鬼気迫るど忘れ書道

第17回

新幹線のぞみ~「おまえを悪魔にしてやろうか」

2022.06.10更新

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 記憶が日に日に薄れていく様子は、最初は怖かったが、もはやどうにでもなれと一度思ってしまえば少し気楽になる。がしかし、だからといってストレスフリーになって記憶が戻るなどという都合のいい奇跡はない。
 そして、例えば「新幹線のぞみ」(※1)が出てこない一時間ほどはやはり自分ながら恐ろしかった。昔で言う「ガマの油」(※2)的に脂汗のようなものが額にじわじわにじんだ。しかし、いくらにじませたところで「のぞみ」は思い出せないのだから脂の損である。そんなことはわかっていてじわじわ来る。記憶は来ない。
 いや「こだま」(※3)は出てくるのである。「ひかり」(※4)もすぐにあとを追う。いまや東京駅であまり出会うことのない新幹線の名前である。それだけは出るというのはやはり古い記憶は消えないわけだ。
 考えれば「こだま」はこだまのように速いのであり、音速のイメージである。そして「ひかり」は光速だ。大きく出るにもほどがあるが、それだけの高速を出せる列車が世界になかった時代の自負みたいなものである。
 当然俺としては、そこから類推して新しい新幹線の名前を記憶の深い霧の中から呼び出そうとするわけだが、音速、光速と来たらもはや宇宙物理上それより速いものはないのである。だったら「新幹線アインシュタイン」とか、ちょっと横に飛んだ命名くらいしかなくなる。そしてもしもそんな名前の列車があるのなら、先頭部分に白いヒゲでも生やしていないと格好がつかないし、なんなら舌をベロリと出していてもいい(※5)。
 ただ、撮り鉄とかいう諸君はそういうのを喜ぶだろうか。むしろ鉄道側はひたすらきまじめであった方がよいのかもしれず、「新幹線アインシュタイン」とか「新幹線E=mc2」(※6)などの命名は、この数年流行してすでに下火になっていると聞く「珍名パン屋」(※7)みたいな余計なふざけのいやらしさをまとってはいないか。
 というような妄想めいたことは、つまり俺が正式な名前を思い出せないがゆえのごまかしなのであり、自分でよくわかっているがこうした脱線の調子がいい時ほど正解は絶対出ない。
 実際その時もちっともなにも浮かばなかった。それで俺はただただ「こだま」「ひかり」、「こだま」「ひかり」と在りし日の東京駅ホームでのアナウンスのごとく反復を続け、時々は「こだま」「ひびき」を交えてみたりして自らの海馬の死滅ぶりの恐怖に耐えた。
 仕方ないので最終的にあきらめて「東京」「新幹線」で検索をし、「のぞみ」だとわかってみると涙が出そうになった。音速、光速と来て、いきなり思念とか想像の話になる。このロマン的ごまかしみたいな引っかけ問題には悔しさというか、ともかく何かしらのズルさを感じざるを得ないし、思念は思念でもそこで一歩引いて「のぞみ」などと謙遜してみせるあたりにも、なんだかだまされた感じが強い。広告代理店の性格が「こだま」時代の素朴さを失っている。とはいえ現在のあまりのあけすけさはないセンスなのだけれど。
 「ワンオペ」(※8)と言いたいのにそれが出ないことも数回あった。どうしても「ソロ」とか「シングル」という言葉が出てきてしまう。「ソロワーク」とか「シングルプロジェクト」とか、なんかおおげさなやつ。ともかく、まさかワンという数だとは思えないのである。なぜならワンがあるならツーがあり、そこまでは正しいが数字である以上はスリーもフォーも出てくるからだ。どうしたって俺の家には子供の他に二人しかいない。
 また、「ももクロ」(※9)には歌詞まで書いている俺なのに、彼女たちを話題にしたい時、つい出だしに「虹色」と言ってしまった。なぜだろうか。自分でも不審な感覚はあった。が、あとに引けない感じになり、「クローバー」でつないだのはいいがあとのアルファベットがどうしても「Z」に思えないという現象があった。それはそうだ。本来「ももいろ」なわけだから、慣れ親しんだ語呂がだいぶ違ってしまう。
 そもそも俺の言い出した名前では略称「にじクロ」なわけで、七色にもう一色、黒が出てくるみたいな異常気象になる。しかも響きとして「ビックロ」(※10)みたいな商業施設感がただようのはなぜか。ももいろでなおかつ「Z」というロック感があるからこそ「ももクロ」のよさなのだと今ではわかる。
 同じようにアルファベットが出てこなくなったのは「藤子不二雄」先生から、「A」が見失われた時であった。もちろんA先生が亡くなった際のことだ。藤子不二雄A先生(本来は○囲み)(※11)は天才ユニットのいわば暗黒面を担当されてきたから、ふとど忘れしてみるとそれこそ「Z」がふさわしいように確信し、俺は「藤子不二雄Z」と幾度か口ずさんでみたのだった。するとなにかしら強壮剤めくのを避けられないのである。ラベルは赤い。赤に黒で「Z」だ。そのアルファベットの隙間から太い指が飛び出てこちらを指している。「Z」なのに「ドーン!」と読むのかもしれない。
 ともかくいったんど忘れすると、まさかど頭の「A」だとは思えないのだった。そこはつい飛ばしてしまい、いやそれどころか「B」「C」あたりの出番の早いところにも思えず、ついついよせばいいのに「F」あたりから真剣な捜索を始めてしまう。しかし、これはもう一人の先生の名前だ。そういうようなわけで、正解を思い出すのに数日かかった。思い出せた時も「ドーン」という音がした気がする。
 さて、デーモン閣下(※12)の名ゼリフを決めて周囲を笑わそうとした時、よりによって「おまえを悪魔にしてやろうか」と言ってしまったのも、ど忘れの領域がなせる恥ずかしいわざである。
 「いやいやいや」と周囲はにやけた顔で言う。ウケていないわけではなさそうだが、爆笑でもない。おかしな感じだ。
 それでもう一度枯れた感じの声で「おまえを悪魔にしてやろうか」と重ねたのだが、さすがに「そこ、蝋人形でしょう」とツッコまれ、ボケとしての笑いが生じてしまった。これはかつて「関東一のツッコミ」を自称していた俺の、明らかな転落の瞬間であった。
 悪魔は自分なのだから、おまえも悪魔にするなら同等、もしくは昇進である。 


