鬼気迫るど忘れ書道

第12回

俺~バーバパパ

2021.12.06更新

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「俺」とあるのは、むろん最大の精神的危機をあらわしているのであった。
 俺はいい年をしてまたも引っ越しを断行し(しかしそれは気に入って住んでいた物件がいわゆる「定期借家」で五年の期限があり、そうは言っても日時は延びるんじゃないかとタカをくくっていた俺が悪いのであった)、しかも間取りがあれこれ変わったために引っ越し屋も本棚を中心としたあらゆる家具をあっちこっちに収納せざるを得ず(十数年俺は荷造りと荷ほどきを全部まかせるパックを、引っ越し芸人高倉君(※1)の会社にまかせている)、その結果、俺は何がどこにあるかほとんどわからなくなってしまったのだった。
 たとえて言えば脳のネットワークが断裂した感じで、俺の冬服をしまったカゴはさすがに俺にあてがわれた部屋にあるだろうと思うと、意外や意外、生まれて十ヶ月ほどの赤ん坊をケージで囲ってある和室の押し入れから出てくる。あるいはパソコンというパソコンは全部俺の書斎に集められていて、実際にそれを使う妻は半狂乱で俺の部屋の、しかもクローゼットをひっかき回している始末。
 まあそういうわけで、ただでさえ物忘れがひどい俺は朝から晩まで「あれはどこに行ったろう」と考え続け、そもそも「あれ」がなんであるかを見失っているのだから、えんえんと妻に「あれはどこかな?」とつぶやいているのであった。これはつまり典型的な若年性アルツハイマーだ。いや若年でもない。
 そしてなんとその頼りの(妻は探偵めいた分析と勘でかなりの事件を次々解決した。まず彼女は「昨日キッチンの段ボールを開けていた女の人はこういう人だった」と記憶をたどり、その上で「あの人の片づけの傾向を類推すれば、あなたが欲しがっているハサミはそこにはない」と結論づけるのである)、カッコの中が案外長かったのでもう一度最初から言うと「なんとその頼り」の妻は、しかし数日後『赤ん坊の遅い宮参り』のために実家に帰ってしまった。俺は一人残された。
 そこでおそろしいことが連続して起こった。もう説明するまでもないだろうし、俺も正確な記憶を蘇らせる能力に欠けるのだが、ともかく俺は一人で過ごす最初の夜、何かを探した。何を探しているか忘れたままで。
 するとその過程で、例えば気を確かにするために持っていたはずのコーヒーのマグカップを途中で紛失したのである。これはまずいと思って短い廊下をさかのぼり、寝室に行ってみたりした。どこかのキャビネットの上にふとカップを置いてはいないだろうか。そう思うがどうもそこにはなさそうだ。
 カップがなさそうなついでに、さっきまで左手に持っていたスマホもなくなっている。俺の体に触れると物質は消えるとでもいうのだろうか。早速俺はなんの根拠もなく隣の書斎に行き、あたりを見回し、デスクの上に積まれた本をひっくり返した。いやまさかそんな場所に挟むはずもないのだ。なくしたのはついさっき、ほとんど一瞬前なのだから。
 さて、スマホがないのは一番困るので、俺は他になくしたものを後回しにしようと思った。だが当然のこと、俺は何を他になくしたか覚えていないのである。それは一大事だった。脳裏が真っ白に輝いていくのがわかる。記憶がどういう原理でか燃え、それが輝いているのである。そのまま何も見つけずにいれば、俺はその短く暗い廊下の中でたった一人、自分が誰であるかさえ忘れるだろう。
 そこであわててリビングに行った。とにかくソファに座って落ち着いたらどうだろうか。俺はそう考えるのだが、ソファの周囲には見知らぬ洗剤とか妙に長いコードなどが散乱している。その様子を見るだけで俺は気が狂いそうになった。このまま俺は誰にも相談出来ないまま、何がなんだかわからない世界の中で、自己存在そのものを散乱させざるを得ないのか。
 テーブルの端に精神安定剤のシートが落ちているのを見つけたのは本当に幸いであった。それは友人である精神科医・星野概念が処方した軽いもので、俺はその白い錠剤をカリカリやり、いったん落ち着きを取り戻すと、ともかくローラー作戦でスマホだけを探し出そうと考え、それから三十分くらいかけてとうとうあの黒い石板を手にしたのであった。寝室の枕横のキャビネットの陰、ちょっとした死角に置かれたコーヒーカップの下でじっとしていたスマホを(言っておくが俺は電話がかかってくるのが嫌いで、音量は常にゼロにしている。したがって固定電話からかけたとしても鳴りはしないのだ)。
 そして俺は、スマホ救出の過程で見つけ出して脇にはさんだままだったスケッチブックをおもむろに開き、リビングで見つけ出してあった筆ペンで堂々と「俺」としたためたのである。なぜ忘れた対象である「スマホ」と書かなかったのかといえば、むろん俺は俺自身を発見したような気持ちだったからだ。それまで自分をなくしかけていたのだ、俺は。
 かと思えば、その翌日だったか『いとうせいこう is the poet』(※2)というバンドのブルーノートでのパフォーマンスのためのリハーサルで下北沢にいた俺は、バンドマンたちの腰痛についての相談に応え、メンバーである満島ひかりさん(※3)が名を挙げたゴッドハンドのつながりで、「俺が最後に頼っているのはね・・・」と聞き手の期待値を上げたあと、その治し手がいる山手線の駅の名を挙げたかったにもかかわらず、しかもそれは山手線界で忘れられるはずもない「品川」なのだがど忘れが来て、「ほら、あそこの駅の隣、ほら、こないだ新しく出来たあそこ」とまず隣の駅から思い出していこうとして大失敗した。品川が出ない人間に、高輪ゲートウェイが出るはずもない。
 車移動の多いバンドマンや女優がすかさず「高輪ゲートウェイ」と言うはずもないか、と思っていると彼らは口々に「虎ノ門ヒルズ?」などと渋いことを言い出した。確かにそれも新しい駅だし、ネーミングは高輪ゲートウェイにそっくりだが、それは地下鉄銀座線の駅ではないか。黄色い車体が行き来するゾーンだ(※4)。緑の山手線ではない。
 それであれこれ話しあってようやく「高輪ゲートウェイ」にたどり着いた俺は、そもそもこの駅名がいけないのだと一人で思った。なんだよ、ゲートウェイって。玄関のことだろ、門のある道、ゲートウェイ。どんな駅だってその地域の門の役割を担うのだから、品川だって「品川ゲートウェイ」だし、西日暮里だって「西日暮里ゲートウェイ」ではないか。
 そもそも「ゲートウェイ」という言葉が駅に向いていない。むしろホテルっぽい気がする。「高輪ゲートウェイホテル」と言ってくれれば、俺だって覚えられるのだ。あるいは似合うのは「工事」だろう。「高輪ゲートウェイホテル工事」。すごく工事している感じが出る。ずっとやってて欲しいくらいだ。実際、品川と比べればこの「工事」に似合う度合いがわかるはずだ。「品川工事」。ほら、これでは漫才コンビではないか。品川庄司(※5)、あるいはU字工事(※6)が先行しており、もともとは仲本工事(※7)という大先輩の印象がエンターテインメント界に燦然と輝いている。まあ途中から「仲本」の話になってしまっている。
 赤札堂(※8)も俺は忘れた。お世話になった渋いスーパー。近くに住んでいたというのに、引っ越した途端忘れるというのはもうネズミ同然の脳みそである。俺は赤札堂に親しむがあまり、「レッド」とさえあだ名を付けて呼んでいたのである。
「おう、レッド行こうぜ」
 家ではそんな風に言っていた。なんかもう十九世紀アメリカ西部の小さな居酒屋のようでもあり、そこの店主の愛称が店をあらわしているような具合である。ヒゲが赤い。
 だが忘れた。たぶんレッドなんて言ってたから思い出せなくなったのだろう。大安売りの赤い札のイメージは、レッドからはもはや出てこない。昭和は遠くなりにけりである。そして遠くしているのは俺なのであった。
 また、バーバパパ(※9)のことを俺はこれまでオバケだと思っていた。なんか風体がオバケのQ太郎(※10)めいているため、その分類に疑いを持たなかったのだ。だが赤ん坊を育てる段になって、そうした人気のキャラクターをきちんと知らねばならなくなった。実際は綿あめみたいな存在らしい。オバケだと考える方がはるかにまともだと、いまだに俺はどこかで感じている。
 それはともかく俺は、バーバパパのパパの絵が大きく入った服を着た我が子をかわいらしく思い、またあれを着るといいなと主張したくなった(ただし、パパの他にどんな家族がいるかは知らない)。そこでど忘れが起きた。出てきた言葉はこうであった。
「あの、なんとか言うオバケ、あれかわいかったよね」
 俺としては確実にバーバパパへのヒントであった。しかし今から考えれば、通常この空疎な描写ではまともなキャラは出てこないであろう。まさか番町皿屋敷のお菊(※11)でもあるまい。その「かわいかった」オバケの風情がこれではまったくよくわからない。第一、バーバパパがオバケじゃない以上、五里霧中だ。
 ちなみにそれまで俺は、バーバパパはオバケな上、理髪店を経営しているのだろうと思っていた。
 もうこれはど忘れではない。
 認知の歪みだ。


