鬼気迫るど忘れ書道

第7回

あの人~ジョニージョニー

2021.07.05更新

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 もしも今、俺が読者諸氏のうちのどなたかと一対一で話したとして、その会話に出てくる固有名詞の八割をど忘れする自信がある。朝は六割五分くらいであったが、現在夕飯をすませて「万全のど忘れ態勢」に入っている。
 むろんこの場合、"ど忘れする自信"というのは確率的にそうであろうことへの予測の安定性から来る気分であって、その奥に深く険しく暗く冷たい絶望の峰のごときものがそびえているのは当然である。
 諸君、固有名詞の八割が出てこない会話とは一体会話と言えるだろうか。正直、話はなんとかうまくごまかして続けられる。現にこの原稿だってわりあいスラスラ書いているのである。だがしかし、そこには抽象的な単語ばかりが連ねられている。
 例えば、冒頭の「読者諸氏のうちのどなたか」を、誰か実在する人物に置き換えてみるといい。えーと、そう、あの、あれ、あれを吹く、そう雅楽(※1)、雅楽のあれを吹く代々のあの、背の高いあの人物(※2)と俺が会話を交わすとして、さてそのあの人が誰かは脇で会話を聞いている人によって名指されるであろう。俺から正解を言う必要もあるまい。
 今回「あの人」と抽象的な単語が大書してあるのは、まさにこういうことの実例で、ただしそれは明け方で俺は半分夢を見ていた。そして夢の中で昔からよく知っている芸人と共に共通の仕事仲間であるテレビマン数人について、丁々発止の会話を楽しんでいるのである。いや正確に言えば、これから明らかに楽しむ予定で我々は対面していたのだった。
 だが、そのテレビマン数人のまず最年少のディレクターの名が出ない。打合せだ本番だと最も長い時間を過ごし、なおかつプライベートでの遊びなどにも出かけている相手である。顔はくっきりと見えている。だがそれがどういう名前で呼ばれるかわからない。
 夢の中で俺はヒヤリとした。名前が出なければ俺はどうやって芸人に話をし始めればよいのか。「あの、ほら、いつもカンペ(※3)のタイミングが見事だった彼がさ」とか、要するに属性を提示するべきだろうか。しかしそんな切り出し方では、相手はまさか俺が固有名詞を忘れていると思わないから、きわめて特殊な人物だと考えてしまうだろう。きわめて特殊なカンペの出し方をする者とは誰か。そんなやつがいただろうか、と。
 それで済めばまだしも、俺は緊急避難的にその元フロアディレクターの上司の有名なプロデューサーの話に切り替えようとした。そして読者諸氏の予想通り、そっちも忘れた。
「うーん、つまりあの名物プロデューサーの話なんだけどね」とでも言えばいいのか。名物ならますます固有名詞をともなってしかるべきだし、むしろ「名物プロデューサー」だと候補が増えてしまいかねない。
 夢の中で俺の額もこめかみも背筋も冷や汗にまみれており、それでとっさに始めた会話がさっきと同じような「あの人がこないだ俺のライブ見に来てくれてさ、しかもあの人を連れてるんだよ」であった。俺は眠ったままゲロを吐きそうになった。こんな複雑で不条理なクイズのような会話、そろそろビンゴが出そうなタイミングでの穴だらけのシート、あるいは靄のかかった倫敦シティ(※4)を思わせるような話術があり得てよいのだろうか。
 それが夢であってくれて本当によかった。
 現実だったら俺はすでにどこかに入院しているのではないかと思う。自分の首を自分でしめるなどの自傷行為は必須であった。
 だからといって、神が常に優しいわけではない。夢ではない現実での失策は、確かに俺を襲ったのである。それが役所広司さん(※5)の名前をど忘れしたことで起きた。
 近年、俺は昔とった杵柄で再び納得のいくコントを作りたいと思うようになった。それで自分が優れていると思うコント作家、芸人グループに突然声をかけ、リモート会議を開いてもらったのである。俺のもくろみでは、その会議は今後も定期的に行い、そこでの話し合いからいくつものよく出来たナンセンスコントを生み出すのである。
