鬼気迫るど忘れ書道

第1回

レミング~MSF

2021.01.10更新

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 『ど忘れ書道』とは、ど忘れした言葉を思い出した時、それを清新な気持で書道することで"二度と忘れないようにする"、もしくは"出来れば二度と忘れないよう心がける"、いや"忘れないことが自分にも出来るだろうか"、さらにいえば"ああ、そうだったらいいのになあ"と詠嘆する行為のすべてである。
 以前、私は九年間の歳月をかけてこの貴重な書道を続け、ついにミシマ社から堂々一冊の本を出した(※1)。で、出し終えたはいいが、ど忘れは終わらなかった。
 これはまあ当然のことである。ど忘れが終わってくれるなら、これは「ど忘れ書道療法」なのであり、本は空前のブームとなって日本中を駆け抜け、私はほとんど教祖となって筆を持っていたはずだ。

 しかし終わらない。ど忘れは終わらない。
 それどころか日に日に悪化して、時おり私自身、背筋が凍るのである。精神科に友人がいて(星野概念※2)彼が主治医でもあるし、月に一回ずつカウンセリングを受けに行くのだが、三回に一回は「俺の脳は大丈夫だろうか?」と相談している気がする(正確なところは覚えていない)。そして彼の返事はほとんどわかっていて「生活に支障はありますか?」である(たぶん)。

 通常の生活を営んでいるならば、例えば「レミング(※3)」が出てこないことはたいした支障ではあるまい。だが俺には例えばツッコミも仕事のうちなのである。芸人などが群れをなして大穴に向かって歩き、その穴には小麦粉めいたものがびっしり積もっているVTRを見ている時、誰かが「レミングかよ」と言わざるを得ない。
 近頃は死に吸い寄せられるのはレミングの習性ではないという研究結果もあるが、そこは目をつぶってもらって是非ともここは「レミングかよ」と言いたいものだ。そして若いアイドルに「レミングってなんですか?」と言われるところまででひとくくりだ。
 しかし出ない。その四文字が出ない。
 カタカナだということだけはわかっている。しかしカタカナの四文字がなんとこの世界には多いことか。そもそも「カタカナ」が四文字だ。

 それで俺はVTRの行方どころではなくなる。目はかろうじてモニターを見ているが、その奥ではレミングを探し求めて荒野をさまよっている。崖があったら俺は気づかず落ちるだろう。「一人レミング」と言ってもいいわけだが、その時の俺からしたらレミングが言えないわけだから「一人フフンフ」みたいな状態である。ちなみに「フフンフ」はかなりレミングに寄せた。正確にはそれさえままならないのだから、「一人フーフフン」とか「一人フフフフ」的なことになるだろう。
 で、もし「フーフフン」と仮定したら音の連想で「ブーメラン」が出てしまうし、「一人フフフフ」なら「一人玉突き」などが出てきて、もうカタカナでもなくなる。
 そういうわけで俺は数分の間、使い物にならない。テレビ番組としてもVTR視聴中に実質気絶している前期高齢者を使おうとは思うまい。つまり俺にとって、ど忘れは大きな支障なのである。

 だが、それを治す手段は先端医学の中にもない。つまり、頭のよくなる薬なわけだから。そういうのが出ているなら全世界で服用が相次ぎ、基本のIQが上がってしまい、結論俺などはやっぱり「一人フフンフ」みたいな言葉の前でじっと立ち尽くすのではないか。ただし「フフンフ」はその場合、高度な数式などであろう。人類がみな頭脳明晰になっているわけだから。ちなみにこの場合、数式の前に「一人」がついているだけに、具体例を挙げることは非常に難しい。例えば「一人E=mc2(二乗)」とはなんのことだろうか。そこに人数は関係ないのではないか。何が何やらまるでわからない。

 ということで、前置きがずいぶん長くなった。第一回はほぼこれで終わっていいくらい、俺はど忘れについて語ったのである。だが、とはいえ図版を見ていただけばおわかりの通り、俺はこの一ヶ月ほどであれこれ忘れ、あれこれ書道している。そのいくつかを説明せねば、ど忘れも浮かばれまい。

 例えば、松坂桃李(※4)を俺は忘れた。もちろん顔は浮かんだ。ホクロのある人だったはずだ。近頃おめでたいことがあり、たぶんそれで俺はうれしい気分でまず「戸田恵梨香」と頭の中で言った。横に素敵な男性がいる。映画でも観ている人だ。ああ、素敵なカップルでよかった・・・のだが、誰だかをど忘れした。これではめでたさも半減である。
 それで色々と記憶の中を経巡ったが、いったん忘れた松坂桃李はめったなことでは出てこない。さすがに仕方なく、俺は戸田恵梨香を検索し、まさにその横に立つ素敵な松坂桃李を見つけたのである。

