鬼気迫るど忘れ書道

第14回

仲間由紀恵~平沢進

2022.02.10更新

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 仲間由紀恵さん(※1)の名前もよく忘れる。
 出演作などわりと見ているのに、だ。
 ゆえにあのロングヘアとかクリクリの目とかも頭に浮かぶのである。だが名が出ない。これは苦しいことだ。
 自分でもうすうす原因がわかっていて、仲間という沖縄でよくある苗字が、関東圏の俺には一般名詞だからなのである。
 俺にとって「仲間」は友人とか賛同者をあらわす単語で、まさか名前になるとは脳の方も予期していない。もっとくわしく言えば、脳の中で記憶の引き出しの開け閉めを担当している妖精みたいなやつのところに、「あのロングヘアとかクリクリの目」の画像が提出されると、妖精はまず「あのロングヘアとかクリクリの目」に関連する引き出しを開けてみるわけだ。
 栗田ひろみ(※2)とか、俺くらいの還暦過ぎになると引き出しの前の方にはそういう名前が入っている。画像もさることながら「クリクリ」という単語がそのまま「栗田」につながるのは、ほぼおやじギャグの脳構造だ。
 続いて南沙織(※3)とかも二枚目のファイルには入っているだろう。そうなるとあと一枚、妖精が安室奈美恵(※4)のファイルを出してくれさえすれば、ここで「あのロングヘアとかクリクリの目」というヒントからもうひとつ「沖縄出身」という共通項が光って見えてくるに違いなく、そこでさすがに俺も「あ、仲間由紀恵!」と早押しボタンを押すだろう。
 だが、ここでも「仲間」ブロックと呼ぶべき固定観念が邪魔をする可能性がある。「沖縄出身」にまで近づいた途端、「具志堅」とか「与那嶺」や「比嘉」が自己アピールを始め、そういったいかにも苗字らしい強烈な苗字が、俺にとって一般名詞である「仲間」をブロックしてしまうのである。そうなるともはや仲間由紀恵が出る余地がなくなる。
 ちなみに仲間由紀恵さんの名前を思い出しした瞬間、すでに十二分に脳裏に浮かんでいたと思い込んでいた「あのロングヘアとかクリクリの目」が、きちんと精度高く見えてきたのには驚いた。つまり固有名詞を思い出さないと、人は実のところぼんやりとしか対象の顔を想起出来ないのである。
 よく「顔はしっかり思い出せるのに名前が出ない」という人があるが、あれは嘘なんじゃないか。たぶんこのへんの研究はすでにあちこちにあるだろう。
 女性の名で言えば、どういうわけかローラ(※5)が長らく思い出しにくかった。考えてみればいきなりファーストネームで、思い出す手がかりがない。ローラと言えば、古い人間には偉大なる西城秀樹の『傷だらけのローラ』(※6)なのだが、さすがにそういう覚え方はしていない上、現在のローラが傷だらけだったりはしないから一度忘却すると思い出しにくい。
 がしかし、どういう風の吹き回しか、近頃ローラがすんなり出る。電車で広告など見ると、うれしさのあまりすごい早さで「ローラ」とつぶやいている俺がいる。時にはヘレン・ケラーが「......ウォーター」と言うように(※7)、感慨深く「......ロー...ラ」と言っている俺さえいるくらいだ。まるで深い思い出でもあるかのようだが、むろんなにひとつない。
 さて、俺は大好きなアボカド(※8)の名もど忘れした。家にいて、これからスーパーに行く妻に何を買い足して欲しいか申告しようとした際、その重要な四文字が失せた。あたかも世界の中でそこだけが白く抜けてしまったかのように、アボカドが出ないのである。
 かわりにすかさず「森のバターを買ってきて欲しい」と俺は言った。なんだか詩人のようであった。詩人の朗々とした作品発表のごとく、俺は「森のバターを買ってきて欲しい」と言ったのである。
 しかしそうでもしなければ、大好きなアボカドは買い足されないのであるからいたしかたない。それなしで翌朝、俺はサラダを作りたくなかったのだ。森のバターなしに、町の朝食はない。と再び詩人めかしておこう。
 スケッチブックには他にも「グッドモーニング、ミスター・ローレンス」とある。これは間違いの方を書き記したパターンだ。もちろん正解は『戦場のメリークリスマス』(※9)における「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」という名ゼリフだし、一応それを言う北野武氏のどアップも俺は思い出していたつもりである。
 にもかかわらず、そのシーンを他人に説明する際に「メリークリスマス」が出なくなった。それで思わず「グッドモーニング」で始めてしまったのである。これでは単なる毎朝の挨拶ではないか。しかし、その調子で始まれば、もう「ミスター・ローレンス」と続けざるを得ない。 
 それはさすがに変なので「いやいや」と自己否定した俺は、続けざまに「グッドモーニング、メリークリスマス」と言い直していたのだが、これはどういう時候の挨拶なのだろう。そういう朝があるとして、この単語の順番で合っているのだろうか。そもそも「ローレンスさん」はどこに行ったというのか。
 もはや俺の脳は、いやこれは毎月のことだから「もはや」でもなんでもないのだが、とんでもない状態になっている。
 それをパーフェクトにあらわす事例が、ここに書いてある「時計→飛行機」だ。
 俺は家の時計を指さして「飛行機」とつぶやいていたのである。
 なんともうど忘れとかそういうレベルではない。動揺のあまり、再現の筆ペンでの筆記もおかしなことになっている。
 一応言い訳というか、記憶裁判の弁護人のようにして発言すれば、それは最近壁に取り付けた時計で、その壁の向こうには夕焼けの中、飛行機がよく飛ぶのである。だがだからといって、ふと指さした時計をなんのストレスもなく「飛行機」と言ってしまう俺はなんなのか。
 我々の言語学の基礎を作った『一般言語学講義』のソシュール(※10)によれば、言語はすべて関係によって出来ており、いわば時計が時計でなくてはならないわけではない。そういう「名称目録観」を否定して、時計は時計でないものすべてと対比してこそたまたま時計だ、とソシュールは言ったと解釈しておく。
 日本にソシュール学を根付かせた丸山圭三郎(※11)は、箱の中の風船の画像をよく使った。幾つかの風船が押しあって箱の中は埋まっている。箱はこの場合世界である。ABCと三つの風船でも世界を埋められるし、ABCDEFGと七つでも空間はいっぱいだ。この時のAとかBとかが単語である。
 今、時計を「A」とする。そして時計でないものがBCDEFG......と無限に存在し、それぞれが相手でないものとしてある。ここで例えば「飛行機」がXであったとしよう。すでにそれは"飛行機でないものすべて"と対比され、ゆえにこそ飛行機という風船である。
 がしかし、そのXを「時計」と言い出す者がいたらどうなるか。
 ・・・えーと、小難しいごまかしはやめよう。
 俺はまず老いている。
 しかも記憶に生じる混乱の度合いが日に日に激しくなっている。
 俺にとって、たまに時計は飛行機である。
 そういう世界を俺は生きねばならない。
 他に、急に平沢進(※12)という名前を思い出したくて思い出せなくなった。
 俺は日本のテクノポップの躍進の時代、どのバンドよりもPモデルが好きだった。『美術館で会った人だろ』(※13)は今でもどうしたって名曲だ。俺の二十世紀のベスト10に、それは入っている。
 がしかし、突然忘れた。俺の脳の中で、その重要な人物の名が欠けた。
 思い出そうとしたのだが、困ったことに「絶対に『中』という字が入ってるんだが、それ以外はなんだったろうか」と思い込んでしまっており、それでは平沢進の出てくる確率はゼロであった。せめてぎりぎり「中平沢進」とか「平沢進中」とか、なんの戦国故事かというような四文字が出てくるくらいだ。
 ひょっとしたら何者かに俺の脳はハッキングされているんじゃないか。
 ふとそう思い始めた俺は、のんきな老いから「妄想」に近づき出した。
 これは危険だ。


