始めた頃は、少し照明をつけたり、テレビをつけたままで眠ることもあった。これは、「いつか大人になれば、なくなる気持ちなのだろうなぁ」と思い続けてきたけれど、年齢が20代になっても、30代になっても、眠る時が「少し恐い」気持ちは、残り香のようにわずかではあるけれど、持ち続けていた。

 結婚して、奥さんと3歳、6歳の娘達と一緒に眠っていると、そんな残り香のような恐怖を感じることもなくなった。でも、ある日ふと例えば僕がおじいさんになった時、縁が巡って、ひとりでまた暮らし始めたとしたら、その僅かな恐怖をまた感じるのかな、としばらく想像した。それは僕にはわからない。嫌な気持ちでもうれしい気持ちでもなく、ただ好奇心に似た気持ちで、僕は80歳の僕を想像する。

 そんなことを考えていると、80歳の僕が、例えば病床のベットで天井を見つめながら、「1日だけ戻りたい日」を思い浮かべるとしたら、今日のような何もない、ただ「子供の小さい頃」をリクエストするかもしれないと、また思い浮かべる。

 一緒に風呂に入り、歯を磨きたくないと泣き叫び、仲直りして絵本を読み、僕にしがみついて眠る。そんな日に1日だけ戻ってみたいと想像する、80歳の僕を想像してみる。もちろん子供との生活は、僕にとっても、うまくいかないことばかりで、悪戦苦闘の毎日でもあるけれど。

面白い慈悲

 日々の中で、「慈悲の瞑想」というのをすることがある。例えば、自分自身が苦しみから解放されて、幸せになるように、と瞑想するだけでなく、知らない人や、嫌いな人、命あるものを想像して、幸せ、苦しみから解放されることを祈る。

 あるお坊さんに教わったやり方で僕は、やる時はやっているのだけれど、チベット仏教関係の著作などでも、似たような祈りが紹介されていることがあるので、大乗仏教の中でも、特異な瞑想ではないと思う。しばらくしていなかった、その「慈悲の瞑想」をある日、ふとやってみて、「慈悲というのは、〈人に優しくあろう〉というような道徳や倫理的な話ばかりではなく、仏教の模索しているものを感じるための、〈テコ〉のようなしかけなのかな」と感じた。

 僕たちは、生物として利己的な側面を持つ。もちろん僕にも利己的な性格が多分にある(「生物として共生的な側面」も持っていると思う)。しかし、僕の受けた教えは、「何か」に触れるために、その「自分の利己的な側面」を解除しようと試みる。それは、1個の生命としての、ファンクション(機能)を解除させることで、見えてくる世界があるからだと、僕は想像している。

 もちろん、すぐにすべてが解除されて、「私には利己的な側面は一切ありません」なんてことには、ならないのだけど、利己的ではない時間を少しでも、積み重ねようとする試みは、僕の受けた教えのあらゆる思想や実践にみえている。

 そんなことを、考えながら「慈悲の瞑想」に触れていると、「慈悲は面白いな」と感じる。僕は決して「慈悲に溢れた人間」では、ないけれど(まったくない)、もしみなさんが興味があれば、「慈悲の正しさ」ばかりでなく、「慈悲の面白さ」に着眼して、瞑想したり人生を生きてみるのも、楽しいかもしれない。

 しかし今日もこの文章を書きながら、些細なことで怒ってしまった。慈悲は僕にとって「面白い」ばかりでなく「難しい」。

 このような「慈悲の瞑想」を「わざとらしい」と感じる方も多いけれど、個人的には僕は、色々な技法といういうものは、「わざとらしさ」と「自然な振る舞い」を〈行ったり来たり〉するものではないかと思う。

 例えば姿勢が悪い人が、姿勢を正すためには、まずは「わざと」姿勢を正すしかない。しかしその先に、「自然に正しい姿勢をキープする」ことを目指す。この中の「わざと」が結構大事なんじゃないかと愚考しています。

逡巡する仏教

 僕は日本人なので、「日本の仏教って、どんなものなのだろう」と考えることがある。特に、歴史的な日本仏教よりも、問題意識として「コンテンポラリー(同時代の)な、今、この時代の中にある仏教やお坊さんや、お寺ってどんなものだろう」と感じることが多い。

 様々なとらえ方ができると思うけれど、僕は、あるひとつの側面として「逡巡する仏教」でもあるな、と思った。逡巡する。――ためらう、ということ。その中ではやはり〈行ったり来たり〉する。これは「日本の仏教」ではなく「僕にとっての仏教」なのかもしれない。

 「世界はこのようにある。正しさは、ここにある」と語るだけでなく、「世界は〈このようにも〉、みることができる。正しさは、このようにも〈あるかもしれない〉」と複数の眼を持ち、とまどいながら生きるための教え。そこにはいつも、逡巡がつきまとう。そんな「ためらいの仏教」のことを僕は、個人的にとても好きだと思った。

 僕は、そんな中で僕達が「触れようとしているもの」を「あらゆる生命が共通して持っているもの」だと感じることがある。今日もお寺に子供達が、神社で神様を勧請して頂いた御神輿をかついでやって来たけれど、こういった「お祭り」や「巡礼」、「祈ること」も〈僕達が共に持っている存在〉を感じるための智慧だと思う。それが、見えにくくなっていることも、現代特有の「苦」なのかもしれない。

白川 密成

白川 密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『空海さんに聞いてみよう。』(徳間書店)、『坊さん、父になる。』がある。

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