鬼気迫るど忘れ書道

第5回

クラウン(エプロン)~金髪ブタ野郎

2021.05.03更新

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 どうだろうか?
 どうだろうかと聞いているのは、もちろん俺の頭脳のことである。
 もはや自分で判断出来ないと思うからこそ、こうして読者諸氏に出合い頭に質問している。
 どうなのであろうか、本当に?
 諸氏には最も右に書かれた「クラウン(エプロン)」をまずはじっくり味わって、その上で診断を下していただきたいものだ。
 俺はある時「エプロン(※1)」と言うべき局面を迎えたのである。しかしその四文字が出てこない。ど忘れした。いや、もう「ど」などといかにも厳しめに表現したふりで、実はおちゃらけて真実を隠す真似はやめよう。
 俺は長年使ってきた「エプロン」なるごく当たり前の言葉を「忘れた」。「失念した」。「忘却し」「立ち往生した」。「ほとんど泣きそうになった」。もはやカッコの使い方さえ不統一になっているわけだが、ともかく俺は自分でも情けなかったのである。
 しかし陪審員の皆さん! と、これは読者諸氏のことに決まっているわけなので付いてきて欲しいが、人は「エプロン」という単語を忘れた時、どのようにそれを再び探り当てるのでありましょうか?
 他に似た単語もない。そもそも語源がよくわからない。この連載において初のしっかりした行動だが、ウィキペディアで見てみると「英語のエプロン (apron) は、"a napron"(ナプロン)が "an apron" の綴りであるとの誤解が広まったために生まれた言葉であるが、語源となった言葉は現在は使われていない」とある。
 なに言ってるんだ、この文章は。何度か読まないとよくわからない。だいたい「ナプロン」とはなんだ。それを「アン・ナプロン」だと思う連中はなにを考えていたのか。そして語源ナプロンは今は使われていないという、見事なオチがついている。ナンセンス小話なのか、これは。
 というわけで、「エプロン」という言葉は一度見失ったらほぼ実態をたどり得ない謎の単語なのであり、俺が「クラウン(※2)」と身につけるものつながりの四文字をさかんに思い出したのもむべなるかなである。おいおい、「むべ」ってなんなんだ。
 ネットによればどうやら「むべ」は、あのイチジクみたいな味のあの果物「むべ」の語源だというのだが、なんでそれが果物ネームになったのやら、これも順番がよくわからない話なので再録はしない(※3)。めんどくさいから。しかしまあ、とにもかくにも「もっとも」というのが「むべ」の意味で、しかしここにも「一度見失ったらほぼ実態をたどり得ない謎の単語」は転がっていたことになる。
 それどころか、我々人間は「一度見失ったらほぼ実態をたどり得ない謎の単語」に囲まれて日々を生きているのではないか。にもかかわらず、いい気になってメシなどを食っては「このワインは土の香りがエクセレント(※4)だね」とか「牛丼うまし!」とかしゃべっている。エクセレントとはなんだ、牛丼とはなんなのだ。まあ牛丼は牛肉の丼か。わかるか、これは。エクセレントもわかるね。
 ともあれ、生活の周囲があれこれ謎の単語なのは俺の切実な実感でもあって、その中で単語をどんどん忘れながら会話などしていると背筋がヒヤッとしてくるのである。会話そのものが「一度見失ったらほぼ実態をたどり得ない」とわかるからだ。
 まあこの話はまたいつかしよう。俺が覚えているならば。
「広尾」を忘れたのもヒヤッとした。通っている鍼灸院があるので、アプリで家の最寄り駅から地下鉄を利用した場合の所要時間を調べようとしたのである。しかし出てこない。人生で何度降りたか数えきれない駅である。若気の至りで「ギロッポン・ヒロオな!」などとJB(※5)のパロディを録音して発売したことだってある(※6)(「get up,get on up」が元の歌詞だ(※7))。
 俺はすでに日比谷線に乗っていて少々焦り、さてどうやって思い出そうかと考えた。まず「六本木」と心の中で言ってみた。近隣の駅名のイメージが、俺の記憶の奥底のあの駅名を連れてくるのではないかと思ったからだ。そしてさらに俺は「恵比寿」とも心の中で言った。それでも出てこないので「六本木、んんん、恵比寿」と順番にやった。なんというか歯磨き粉の最後の一回分をラミネートチューブの前後を押すことでひねり出すがごとき感覚があった。
「六本木、んんん、恵比寿」
 俺はほぼ三文字であることを知っていたわけである。そんな感じの場所だ。だが六本木と恵比寿の間にある三文字とはなんだろうか。「寿司屋」か。正解は論理的にはまったく出てきようがなかった。最終的に電車が六本木駅構内に入る時、俺は首がねじきれるほど後ろを向き、ボードに次の駅名が書いてあるのを見た。そう、広尾であった。生き別れた親に会うような高まりが俺を襲ったが、その高まりはすぐに消えて残らなかった。
「フレディ・ペリー」もひどい話で、自分はフレッド・ペリー(※8)が好きなのであり、それもラフ・シモンズ(※9)とコラボした時が最高に近いのだが、それをあろうことか人前で「フレディ・ペリー」と言ってしまいそうになり、何かが違うと感じた俺は沈黙したのであった。
 だがいったん「フレディ・ペリー」と思ってしまうと修正のしかたがわからない。何度も頭の中で「フレディ・ペリー」と繰り返してみるうち、俺は大きくせり出してくるあの胸の月桂樹のマークの前に、ヒゲの、もっと言えば胸毛の濃い男が白いレオタード姿でちらちらと映り込むのに気づいた。フレディ・マーキュリー(※10)であった。それで俺は自分のど忘れの原因を知り、フレディさんには丁重にお下がりいただいて、後ろの「フレッド」を再確認した。ひやひやものであった。
「野ゼリ(※11)」も今では懐かしいど忘れで、まさに近所の小さな八百屋の店先に野ゼリが出ている頃のことであった。俺はちょっと先へ行ったところの肉屋のおやじにいい牛肉を切ってもらい、ステーキを食おうと考えた。何か付け合わせを途中のスーパーで買って帰りたいが、確か家の冷蔵庫には新ジャガがあったはずだった。それはゆでよう。トマトも残っていたから焼くのもよかろう。だがそうなると色合い的にも、緑色のアレが必要だった。
 答えを言ってしまえば「クレソン(※12)」なのだが、俺はその四文字が思い出せず、しきりに「野ゼリ」と考えてしまうのだった。なんか形状は似ているが、植物としてはおおいに異る。けれども「野ゼリ」という言葉の音はすさまじく強く、俺の頭から消えてくれない。繁殖と言ってよい生命力で、野ゼリは俺の脳の言語野を支配し、クレソンを追い払った。
 正直、クレソンを思い出したのは三日後で、当日の俺は「野ゼリ」「野ゼリ」と苦しい顔でつぶやきながらスーパーに行き、不思議なものでクレソンの売り場にたどり着くことが出来ずに緑の付け合わせをブロッコリーですませたものであった。クレソンにすればよかったと思うが、言葉が出ないと人はそれを探せないという好例であった。
「金髪ブタ野郎(※13)」は以前にも書にしたためたように記憶する。生後二ヶ月ほどのわが子の頭頂部の毛髪が春風亭小朝師匠(※14)を思わせるので、俺は妻にそれを言いたかったのだが名前が出てこない。かわって強烈に前面に出てくるのが「金髪ブタ野郎」なのである。それで俺はわが子を何度も「金髪ブタ野郎」呼ばわりせざるを得なかったし、その時に小朝師匠を脳裏に浮かべている分だけ師匠にも申し訳が立たなかった。
「金髪ブタ野郎」という言葉の、ぐいぐい前に出てくるそのパワーはあのフレッド・ペリーを忘れた際の白いレオタード姿の人物のそれに非常に近かった。なんというか「ポップである」とはこういうことなのかもしれないと俺は最終的に感心さえしたものである。