※1新幹線のぞみ:1992年3月14日に運行開始した、東海道・山陽新幹線の東京駅-新大阪駅・博多駅間で運行している特別急行列車の愛称。
※2ガマの油:江戸時代にガマの油を薬として露天販売していた香具師が、客寄せのために大道芸を披露していた口上のなかで、ガマガエルが流した脂汗を煮詰めて油をとる方法を語っていた。
※3こだま:1964年10月1日に運行開始した、東海道・山陽新幹線の東京駅-新大阪駅・博多駅間で運行している特別急行列車の愛称。
※4ひかり:こだまと同じく1964年10月1日に運行開始した、東海道・山陽新幹線の東京駅-新大阪駅・博多駅間で運行している特別急行列車の愛称。
※5アインシュタイン:1879年生まれ、1955年没。ドイツ生まれの理論物理学者で特殊相対性理論および一般相対性理論など多くの理論を提唱、ノーベル物理学賞も受賞。白いひげをはやし舌を出した写真が有名。
※6 E=mc2:「エネルギー E = 質量 m × 光速度 c の2乗」という、質量とエネルギーの関係を示す等式で、1907年にアインシュタインによって発表された。
※7「珍名パン屋」:「くちどけの朝じゃなきゃ!!」など変わった名前のパン屋が次々に開店し話題となった。
※8「ワンオペ」:ワンオペレーションの略。職場や家庭において、すべての仕事を一人で行なうことをさす。
※9「ももクロ」:ももいろクローバーZの略称。百田夏菜子・玉井詩織・佐々木彩夏・高城れにからなる4人組ガールズユニット。
※10「ビックロ」:新宿にある、ビックカメラとユニクロとの共同出店による商業施設の名称。
※11藤子不二雄A:本名は安孫子素雄。藤本弘(藤子・F・不二雄)とともに藤子不二雄として活動、『オバケのQ太郎』など人気作品を数多く残した。
※12デーモン閣下:ミュージシャン、タレント。人間の体を借りた悪魔と自称しており、「お前も蝋人形にしてやろうか」は、ヘビーメタルバンド聖飢魔IIとして活動した際の曲「蝋人形の館」の歌いだしのフレーズ。 

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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