鬼気迫るど忘れ書道

第15回

ファミリーレストラン~マイレボリューション

2022.03.14更新

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 ファミリーレストランと言おうとして、ファミリーマートと言ってしまったのは、もはやど忘れ界ではかわいい出来事に過ぎない。これをファミリーサンクスとかファミリーセブンと言ったのでない限り、むしろ正解に近いのではないだろうか。ファミリーが言えている時点でセーフであろう。
 それよりも問題は、俺がカフカ(※1)の『変身』(※2)を「虫」と言ってしまった件だ。これは忘れもしない河北新報で続けている連載『東北モノローグ』(※3)取材中のことで、生活文化部部長の運転する車で俺は仙台駅から石巻へ向かっていたのであった。
 編集長とぼそぼそあれこれ語り合う中で、あやつり人形の結城座(※4)の話になった。で、俺は確か結城座の次回公演がカフカ『変身』であることを是非編集長に伝えたいと思った。俺が学生の頃から、この古典芸能の一座は攻めに攻める印象があり、今回の『変身』などはその好例だと思ったからだ。
「あ、それで結城座のね」
 俺は車窓から空を見上げて言った。
「次の公演のテーマが・・・」
 すでにカフカという単語は頭の中に明白であった。しかも「虫」がうごめいているのも確かなことだった。がしかし、タイトルだけが不思議なことに霧に覆われている。
 言えない可能性があった。言えないのはカフカだけに厳しい。ほとんど全作品のタイトルを言えねばならないような、そもそもそういう文学系のやりとりが続いていたからだ。
『城』ではない。『審判』でもない。俺は短い沈黙の中で文学レベルを上げた。少しマニアック気味な題名をサーチする。
 だが『断食芸人』でもなければ『ある流刑地の話』でもない。まして『アメリカ』(※5)でもないことは、俺のまぶたの裏でムニムニとうごめく「虫」の姿でわかった。アメリカに渡るのは少年カール・ロスマンであって、断じて「虫」ではないからだ。
 それでついに俺は見切り発車で言った。
「カフカのね、『虫』なんですよ」
 すると編集長は瞬間のとまどいもなく、
「へえー、それは斬新ですね」
 と答えてくれたのである。ああ、意味だけは伝わったなと俺は思った。それはそうだ。誰だって「カフカの虫」と言われれば、あの小説を頭に浮かべるだろう。
 だが、これは違ったな、と俺は理解した。
 何かが違う。口の具合というか、発音のあと味というか、言ってみたときの不慣れな感じが、決して「虫」ではなかった。だが内容はわかっているし、ほとんど「虫」だからやっかいなのである。
 俺は宮城県内をひた走る車の中でぶつぶつやった。
「ある朝、グレゴール・ザムザが何か気がかりな夢から覚めると」
 それが小説の冒頭であった。こうして「夢から覚め」て始まる小説が頻発することは、俺自身の作品『小説禁止令に賛同する』(※6)でも語られているし、ともかくまずこのザムザをめぐる話が"夢ではない"ことを示している。夢からは覚めてしまったのだから。
 そしていまだ夢の波打ち際にいるのは俺であった。
 その後、編集長と様々なことをしゃべったが、そのどこかで必ず俺は「カフカ」とか「虫」とか「ザムザ」という単語を脳内シナプスの発火によって思い起こした。そしてその単語の脇に、また必ず奇怪な昆虫がい続けた。いるからこそ俺は「カフカの虫」から逃れられなかったのである。
 ドイツ語のタイトルが実際『虫』なのではないかとさえ、俺は現実逃避した。つまり一般に流布している日本語題(俺が思い出せないやつ)はいわば間違っているのであって、そのせいで俺は今苦しんでいるのだと、他人のせいにしかけたのである。
『変身』という正解がピカリと飛び出したのは、北上川に近づいたくらいの時であった。ああそうだったと俺は叫びそうになった。
