感じる坊さん。感じる坊さん。

第16回

中国・西安の青龍寺と大興禅寺へ

2019.03.08更新

常楽会が近づいている

 春にやってくる栄福寺の七年に一度(今回は十年に一度)の行事、常楽会が近づいてきている。記念の事業である本堂の「耐震工事」も、僕の同級生の大工さんの手によって既に工事が完成した。

 寄進をしてくださった檀家さんや信者さんの記念品には、工事でも用いることの多かった「ヒノキ」の数珠を用意している。そして、その人たちとお寺との強い繋がりを表すために、数珠を結ぶ紐を赤色に特注したりして、気持ちはあせるけれど、楽しい気持ちも大事にして当日を迎えたい。

中国の弘法大師ゆかりの寺へ

 そのような日々の中で、地元の若いお坊さんたち15名ほどで、中国の西安を訪れた。かつての長安である。弘法大師が師である中国(当時の唐)の僧、恵果和尚(けいかかしょう)から密教を授かった青龍寺や、恵果の師である不空(ふくう。南天竺国の人と記されている資料もあるが、現在では父親がインド人であり、母親がソグド人である西域の人と考える説もある)ゆかりの大興禅寺を訪れ、現地の御住職やお弟子さん臨席のもと儀式をさせていただいた。現在の御住職は、日本の高野山で密教修行をされた中国人僧侶でもある。

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 青龍寺や大興禅寺のことは、弘法大師も、

「ここに於て城中を歴(へ)て名得を訪ふに、偶然として青龍寺東塔院の和尚、法の諱(いみな)は恵果阿闍梨に遇ひ奉る。その大徳はすなわち大興禅寺の大広智三蔵の付法の弟子なり」(弘法大師 空海『請来目録』)

【現代語訳 ここをもとにして長安城中の高徳名僧をたずね歴訪していくうち、たまたま青龍寺の東塔院の和尚、法の諱(いみな)恵果阿闍梨にお会いし、尊顔を拝することができました。この大徳こそ大興禅寺の大広智不空三蔵の付法の弟子、その人であります】

と自ら書き記している。

 この訪問と儀式は、縁あって密教を受けた僕たちにとって、宗教的な意味で意義の深い時間になったことはもちろんだけど、密教がインドで生まれ、中国に渡り、日本にもたらされた時間、国を超えてゆく感覚を肌身で少しでも感じることができたことが、大きなことだったように思う。

 いつも「今日からスタートだ!」と自分を奮い立たせるたびに、ずっこけたり、その場で立ちつくすことの多かった僕だけど、やはりこの密教の聖地でも、「またスタートだ・・・。がんばらないと」と心に刻まずにはいられなかった。

 そして帰国当日、栄福寺歴代住職の墓が並ぶ場所で手を合わせ拝んだ。今までお世話になった師や恩人の顔を何人か思い浮かべる。既に高齢の方もおられるので、「なんとか、もっと一生懸命がんばっている姿をこの数年でみせたいな」という思いが胸に浮かぶ。もちろん同世代の友達のような恩人にも。

中国人に学びたい「心の中間地点」

 人にもよるのだろうけれど、街で出会う中国の生活者の人たちが、「怒りと平時」の間ぐらいにある感情をうまく使っているように僕には感じられた。なんというか笑いながら、「おいおいそれはないよ! どうなってんだ〜」と相手につめよって、つめよられた人も同じような心の位置で、大きく手を広げて「おまえこそー、いい加減にしろよ〜」と応える。なんだか僕のような空気を読んでしまう日本人的にみると、その絶妙な塩梅が少し快感で、シンプルな「中間地点」のようなものは自分も学びたいと思う。長く住んだりしていると、それが「しんどい」ことも多いのかもしれないけれど。

 また僕は、とにかく中華料理が肌に合うようで、特に八角などの香辛料を使ったスパイシーな現地料理が、毎日続くたびに美味しく頂戴した。松山空港から上海は二時間かからないので、また行ってみたい国だ。

「問う」ことで生まれる勇気

 先ほど僕は「がんばりたい」と書いたけれど、「がんばる」ためにも、最近心に思い描くことの多い事柄をいくつか書いてみたい。

 まずは子育てのことで、相談する機会のあった人が話していたことだ。

「まずは子どもに対して〝これをやれ〟という命令を減らしてみたらどうですか?」

 そういう話をされていた。子どもと一緒に生活をしていると、「早くお風呂に入りなさい」「遊ぶのを止めなさい」「起きなさい」と、どうしても命令形が多くなる。

「うーーん。では、どんな言葉をかければいいか困ってしまいますね」

「質問と提案することは増やせませんか? 〝今、何する時だっけ?〟とか〝こんなふうにやってみる?〟って」

 この話を聞いて、すぐにうまくはできないけれど、確かに自分が子どもだったり、生徒の時に、命令されたり、怒られる代わりに「それってどうする?」と質問したり、「こっちでやってみる?」と提案してくれると心理的にはかなりうれしかったと思う。