 当日、呼び出された年下のコメディ関係者は緊張している様子であった。それはそうだ。あまりに突然、全体の企画意図も知らされず俺は彼ら一人一人を選び、呼び出したのだから。警戒もあってか芸人の事務所のマネージャー、俺のマネージャー、劇場関係者なども映像をオフったまま参加している。そうした下手をするとピリピリした空気の中、俺だけがはち切れんばかりの笑顔であった。
「ともかくまずはコントを作ろう」という俺のひとことで会議は実質的に始まり、そこで一時間半ほど、六人ほどのメンバーはちょっとしたきっかけのシーンを使ってコント構成案を作った。途中で中の一人が「役所広司さんの演技のうまさが巻き起こす、リアルとアンリアルの混乱」をテーマにし始め、おかげでアイデアが百出。とりあえずお互いの手の内がわかるようなギャグの応酬で、では続きは次回ということになった。
 そこで俺は「次は役所広司さんのコントの続きから始めよう」と言って会議を締めようとした。ところがその「役所広司」の四文字が出なかった。さっきまでみんなで連呼しながら賛美していた役者の名前が喉の奥に消えている。
「あの、あの人の、ほら、あの役者さんのコントの続きも」とかなんとか俺は言った。再びリモート世界にオープニングに似た緊張が走った。俺が固有名詞を言わないことが意図的なのかどうか、彼らは判断に苦しんでいる感じがした。そこに別種のギャグの可能性を探す者もいたかもしれない。
 ともかく静かになった。あわてた俺の口から出てきたのはこういうフレーズだった。
「だから、別所哲也(※6)さんのコントは次もね」
 何かが違うことは俺にもわかった。メンバーたちが作る真空の時間がそこにあった。だが何が違うか、俺にはもうわからなかった。
それでよせばいいのにもう一度俺は言った。
「別所さんのやつをね」
 それまでさんざん役所広司さんのコントのディテールを作ったのである。それが次回、別所哲也さんのコントになるとはあまりに不条理、ナンセンス、唐突、前衛的な成り行きであり、もはや笑う者は誰もいなかった。
 そして、この恥を本当の恥としないため、俺は次回、役所広司コントから鮮やかな別所哲也コントへと変化するアクロバティックな構造を思いつかねばならない。これは至難の技である。というか現世では無理だ。
 ここまでひどいど忘れの例を出してしまえば右端の「ジョニージョニー」などたいした例でもなかろう。これは最近とみに沢田研二(※7)ブームの再燃を迎えている俺が『カサブランカ・ダンディ』(※8)を歌おうとした時のど忘れである。平歌の冒頭、あろうことか阿久悠(※9)の歌詞は女性に張り手をくらわすことを肯定する。これは社会意識の高い我らがジュリーにはいまや許しがたい場面だろうし、むしろ今ならそこは男の頬を張り飛ばす女性の描写に書き換え、サビで「モンローモンロー(※10)、あんたの時代はよかった」と歌いたいものだと俺は一瞬のうちに考えた。
 そしてその素早い書き換えがおかしなど忘れを呼び込んだ。本来は「モンローモンロー」などでなく、ある年代の人なら確実にわかるはずの「ボギーボギー」である。ハンフリー・ボガード(※11)という男優のあだ名だ。
 ところがその「ボギーボギー」が出なかった。何かおかしいなと思っているうち、歌だからリズムにせかされて出たのが「ジョニージョニー」であった。そして歌い上げてみると決して悪くはなかったのである。なので俺は家の中で何度もサビばかりを歌った。
「ジョニージョニー あんたの時代はよかった」
 しかし誰なのだろうか、このジョニーとは?
 俺はやがてその疑問にとらわれた。ジョニー大倉さん(※12)ではないだろう。ジュリーが「あんたの時代」などと歌うわけもない、同時代のきら星だ。かといってジョニー・デップ(※13)は若過ぎる。ジョニー・サンダース(※14)はパンクスだし、ジャニーになると喜多川(※15)、ジョニー・ウォーカー(※16)だとウィスキーで赤と黒の指定が必要になってくるし・・・。さて・・・。
 ああこれはど忘れの沼にはまったな、同じジョニーの中で足をもがくばかりだと俺は思ったものだが、そもそもジョニーが間違いだったのである。それに気づいたのは翌日の歌唱においてであった。
 ああ、このように思い出したい固有名詞の八割は、悲しいことに俺の記憶から抜け落ちてしまう。そして、その空欄に別なものが居座ってしまう。
 これが人生の成り行きというものなのだろうか。


