鬼気迫るど忘れ書道

第4回

アメリカン・ベースボール~小室哲哉

2021.04.03更新

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 もし俺が今コロリと死に、妻がすかさず呆れて家を出て行ったりしたら、このスケッチブックを見つけた警察は何を考えるだろうか。
 どう推測してもこれはまともなメモではない。そもそも筆ペンでしっかりと書かれているわけで、強い意思のような何かに満ちているのだ。だが、その強さに比して内容がなんともアレである。
 家に老練の刑事まで出向いてきたあげく、ひとまず結論はこうなるのではないか。謎だらけのダイイング・メッセージ・・・。今回はそれを俺はあなたと一緒に読み解きたい。
 中央に「アメリカンベースボール」と書いてある。位置的に見てもこの行は早い時期に書かれたものであろうが、それにしてもなんなのだ、アメリカンベースボールとは。
 いやまあ意味は読んで字のごとくだろう。アメリカ野球である。ここに読み違いは生じようがない。つまりメジャーリーグ(※1)というやつなのだが、死者(俺)はおそらくメジャーリーグなどという呼称を使いたくなかったのではないか。そこが謎の核心だろう。
 このへんの呼称問題はJラップ界でもよくある形で、「アメリカのラップ」などと言うと鼻で笑われる。やはりそのへんは「USのラップ」と称してナンボらしい。俺などは逆になぜ政治体制である「連合国」のところをわざわざ切り取って呼ぶのか、むしろ語源である探検家アメリゴ・ベスプッチ(※2)の部分を強調して堂々と「アメリカのラップ」と言いたいところなのだが、そういう歴史重視派は流行らないらしい。
 そういう伝で、死者(俺)はメジャーリーグ・・・面倒なのでこの設定はここですっぱりやめたい。要するに俺(生者)は「メジャーリーグ」という言葉を忘れたのである。それでどう思い出そうか苦闘するにあたり、当然かの地のことを考えた。アメリカである。で、イメージの中で人々がやってることと言えば、芝生か赤土の上で球を投げたり打ったりである。それが野球でなくしてなんだと言うのか。
 だったら「アメリカンベースボール」に違いないじゃないか、と俺は生きながら結論づけたわけである。だが、どう口の中で転がしてみても(その転がりの軌跡はあたかもポテンヒット(※3)の球のようだったと言う)それは俺が切実に思い出したいやつと違った。
 それで俺は記憶を取り戻す前に、おもむろにスケッチブックを取り出して「アメリカンベースボール」としたためた。違う方のやつ、正解が思い出せない不正解の方を。それはつまりあからさまな逃避であった。ものすごく簡単な正解が、俺の腐った頭に浮かんでこないことから逃げ去るその速さたるや、あたかもホームラン級の鋭い当たりをかつてイチロー(※4)が激走して捕球したかのようだったと言う。「言う」とか言ってるが、さっきから誰の伝聞なのだろうか。
 それはともかく、答えである「メジャーリーグ」というのも改めて考えればなんなのか。アメリカ国内での呼び名に過ぎないものを世界化している夜郎自大(※5)な感じは否めない。むしろ海の外では「アメリカンベースボール」と正しく呼んでしかるべきではないか。セリエA(※6)にも、プレミアリーグ(※7)にも俺はそもそもそういう違和感をかねてから覚えている。「USラップ」という呼び名にもだ。
 さて、その下あたりに「豚の肉の焼き肉」と書いてある。これなど一度はやめたはずの設定である「ダイイング・メッセージ」としてのど忘れ書道の、そのダイイング性みたいなものを強めにまとってはいないか。もしあなたが誰かの死に思いがけず立ち会い、そこに死者の書いた文字「豚の肉の焼き肉」がハラリと落ちていたら・・・。
 ちょっとバカっぽい文章だなとあなたは思うかもしれない。もういっそ「豚の焼き肉」でいいのではないか、「肉の」の部分が冗長なのだと。しかし諸君、と対象がやにわに広がったのはこの路線に手応えを感じたからであるが、もしここに(ええと、「ここ」というのは死者がいた密室とします。むやみな緊張感を演出するため、是非そうさせて欲しい)「豚の焼き肉」などと無駄のない言葉がスケッチブックに書かれていたら、それはお買い物メモに過ぎない。というか正確に言えば夕飯のイメージメモであり、それをもとにお買い物が遂行されるのであろう。
 それがなぜか「肉」を重ねて「豚の肉の焼き肉」と文字は書かれてある。被害者は(少し踏み込み過ぎたが、もうここは「被害者」にさせてくれ)この不自然な言葉にこそ犯人のヒントを残したとしか考えられないのではないか。ただし、たまたまその密室で同時に日本語の授業があったとして、この一連の単語のつながりがなぜ駄文であるかを言うのは難しい。「それでもいいのではないか」と粘られれば、実は俺も最終的に受け入れざるを得ないのである。せめて「豚の肉」のところを「豚肉」とつづめてくれさえしたら。あるいはさらに「豚肉の焼いたもの」として、最後の「肉」部分をまるで頬張るように密室空間で隠してしまえたら。
 ちなみに「豚の肉の焼き肉」とは、サムギョプサル(※8)が出てこない俺の必死の表現であったことを記しておく。
 俺は最も右に「生き返り」とも書いている。そして、このど忘れこそが事件の匂いを醸し出したのかもしれないのだが、なんということもない、俺は「よみがえり」と言いたい時に、その言葉をど忘れしたのである。そして思い出せなくなった。それでさかんに相手に「生き返り」と繰り返したのである。
 ここで何を言いたいかというと、別に「生き返り」でも話は十二分に通ってしまい、ただ相手に「この人はあまり文学的ではないな」と内心思われてしまう、いわば恥だけが消えない微妙なケースだということである。
 例えば「魂のよみがえりを信じる部族」と言いたい時、「魂の生き返りを信じる部族」と表現するとだいぶ稚拙な感じになる。身体ならまだしも魂は生き返ったりするものだろうかと、相手は魂そのものの定義から始めたくなるのではないか。要するにその時「魂の生き返り」が必要なのは、まさに俺だったということになろう。
 左に目を向けると「カブトムシのあの人」と、いくらなんでもこれはないだろうという書道が目立つ。小さい字でもなぜか目に入ってきてしまうのは、カブトムシのせいなのか。それとも「あの人」という余韻めいた言葉ゆえなのか。
 ここでAIKO(※9)のど忘れだろうと直感した人は平成生まれではないかと思う。昭和的な答えは哀川翔(※10)であった。カブトムシ飼育になみなみならぬ熱意と知識と愛を持った素晴らしい人物である。なのに、俺はその人の名をうっかり忘れた。そして「Vシネ(※11)のほら、あの人」などと言えればいいものを、どうしても脳裏に濃く出てきたのがカブトムシの方であった。
 となると香川照之(※12)ならば「カマキリ」になるのだろうか。古典芸能が好きだと称している俺はその瞬間、「市川中車」という歌舞伎の名跡をも失念しているのだとしたら、生涯かけて蓄積してきた知識というのは一体なんのためにあるのだろうか。
「小室哲哉」(※13)が出てこないのにも落胆する。まさに俺の時代の寵児ではないか。なぜか御本人のトークショーに指名されて司会として出たこともある俺が、なぜうっかりしたかと言えば俺は同時に「小室直樹」(※14)の時代にも生きてきたからで、「小室」とうっすら思い出しかけてもこの評論家の強烈な存在感が「哲哉」を消しがちになってしまうからだ。
 つまり俺が多感だったのは、二人の小室の時代だったのだとも言えるだろう。
 わりとしんみりしたような終わりになった。ダイイング・メッセージの件はどうなったのだろうか。