註の内容は、編集部にて作成しています。
※1エプロン: 衣服の汚れを防ぐため、胸からひざ、または腰から下を覆う洋風の前掛け。
※2クラウン:crown、英語で「王冠」の意。また、イギリス・ノーザンプトンで1984年にダンスシューズメーカーの名前。
※3むべなるかな:滋賀県近江八幡市の北津田町に残る伝説では、蒲生野に狩りに出かけた天智天皇が、この地で8人の男子を持つ健康な老夫婦に出会い、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と尋ねたところ、老夫婦はこの地で取れる珍しい果物が無病長寿の霊果であり、毎年秋にこれを食するためと答え、それを食した天皇が「むべなるかな」と得心したことから、この果物が「むべ」と呼ばれるようになったとされる。
※4エクセレント:excellent、英語で「優れている」の意。
※5 JB:ジェームス・ブラウン。アメリカのソウルミュージック、ファンク・シンガー。1933年生まれ、2006年没。
※6:1988年に発売され、著者も参加した中村ゆうじのFUNKY KING part1というレコードに収録されている。
※7:曲名は「Get Up (I feel like being a) Sex Machine」
※8フレッド・ペリー:イングランド出身のテニス選手が設立したファッションブランドで、月桂樹のロゴで広く知られる。
※9ラフ・シモンズ:ベルギー生まれのファッションデザイナー。数々の有名定番ブランドとのコラボレーションを発表している。
※10フレディ・マーキュリー:イギリスのロックバンド、クイーンのボーカリスト。1946年生まれ、1991年没。
※11野ゼリ:田のあぜや河川の土手などに自生する野生のセリのこと。セリはセリ科の多年草で、日本原産。春の七草の一つ。、西洋では食べる習慣はない。独特の強い香りには健胃などの薬効があると言われる。
※12クレソン:日本名はオランダガラシ(和蘭芥子)。水中または湿地に生育するアブラナ科の多年草で、ヨーロッパから中央アジアの原産。独特な香りと苦味・辛味がある。
※13金髪ブタ野郎:春風亭小朝の元妻でタレントの泰葉が、離婚記者会見で小朝のことをこのように呼び話題となった。
※14春風亭小朝師匠:落語家。1955年生まれ。俳優としてのドラマ出演も多数。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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『世界SF作家会議』が早川書房から発刊となりました!

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司会:いとうせいこう、大森望

(Hayakawa Onlineより)

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