※1 仲間由紀恵:沖縄出身の女優。ドラマ『TRICK』『ごくせん』など多くの作品に出演。過去に四度、紅白歌合戦の司会を務めている。
※2 栗田ひろみ:女優。1970年代に、映画『放課後』『ときめき』、テレビドラマ『伊豆の踊り子』などに出演。
※3 南沙織:沖縄出身の歌手。1971年のデビュー曲「17才」が大ヒットし、その後も「人恋しくて」など多くのヒット曲がある。
※4 安室奈美恵:沖縄出身の歌手。1990年代後半から「Don't wanna cry」や「CAN YOU CELEBRATE?」など数多くのヒット曲を発表し、2018年に引退。
※5 ローラ:現在アメリカを拠点に活躍する、モデル・タレント。独特な言葉回しなどが人気でテレビ出演も多い。
※6 西城秀樹の『傷だらけのローラ』:1974年にリリースされた10枚目のシングルCD。日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。
※7 ヘレン・ケラーが「......ウォーター」と言うように:小さなころに光と音を失ったヘレン・ケラーが、家庭教師サリヴァンに導かれ、「水」という言語と対象の紐づきを初めて理解したとされる有名なエピソードを指す。
※8 アボカド:中央アメリカが原産の、クスノキ科の木およびその果実。和名はワニナシ。脂肪分が多くバターの代わりにトーストに塗ったりもすることから、「森のバター」と呼ばれることもある。
※9 『戦場のメリークリスマス』:大島渚が監督した、日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作映画で、1983年に日本で公開。「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」は、ハラ・ゲンゴ軍曹を演じるビートたけしが劇中で語る名セリフ。
※10 『一般言語学講義』のソシュール: 19世紀~20世紀初めに活躍した、スイスの言語学者。シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用い、難解な思想家として知られる。
※11 丸山圭三郎:フランス語学者、哲学者。日本におけるソシュール言語学研究の第一人者。
※12 平沢進:ミュージシャン。1979年にP-MODEL結成してデビューし、テクノ・ポップ/ニュー・ウェイヴの中心的な存在となる。
※13『美術館で会った人だろ』:P-MODELの1stシングル。平沢進の作詞・作曲。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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