 そしてふと考えると、僕は自分自身に対しても命令形で声をかけることが多かったのだ。「これをやれ、自分」とかなり横柄だったと思う。だから自分に対しても少し丁寧に、「どうする?」「こっちかな。どう思う?」と自由な心に主導権をやわらかく渡してみたい。これは「決めること」の力なのかもしれない。問われて「決める」時、人の心には勇気が生まれる。「決断」をする機会を増やしてみたい。

この1日、なにも起こらなくても、ここで待つ

 次に感じたことは、今までお寺での仕事や仏教の勉強、修行をする時に、なにかを「する」という意識がかなり先行していたなと思うのだ。「あれもしなきゃ、これもしよう」といつも気持ちばかり忙しい。しかし、本当に今大切な心の態度は、むしろ【なにもせずに1日を過ごす準備】なのではないかと思うのだ。これは短く言うと「待つ」という態度だ。結果的には1日の中で、「なにかをする」ことが多いのだけど、「なにも起こらなくても、ここで待つんだ」という一種の能天気さと落ち着いた蛮勇が同居した「待つ」という姿勢。

 1日待てれば、1年待てる。そのために1分、1秒を待てるようになること。

自分というフィルターに驚きすぎない

 また「<自分>に関連した怒りと欲望に、〝驚きすぎない〟」ということを大切にしたい。これは経験的に最近特に感じることで、多くの人にとって<自分>と<他者>に対して起こる出来事は、大きく感覚が違う。

 その中でも特に、この「怒り」と「欲望」に関することは、その差が著しいと感じるのだ。例えば、<自分>の恋人が浮気をしているかもしれないことを、死にそうな形相で話している人が、<誰か>が浮気しているんだって、と噂話を耳にすると、ニコニコと笑いながら「あの人も元気やなぁ」と上機嫌になったりする光景は多くの人が、目にすることがあるだろう。

 つまり<自分>というフィルターを通して、経験すると「怒り」や「欲望」は何倍にも増幅する。それを排除することは、すぐにはなかなか難しいので、せめて〝自らに向けられた〟あるいは〝自らが持つことになった〟「怒り」「欲望」に対して、「驚きすぎないようにする」準備は、ある程度練習できることだと僕は思う。

 「あの人が<私>に怒っている!」という時の心の状態と「あの人が<誰か>に怒っている!」という心の状態を想像して比較すると、その自分の意識状態の違いに驚く(むしろ逆だったりする)。しかしそこの「自分」という興奮装置を「ある程度」カッコにいれることは準備をすれば、ある程度可能だし、練習もできることだと僕は思っている。

 「しかし、〝これは本当に悪いものだ〟と思い、怒りが生じる場面に至ったとき、これは二番目の段階に入っています。そして対象があなた自身にへ関わってくると、怒りはより強くなります。それがあなた自身に害をもたらす可能性があるように思われたとき、それはさらにより強い怒りへと展開していくのです」『ダライラ・ラマ仏教入門』(ダライ・ラマ14世)

「正直さ」アゲイン

 そしてそのうえで、もう一度自分自身の「正直さ」のようなものに、向き合うこと。年齢を重ねることで、ある部分ではその「正直さ」に鈍感になってきている気がする。

「他者への正直さは、自らへの正直さに似ている」

 出会う人への「正直さ」を損なうことで、自心(自分の心)の正直さが見えにくくなることを、少し感じ始めていた。「如実知自心」(にょじつちじしん、如実に自心を知る)。僕が学んだ仏の教えの中心にあるようなこの教えは、小さな生活の中にも「修行」のステージがあると思う。このことは例えば、「他者に対するやさしさは、自分へのやさしさに似ている」などとも展開できる。

機と時をつかむために

「大日如来、普遍常恒にかくの如くの唯一の金剛秘密最上仏乗曼荼羅法教を演説したまふといへども、しかも機にあらず、時にあらざれば、聴聞、信受、修行、流伝することを得ず」(弘法大師 空海『秘密曼荼羅付法伝』)

【現代語訳 大日如来は真理の世界にあまねく、かつ昼夜をわかたず常にこのような唯一の金剛不壊にして秘密で最上の仏の教えである大なる曼荼羅の教えを説法しておられるのである。しかし、われわれの宗教的資質が劣っていたり、修行の機縁が熟していないときは、大日如来の説法を聴くことも、信じることも、三密の妙行を修することもできない】

 密教の教えでは、気づかないだけで、常に大日如来は、この場におられる。しかし、「機にあらず、時にあらざれば」そのことに僕たちは気づくことができない。しかし、その「機」や「時」は、自らつかみ取るものでもある。

 そのためにも、僕は今、先ほどあげたような①中間地点にある感情をうまく使う。②「質問」と「提案」で話しかけ「決断」を増やす。③なにもせずに1日を過ごす準備をする。④自心にまつわる怒りと欲望に驚きすぎない。⑤もう一度「正直さ」に向き合う。 を心がけたいと思っている。

 なにもせずに「待ちながら」、「何かをする」ということが、素敵な仏教的矛盾だと信じて。

 これは「僕の話」であるわけですが、なにかひとつだけでも、皆さんの生活のヒントになることがあれば、うれしい。

白川 密成

白川 密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『空海さんに聞いてみよう。』(徳間書店)、『坊さん、父になる。』がある。

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