※1 雅楽:日本古来の神楽などと、古代アジア大陸諸国から伝わってきた音楽と舞が融合してできた芸術で,ほぼ10世紀に完成し,皇室の保護の下に伝承されてきた。
※2 背の高いあの人物:おそらく、東儀秀樹(とぎひでき)氏を指している。その場合、「あれを吹く」の「あれ」は、篳篥(ひちりき)を指す。
※3 カンペ:「カンニング・ペーパー」の略。ここでは、テレビ番組などの収録に、台詞などを出演者に伝えるためのスケッチブック等を指す。
※4 靄のかかった倫敦シティ:霧の出ることの多いイギリスの首都ロンドンのこと。
※5 役所広司:日本を代表する俳優。1996年公開の主演映画『Shall we ダンス?』が大ヒットし、主演した今村昌平監督の映画『うなぎ』は1997年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。
※6 別所哲也:日本の俳優。『J-WAVE TOKYO MORNING RADIO』では、10年以上にわたりメインパーソナリティーを務める。
※7 沢田研二:日本の歌手、俳優。ニックネームはジュリー。バンド「ザ・タイガース」で活躍したのち、ソロとして「時の過ぎゆくままに」「ダーリング」「TOKIO」など多くのヒット曲がある。
※8『カサブランカ・ダンディ』:1979年に発売された沢田の曲で、歌番組等で、酒を口にふくんで霧のように吹く演出が話題となった。作詞:阿久悠、作曲:大野克夫。
※9 阿久悠:日本の放送作家、作詞家、小説家。「また逢う日まで」「勝手にしやがれ」「UFO」雨の慕情」など多くのヒット曲の作詞をした。2007年逝去。
※10 モンロー:アメリカ合衆国の女優、モデルのマリリン・モンローのこと。
※11 ハンフリー・ボガード:ハリウッド映画の俳優で、あだ名はボギー。アカデミー賞作品賞を受賞した『カサブランカ』に主演。1940年代 - 1950年代を代表する名優。
※12 ジョニー大倉:ミュージシャン、俳優。1972年に矢沢永吉らとキャロルを結成。のちにソロや俳優として活躍。
※13 ジョニー・デップ:アメリカの俳優、プロデューサー。世界的な映画スターの一人。主演作に『シザーハンズ』『ギルバート・グレイプ』『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズなど多数。
※14 ジョニー・サンダース:アメリカのミュージシャン。ニューヨーク・アンダーグラウンド・ロック・アーティストとしてパンク・ロックに多大なる影響を与えた。「ニューヨーク・ドールズ」を経て、自ら率いる「ハートブレイカーズ」などで活動した。
※15 ジャニー喜多川:日本の芸能・音楽プロデューサー。ジャニーズ事務所の創業者。
※16 ジョニー・ウォーカー:世界的に有名なスコッチ・ウイスキーのブランド。製法や年代によってラベルが色分けされており、世界でもっとも売れているラベルは「レッドラベル」。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

編集部からのお知らせ

いとうせいこうさんが安田登さんと対談されます!

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 安田登さんの新刊『三流のすすめ』が、ミシマ社から7月26日(月)に刊行されます!
 これを記念して、安田さんといとうせいこうさんにオンラインで対談いただきます! その名も、「一流めざすの、やめません? ~『三流』頂上対談!」
「三流=多流(いろいろなことができる人)」という新たな生き方を提示された安田さん。まさにトップレベルの「三流人」といえるお二人に、一流をめざさない愉快な生き方について語っていただきます。

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