鬼気迫るど忘れ書道

第13回

タッパー~クエンティン・タランティーノ

2022.01.12更新

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 新年になったのだが、昨年十二月の入稿を忘れていた。それでちょっと正月気分で書いている。とはいえ、赤ん坊が泣き気味なのでリビングにノートブックパソコンを持ってきて、そっちに適当に話しかけながらカチャカチャやっているというだけで、ど忘れの内容自体は実に渋い。そして病歴として重たい。

 そもそも「タッパー」を忘れるとはどうだろう。まずリアル過ぎる。ゆえに笑えない。
 しかも俺はこの単語をよく失念するのである(※1)。おそらく子供の頃には使っていなかった言葉だからであり、大人になっても自分ではあまり唇に乗せなかったからだ。
 だがそんなことを言ったら「CPU」(※2)もそうだし、「インディカ米」(※3)とか「年末調整」(※4)なんかも子供の俺は知らなかった。大人になって使うべき場面があっても、俺は「年末調整」の意味がよくわからなかったし、今も実はまったく理解していない。何を調整しているのだ、諸兄は。
 まあそれはともかくタッパーである。俺はこの言葉を忘れると、当然ながらまずその形状を思う。半透明で四角い。そしてフタが柔らかくやはり半透明か、あるいは赤とか黄色とかずいぶん派手な色をしている。俺は小さめのこれに炊いた米を入れて冷凍する役目を家では担っている。
 と、わりとイメージ豊かに俺は「○○」のことを脳裏に浮かべるのである。そして浮かべるからこそタチが悪い。「半透明で四角い」ものがあるべき名前を俺は逆算するように考える。あるいは「フタが柔らかくやはり半透明」であり、「あるいは赤とか黄色とかずいぶん派手な色をしている」ものはどう呼ばれるのが似つかわしいのか。
 まさか答えがタッパーだとは誰も思わないだろう。「半透明で四角い」のであれば、それは「磨りガラス」であったりするのだし、「フタが柔らかい」のであれば「牛乳瓶」であったりするからだ。そして俺の頭の中のイメージでそれは「磨りガラスのように固くはなく」、「牛乳瓶はそもそも四角くない」という否定が即座に立ち上がってくる。いや、だったらなんだというのだ、その「○○」は!
 こうして、自分と自分が戦うような具合になる。「○○」さえ素直に口に出来ればそんな自己否定の連続は生じ得なかった。しかしもはや誰にも止めることは出来ない。それは肉と肉、骨と骨をこすり合わせ、潰しあうような戦闘である。そしてすべての原因は「タッパー」をど忘れしたことにあり続ける。
 だいたいタッパーとはなんなのか。俺は「炊いた米を入れて冷凍する」際、断じてタップなどしていないのである。軽く叩く感じがタップだが、むしろタッパーでは何も叩かない。だから、その名が出るはずがないのだ。
 そして調べればタッパーは人の名前だというではないか(※5)! 無理だよ、それじゃ。「鉛筆」は鉛の入った筆記用具だから「鉛筆」なのであって、あれを例えば「トンボ」(※6)と名付けたら列島中に多くのど忘れが発生するだろう。そもそもこの例だと飛行する昆虫と混同するのは必至なわけだし。
 ということで俺はこの商品を売っている企業の創始者アール・サイラス・タッパーさんの顔を検索し、その太いメガネと白髪、強い目線を頭に叩き込んだ。これからは「タッパー」という単語を忘れる度に、この人の顔がまず浮かんでくるシステムだ。さて問題はその時、きちんと彼の名が出てくるかだ。
 人の名前と言えば、やはりアメリカ人のクエンティン・タランティーノ(※7)がかなり怪しい。もちろんタランティーノが怪しいのではなくて(まあ怪しいといえば怪しいのだが)、俺の記憶力がという意味だ。これまでもど忘れシリーズに登場していた可能性もあるが、そのこと自体を覚えておく能力を俺は持っていない(※8)。
 ともかくタッパーと同じく、イメージが出る。しゃくれたアゴだ。くしゃくしゃした髪だ。『レザボア・ドッグス』(※9)での悪漢ぶりだ。『パルプ・フィクション』(※10)だ。『キルビル』(※11)だ。『ジャンゴ』(※12)だ。『イングロリアス・バスターズ』(※13)だ。『ヘイトフル・エイト』(※14)だ。とまあ、そういうタイトルはわりと次々出る。
 しかし肝心の、どうしたって特徴的なあの名前が出てこない。出てこないのだが独特の調子というか、リズミカルな感じは喉の奥、ほとんど肺のあたりからムズムズと立ちのぼらんとするのである。再現すると「カカンカン・カカンカンカン」みたいな、「カカカカ・カカンカンカン」みたいなやつだ。
 名前を思い出す作業の中で、この「カ」がうまく「タ」に滑り込むと出るべきものが俄然出やすくなる。「タタンタン・タタンタンタン」、ほら!
 つまり「タタンタン・タタンタンタン」はほぼクエンティン・タランティーノに等しいのであり、なんならこちらはそれで決着とすることもやぶさかではないのだ。
 ともかくタランティーノの名前がリズミカルで本当によかった。思い出すすべがそこにあるのは、ど忘れ人としてひとつの称賛すべき安心である。
 なんだ、こうして今回はふたつの例で十二分に原稿を書いてしまった。ど忘れについて書き始めるとキリがないのは不思議なことだ。と、気付けばいつの間にか赤ん坊は、珍しくケージの中で自分からクッションにもたれて眠ってしまっているではないか。
 俺はその赤ん坊の存在をすっかり忘れていたのだった。


※1 この単語をよく失念する:2018年にもど忘れしている。その際の詳細は書籍『ど忘れ書道』150ページをぜひご参照ください。
※2 CPU:Central Processing Unitの略で、パソコンの頭脳とも言われるパーツ。
※3 インディカ米:世界のコメ生産量の80%以上を占めるイネの品種。
※4 年末調整:給与の支払者がその年最後に給与の支払をする際、各人別に、それまでその年中に給与を支払う都度源泉徴収をした所得税の合計額と、その年中の給与の支給総額について納付すべき税額(年税額)とを比較して、過不足額の精算を行うこと。
※5 タッパーは人の名前:アメリカのタッパーウェア社の製品として商品登録されており、その名は同社の創始者アール・サイラス・タッパーに由来している。
※6 トンボ:鉛筆、消しゴムなどの文房具を製造、販売する株式会社トンボ鉛筆のこと。
※7 クエンティン・タランティーノ:アメリカの映画監督、脚本家、俳優。
※8 ど忘れシリーズに登場していた可能性:2011年にもど忘れしている。書籍『ど忘れ書道』13ページ参照。
※9 レザボア・ドッグス:1992年のアメリカ合衆国の犯罪映画で、クエンティン・タランティーノが、監督・脚本・出演の三役を務めた。
※10 パルプ・フィクション:クエンティン・タランティーノが監督した作品で、アカデミー賞では脚本賞、カンヌ国際映画祭ではパルム・ドームを受賞した。
※11 キルビル:監督・脚本をクエンティン・タランティーノが務めた二部作映画。
※12 ジャンゴ:『ジャンゴ 繋がれざる者』。監督・脚本をクエンティン・タランティーノが務めた西部劇映画で、アカデミー賞脚本賞を受賞。
※13 イングロリアス・バスターズ:監督・脚本をクエンティン・タランティーノが務めた作品で、第二次世界大戦を題材にした復讐譚。
※14 ヘイトフル・エイト:監督・脚本をクエンティン・タランティーノが務めた作品で、猛吹雪の中の家屋に閉じ込められた8人の密室劇。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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