 もしそこで「ああ、変身!」と俺が口にしてしまったら、そこで連載は終了したかもしれない。よりによって「変身」は最も叫んではいけない二文字だった。もちろん仮面ライダー(※7)のせいだ。そして仮面ライダーこそが虫であることは、誰にも説明するべきでない真実であった。それはまた別の話だ。
 むろん俺は「変身」を主軸とする『変身』について、それから数分ぼんやりと考えた。俺は実のところその小説を「虫」として受け取っていたことに気づいたからだ。そしてこの読みの変更の中には、仮面ライダーの件も入れねばならないとも俺は思っていた。
 さて、似た種類のど忘れに「イナバウワー」(※8)がある。
 俺の家にいる一歳児は、気に入らないことがあると背中を反らせて固まる。その折に親としては「お、イナバウワー」などとふざけるしかないのである。
 だが何度もそのふざけを繰り返していたにもかかわらず、突然「イナバウワー」が出なくなった。ど忘れしたのである。
 そして一度忘れると、それは技を作り出した人名に過ぎないので論理では出てこない。
 ただ、「稲」のイメージだけはあった。実った稲穂が向こう側に垂れる。それが荒川静香(※9)の力強くも柔軟な背中の美しさであった。
 がしかし「イネ」から思い出そうとすると、惜しいかな正解から遠ざかってしまう。「イナ」との差はひと文字なのだし、そう口ずさんでみれば「バウワー」はほろほろっと続いて出るのだろうが、「イネ」からは無理なのである。
 俺は固まって嫌がる一歳児を抱え、「イネ」「イネ」と遠くを見て反復したものである。たいていは「イネス」となり、その北欧感によって荒川静香の姿をいろどってしまう。そうすると俺の「ど忘れすごろく」はいきなり終了するのであった。
 ますだおかだ(※10)の下の名前を、両方ど忘れしている、もしくは覚えたことがないのはなんというか自ら死角を突いた気がした。ますだ君もおかだ君も下の名前で説明したことがなく、必ず「ますだおかだのますだ君」「ますだおかだのおかだ君」と言っていたからだ。
 これは非常に絶妙な現象で、コンビ名が苗字がわりになると、その中に埋め込まれた真の苗字が一段下がって名前になるのである。
 逆の例が「のいるこいる」師匠で(こいる師匠RIP※11)、我々のほとんどはつい師匠方の苗字が「昭和」であることを忘れている。それで「のいるこいるののいる」「のいるこいるのこいる」と、暗号のようなことになる。
 そこへいくとなぜだろう、「こだまひびき」師匠(※12)はあくまで「大木こだま・大木ひびき」と来る。これは俺だけであろうか。苗字と名前が焼き印のように脳に刻まれている。ついでに「おうじょうしまっせ」も名前のすぐ横に刻まれているから強力だ。
 さて、今回の俺的なピークは「あくまでも『マイレボリューション』の渡辺美里さん(※13)と言いたいのにもかかわらず、『翼の折れたエンジェル』の中村あゆみさん(※14)と言ってしまっている」というまさにどうしようもないボケで、何かが違うと思ってきちんと思い出そうとすると、かえってこの四要素がバラバラになって凄まじい混乱を起こしたのであった。
 要するに「『マイレボリューション』の中村あゆみ」「『翼の折れたエンジェル』の渡辺美里」とあり得ない歴史が捏造されて、俺はお二人の巨匠の歌い上げる姿を脳裏に浮かべながら、しかし単語の組み合わせとしてはおおいに間違っている世界を生きたのである。
 しかも前日スタジオで「いとうせいこうis the poet」(※15)のリハをし、その最中にかつての米フェス(※16)の袖から渡辺美里さんの『マイレボリューション』をみんなで観たときのその貫録について、熟練のメンバーたちと話したばかりだったのにもかかわらずだ。
 そこまで記憶力がうっすらとしたハンカチ程度の厚みになってしまうなら、他にも「森高千里(※17)の『マイレボリューション』」「プリンセスプリンセス(※18)の『渡良瀬川』」「浜田麻里(※19)の『翼の折れたエンジェル』」「濱田マリ(※20)の浜田麻里」といったことがあり得る並行世界が、俺の脇には限りなく生じるであろう。
 ど忘れによって、俺は歴史を複雑化している。