※1 引っ越し芸人高倉君:高倉弘樹。2006年に「たかくら伝説」として芸人活動を開始、10年以上続けている引越しのアルバイトの経験を活かし、数多くの著名人の引越しを手伝い、2010年に「たかくら引越センター」に改名。2012年軽貨物運送事業として、「たかくら引越センター」を開業。
※2 いとうせいこう is the poet:ダブポエトリーのユニット。いとう自身の小説や詩や演説などの一節を、即興音楽に合わせてその場で選びながら読んでいき、常にそれをダブ処理することで音と言葉を拮抗させる。通称:ITP。
※3 満島ひかりさん:女優。出演ドラマに『それでも、生きてゆく』『Woman』、映画に『愛のむきだし』など多数。
※4 実際には「虎ノ門ヒルズ」は銀座線ではなく日比谷線の駅名で、シルバーの車体が走っている。著者の脳内ではここも混線している。
※5 品川庄司:品川祐と庄司智春によるお笑いコンビ。
※6 U字工事:福田薫と益子卓郎による漫才コンビ。
※7 仲本工事:コメディアン、ミュージシャン。ザ・ドリフターズの一員。最近はYouTuberとしても活動。
※8 赤札堂:首都圏を中心に店舗展開している食品スーパーマーケット。
※9 バーバパパ:フランスの絵本作家アネット・チゾンとアメリカの絵本作家タラス・テイラー夫妻による絵本、およびそれらに登場するキャラクターの名前。仏語の「Barbe à papa」は「パパのひげ」を意味し、転じて「綿菓子」の意味もある。
※10 オバケのQ太郎:藤子不二雄とスタジオ・ゼロによるギャグ漫画。『オバQ』と省略されて呼ばれることも多い。
※11 番町皿屋敷のお菊:お菊の亡霊が井戸で夜な夜な皿を数える怪談話で、江戸番町が舞台。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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