鬼気迫るど忘れ書道

第16回

アルジャーノンに花束を~菅原孝標女

2022.04.12更新

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 俺くらいのど忘れ巧者になると、一度ど忘れした対象は二度と思い出さない。このようにバカ丁寧に筆で書いてその言葉を大切に扱ったところで、どうせ一時間後にはまた忘れている。
 たぶんハムスターがそんな調子で生きているのではないか。それで回し車をしきりに回して長距離を移動してるつもりになっている。このへんの事情は俺がよく忘れる『アルジャーノンに花束を』(※1)がくわしかった気がする。ちなみに今も俺は書名を思い出せず、しかし少しもあわてずサファリの検索ブランクのところに、「ねずみ 記憶 小説」と入れたのである。
 当然一発で出ますね。『アルジャーノンに花束を』が一番上に出る。俺くらいのど忘れマシンはこの検索ワードの絞り込みテクでなんとかやっていってるわけで、となると現在のリモート流行はたいへんありがたい。顔だけ相手に向けているふりをして、俺はしょっちゅう検索し、話を円滑に進めている。
 それはともかく、「ハイデッガー」(※2)はとっくに「俺のど忘れワード」に入っている。で、今回も俺は思い出せなくなった。
 そもそも俺は「九鬼周造」(※3)と言いたかったのである。しかしその「九鬼周造」もまた、いつの日だったかに「俺のど忘れワード」に入っていた。要するに二度と思い出せない名前になった。なんというか、ある瞬間、脳の九鬼部分がクッキーが崩れるように欠落した(九鬼だけに)。俺は近頃到達した自分のバンド(「いとうせいこう is the poet」)で度々九鬼周造の、おそらく日本初の脚韻詩を読んでいる。このことはおそらく前にも書いただろう。俺が忘れているだけで(※4)。
 つまり九鬼を日本語ラップの淵源に位置づけようともしているわけで、それで人との話の中で彼の名前を思い出す必要に度々駆られるのである。今回もまた退屈なくらいその流れであったから、俺はまず「いきの構造」と最も有名な書物の題名を脳裏に浮かばせた。
 リモートだったら即検索だが、その日俺は人前であった。
 しかし昔ならそれですぐに「九鬼周造!」と脳が反応したのに、もはや代表作の名で「俺の脳の九鬼部分」を刺激することは出来なくなっていた。困った俺は口だけは相手と談笑していながら、頭の奥で別のことを考えていた。
「どうやって九鬼を呼び出すか」である。
 その過程でちょっと得意な気持ちになったのは、当然九鬼の師匠がドイツの有名な哲学者だったことを思い出したからだ。
 それが今回丁寧に筆書した「マルティン・ハイデッガー」である。
 と聞くと諸氏は、なんかいかにも俺がハイデッガーの名を思い出したみたいに思うだろうが、冷静になってほしい。俺にそんな能力があるはずもないではないか。ということで、「九鬼周造」を思い出せない状況の中で俺は、「マルティン・ハイデッガー」も思い出せなかったのである。
 であるから正しいシチュエーションとしては、「○○○○」の師匠が「○○○○○・○○○○○○」だったなあという感慨に俺はふけったわけだ。ほとんどふけりようのない感慨だが、そこがやはり俺のど忘れ巧者ぶりというものだろう。通常なら気が狂うのではないか。がしかし、俺などはふける。ふけるあまり、脳内の真っ白い映像を前に一句詠みたくなる。
「○○や○○○に○○○」
 ああ、まともにこの世にあるのは助詞だけだ。
 しかも俺はハイデッガーを思い出す努力の中で、なぜか「デ」の音のイメージだけを思い出し始めており、なのに出てくるのはデンゼル・ワシントン(※5)、デヴィッド・クローネンバーグ(※6)、デニス・ホッパー(※7)と映画俳優ばかりで、いっこうに核心に近づかない。せめてディルタイ(※8)くらい思い出せねば恥ずかしい。いやもう、九鬼とハイデッガーが出ないことがそもそも恥のマグマ部分なのだが。
 ともかくそういうことで、俺はその場は肝心の九鬼周造の名を出さず、もちろんその師匠たるハイデッガーの名も出さず、特に特徴のない話をしてその場を去ったのである。
 その時の俺の姿をもし句にすればこうだろうか。
「○○も○○○に○○○」
 あるいは、
「○○に○○○か○○○」
 どっちでもいい。くだらない。
 ちなみに別の日であれば、「デ」のつく映画俳優の筆頭に「ディカプリオさま」を挙げていたかもしれない。
 実際、俺は『ドント・ルック・アップ』(※9)の話をし、まさに中心人物であるレオナルド・ディカプリオの名を失念し、その途端彼の名前もまた白く輝ける「俺のど忘れワード」にランクインしていることを思い出した(※10)。そういうことだけは思い出せる。
 しかし今回の「俺のど忘れワード」には隙があった。
 あ、なんか「さま」がつくはずだ!
 俺はそう思い出したのである。
 これはほぼ記憶の全体に小穴がポツポツあいている俺にしては上出来であった。
 しかもすぐさま俺はこう叫んだのである。
「あの、ほら、ディカプリオさまがいいよね!」
 まあセーフといえばセーフではないか。
 ただ自分でも少し調子がおかしいとは感じたし、話し相手の後輩の様子にもしっくりこない人間の目の泳ぎ方を俺は感じとった。
 それで家に帰る地下鉄の中で、俺はもろに「ディカプリオ」を検索し、「さま」は主に「レオ」のところにつくことを知ったのである。
 いやしかし、俺にしては頑張ったではないか。むしろ「レオナルド」のところに「さま」をつけ、「レオナルドさま」とあたかも奴隷が分際をわきまえずに彼の占有者をファーストネームで呼ぶような失態を演じていなくてよかった。どういうわけか「ディカプリオさま」はそのへんセーフである。「レオさま」のちょっとしたふざけ感がある。「レオナルドさま」は絶対アウトだ。
 さて、子供(一歳児)が絵本を読め読めと日々うるさい。それでシリーズで買った松谷みよ子さん(※11)の絵本を俺としては読みたいのであるが、子供の好みはまるでわからない。どう考えても内容のないやつとか、言葉が饒舌過ぎて深みに欠けるやつとかを選びたがる。
 あんまりにも好みが俺と違うので、さすがに言ってやったのである、俺は。
「ここは松金よね子さん(※12)を読もうよ!」
 何かが違うと思ったのは俺ばかりであった。子供はその大きな間違いに気づかず、さかんに別の絵本を指さしている。
 俺の目の裏には、明らかに愛らしいコメディエンヌがちらちらしている。俺の気に入っている絵本の文字を書いたのは、しかしこんなひょうきんな感じの人だったろうか。
 そもそも「金」のところ。そこが何やら面白そうな感覚を呼びさまし、なおかつ少し俗っぽいような気もする。俺が想像している児童書の作家はもう少し「金」との距離を取っているはずだ。
 と考えて、俺はそこが「谷」だと思った。確かに谷の中に小さな屋敷など建て、マキを燃やして暖をとっている。そういう感じの人が書きそうな文を俺は呼んで満ち足りているのであって、その屋敷の下に「金」の鉱脈があるようなイメージではない。
 松谷よね子。
 ほとんどそれでよかった。
 もう正解にしてもいいかもしれない。
 彼女の美しくあたたかい絵本を誰もが思い浮かべる名前。
 だがどうしても、俺の年代だとまだ「劇団東京乾電池」(※13)の香りがうっすら漂ってくるのである。絵本の中でお風呂にむかうかわいいガチョウや、くまなどを乗せて走る少年の自動車の背後に、にやにやしている柄本明さんの顔や、完全に出遅れてしまって森の樹木の間に隠れてその場から消えようとしているベンガルさんの背中が、まるで霊のようにぼんやりと浮かぶのだ。これはよくない。とりわけ子供の教育に悪影響である。
 松谷みよ子という正解には結局、絵本をひっくり返して確認することでたどりついた。ただ何度もよく見て確かめない限り、人は「松金よね子」と「松谷みよ子」の違いをはっきりと覚えることは出来ないのではないか。いや、ああ、覚えられますか。そうですか。すいません。
 菅原孝標女。すがわらたかすえのむすめ。
 この人は俺にとって重要な平安の作家なのだし、いつかはこの人にまつわる何かを書くだろうと資料も集めているのだが、そんなことを十何年もしているうちにすっかり「俺のど忘れワード」の中に入ってしまっている。たぶんすでに俺はこの人のことを本欄で書いているはずだ(※14)。
 まあ記憶が「菅原よね子のむすめ」にならなければ、ここはよしとすべきであろうか。
 