※1 カフカ:チェコ出身のドイツ語作家で、1883年生まれ、1924年没。『変身』のほか、『城』『審判』『断食芸人』『ある流刑地の話』など多くの名作を残した。
※2『変身』:カフカの代表作といえる中編小説。主人公の男が、ある朝目覚めると巨大な虫になっていたというところから始まる。
※3『東北モノローグ』:著者が河北新報で続けている、被災地の聞き歩き連載。
※4 あやつり人形の結城座:江戸時代の寛永12年(1635年)に初代結城孫三郎が旗揚げした、日本唯一の伝統的な「江戸糸あやつり人形」の劇団。2022年3月26日~30日まで、下北沢「劇」小劇場にて、『変身』を上演予定。
※5『アメリカ』:カフカの長編小説で、未完の作品。ドイツ人の少年カール・ロスマンが、異国アメリカを放浪する様を描く。草稿にはタイトルがなく、当初は『アメリカ』のタイトルで発刊されたが、のちに『失踪者』のタイトルを予定していたことが判明し、近年はそちらのタイトルが用いられることが多い。
※6『小説禁止令に賛同する』:2018年に刊行された著者の小説。『小説禁止令』が発布された近未来を描く。
※7 仮面ライダー:1971から1973年までNET系列で放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品。作中、主人公は「変身!」と言いながら、バッタの能力を持つ改造人間に変身する。
※8 イナバウワー:正確にはイナバウアーで、フィギュアスケートの技の名前。1950年代に活躍した旧西ドイツの女性フィギュアスケート選手、イナ・バウアーが開発したことからこの名前がついた。足を前後に開き、つま先を180度開いて真横に滑る技。
※9 荒川静香:2006年トリノオリンピックで金メダルと獲得した元フィギュアスケート選手。上半身を大きく反らせるイナバウアーが得意技。
※10 ますだおかだ:増田英彦と岡田圭右によるお笑いコンビ。
※11「のいるこいる」師匠:昭和のいると昭和こいるによる漫才コンビ。こいる氏は、2021年末に死去。RIPは、「Rest in peace」の略で、日本の「ご冥福をお祈りします」という意味に近い単語。
※12「こだまひびき」師匠:大木こだまと大木ひびきによるお笑いコンビ。
※13『マイレボリューション』の渡辺美里さん:1985年にデビューした歌手で、1986年「My Revolution」が大ヒットした。
※14『翼の折れたエンジェル』の中村あゆみさん:1984年にデビューした歌手で、1985年に「翼の折れたエンジェル」が大ヒットした。
※15 いとうせいこうis the poet:ダブポエトリーのユニット。いとう自身の小説や詩や演説などの一節を、即興音楽に合わせてその場で選びながら読んでいき、常にそれをダブ処理することで音と言葉を拮抗させる。通称:ITP。
※16 米フェス:2018年よりスタートした、新潟県長岡市で開催される音楽フェス。
※17 森高千里:1987年にデビューした歌手。著者の記憶では『渡良瀬川』となっているが、実際には『渡良瀬橋」などのヒット曲がある。
※18 プリンセスプリンセス:1983年にデビューした女性5人組のバンドで、『Diamonds』などのヒット曲がある。
※19 浜田麻里:1983年にデビューした歌手で、「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」などのヒット曲がある。
※20 濱田マリ:1992年、モダンチョキチョキズというバンドでデビューした歌手で、声優やナレーターとしても活躍する。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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