 いざ忘れてみると、思い出すのが実に難しい名前である。まず松坂が第一の関門だ。ここには松阪もおり、牛がモーモー鳴いている。つい我々はそっちの道を行くのではないか。で、そうなったらもう赤身と脂のほどよく混ざった肉の映像以外思い浮かばない。四方八方が紅白。プーンと匂いがして取れない。ど忘れ界の肉地獄と言ってもよかろう。
 もし万が一「いや、松坂だ!」と一人荒野を行く者がいても、その松坂道には大輔が立っている。もはや足元は軽く盛り上がり、マウンド然としているのではないか。そこで白いユニフォームの松坂大輔(※5)はやおら振りかぶって一球投げるに違いない。運よくその豪速球をよけたとしても、人は脇の大穴に転がり落ち、白い粉にまみれるであろう。
 ということで、苗字ひとつで難しい。難しい上に桃李と来る。これは相当のインテリでないと思いつかない素晴らしい名前だ。付けた人物は漢詩でも読まれるのだろう。桃は古代中国の呪物であり、我が国の古事記においても黄泉の国から走り逃げるイザナギが、追ってくるイザナミに投げつけた果物だ。
 さて、そこに李と来るセンスはどういうことだろう。すもも。李下に冠を正さず。疑われるようなことはするなという、現今の政治家に度々突きつけられる言葉にも出てくる、その分おいしいはずのフルーツ。いやはや参った。南画(※6)の世界だ。
 参っている場合じゃなくて、俺はそれほど特徴的な名前を失念したのである。恥じる他はない。

 見れば林遣都(※7)も忘れている。演技がうまい役者の名前を言おうとした時、俺はこの名前をすっかり忘れていることに気づいた。そしてその場は古い役者を例に出してごまかし、そのあとでやっぱりドラマの名前で検索した。そしてここにも桃李的な古代調の名づけがあるのに驚いた。「遣」であった。遣唐使、遣隋使以外に、この字を使うことが我々にあるのだろうか。ああ、「派遣」があるか。しかし俳優の名前が「派遣」を示したがることなどあるまい。やっぱり遣唐使、遣隋使だ。なにしろすぐあとに「都」と来る。だが、都と来るなら通常「遷都」ではないのか。
 林遷都。これならば俺も覚えられただろう。
 さらに言えば、名優林遣都はそこまで名前に奈良感を漂わせていながら、音はケントと洋風なのである。確かに古代の奈良はまさしく国際都市で、そこに大仏などが建立され、朝鮮半島や中国、さらに西方からもゲストを招いて大法会が営まれたわけであるから、そう考えればケントであることも実はうなずける。ただしその音を使用することによってデリカット(※8)、ギルバード(※9)への分かれ道が出現してしまうこと(松坂大輔への道みたいに)は指摘しておく。

 また、図の左上にMFSと小さく書道してあるのは、俺自身『「国境なき医師団」を見に行く』(※10)でお世話になっているのに、MSF(※11)を書き間違えたのである。人前で。
 これはもはや笑いにならない。
 鬼気迫るど忘れのひとつだ。


※1 『ど忘れ書道』(ミシマ社)、二〇二〇年七月刊行
※2 星野概念: 精神科医・ミュージシャン。ミシマガジンの好評連載「ないようである」が2月に『ないようである、かもしれない ~発酵ラブな精神科医の妄言』として書籍化予定。
※3 レミング:ねずみの一種。北極近辺に生息し、3~4年周期で個体数が急激に増えたり減ったりすることから、「集団で海に飛び込み自殺する」という説が長く信じられてきた。実際には集団自殺ではなく、増減の要因はよくわかっていない。
※4 松坂桃李:俳優。1988年生まれ。2020年、女優の戸田恵梨香と結婚した。
※5 松坂大輔:プロ野球選手。1980年生まれ。甲子園での圧倒的な活躍で脚光を浴び、プロになってからもゴールデングラブ賞受賞7回、沢村栄治賞受賞、大リーグでも活躍。「平成の怪物」と呼ばれる。
※6 南画:中国の南宗画(なんしゅうが)に影響を受け、江戸時代後期に日本でおこり発展してきた画派の一つ。
※7 林遣都:俳優。1990年生まれ。2007年、映画『バッテリー』の主演で俳優デビュー。朝ドラ『スカーレット』や『おっさんずラブ』など多くのドラマや映画で活躍。
※8 ケント・デリカット:日本で活動する外国人タレント。バラエティ番組やコマーシャルで活躍。
※9 ケント・ギルバード:日本で活動する外国人タレント・弁護士。テレビで活躍するほか著書も多い。
※10 『「国境なき医師団」を見に行く』:講談社より2017年発刊。2020年に文庫化。
※11 MSF:国境なき医師団=MEDECINS SANS FRONTIERESの略。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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