※1『アルジャーノンに花束を』:アメリカの作家ダニエル・キイスによるSF小説。作中、ハツカネズミの「アルジャーノン」は脳手術を受け、一時的に知能が発達するが、徐々にその知能が失われていく。著者の記憶どおり、書籍『ど忘れ書道』112頁、本連載第9回でも、このワードをど忘れしている。
※2マルティン・ハイデッガー:ドイツの哲学者。20世紀を代表する哲学者で主著は『存在と時間』。
※3九鬼周造:日本の哲学者。生前ドイツに留学し、ハイデッガーから学んだ時期がある。主著は『「いき」の構造』。
※4:「いとうせいこう is the poet」については何度か触れているが、九鬼について書かれたのは今回が初めて。
※5デンゼル・ワシントン:アメリカの俳優、映画監督。2002年『トレーニング デイ』でアカデミー主演男優賞を受賞。
※6デヴィッド・クローネンバーグ:カナダの映画監督、俳優。ホラー作品で有名。
※7デニス・ホッパー:1936年生まれのアメリカの俳優、映画プロデューサー。2010年没。代表作は監督・脚本・主演した『イージー・ライダー』で、数々の映画の監督・出演をしている。ど忘れワードの常連。
※8ヴィルヘルム・ディルタイ:ハイデッガーよりも半世紀ほど前のドイツ哲学者で、ハイデッガーにも大きな影響を与えた。
※9『ドント・ルック・アップ』:2021年に公開されたアメリカ合衆国のブラックコメディ映画。レオナルド・ディカプリオが主演している。
※10レオナルド・ディカプリオ:アメリカの俳優。『ギルバート・グレイプ』や『タイタニック』など多くのヒット作に出演。著者は書籍『ど忘れ書道』10頁でもど忘れしている。
※11松谷みよ子:絵本作家。〈モモちゃんとアカネちゃんの本〉シリーズほか、多くのロングセラー絵本を残した。
※12松金よね子:女優。テアトル・エコー、劇団東京乾電池を経て、現在はノックアウトに所属。コメディエンヌとして多くの作品に出演。
※13劇団東京乾電池:1976年に柄本明、ベンガル、綾田俊樹によって結成された劇団。下北沢にアトリエを構え、70名を超す座員で活動をしている。
※14菅原孝標女:平安時代の貴族の女性で『更級日記』の著者。本連載での登場は初めて。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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