註の内容は、編集部にて作成しています。
※1メジャーリーグ:正式にはメジャーリーグベースボール。アメリカ(29球団)とカナダ(1球団)に本拠をおく30球団からなる世界最高峰のプロ野球リーグ。
※2探検家アメリゴ・ベスプッチ:コロンブスと同時期の大航海時代にアメリカを探検し、そこがアジアの一部ではなく新大陸だと主張、彼の名にちなんで新大陸に「アメリカ」という地名がついたといわれる。
※3ポテンヒット:野球において、打ち上げられた力のない打球が野手と野手の中間に落ちるヒットのこと。
※4イチロー:本名、鈴木一朗。元プロ野球選手で、日米のプロ野球で大活躍した。プロ野球における通算安打世界記録保持者。
※5夜郎自大:自分の力量を知らずに、いばっていること。
※6セリエA:イタリアのプロサッカーリーグ。20クラブによるリーグ戦がおこなわれている。
※7プレミアリーグ:イングランドのサッカーリーグ。正式名称はザ フットボール アソシエーション。20クラブによるリーグ戦がおこなわれている。
※8サムギョプサル:豚のバラ肉を焼いて食べる韓国の焼肉のこと。「サム」は数字の3、「ギョプ」は層、「サル」は肉を表す。
※9 AIKO:正確にはaiko。女性シンガーソングライター。代表的な曲に「カブトムシ」「花火」「ボーイフレンド」など。
※10哀川翔:俳優、タレント。1984年、「一世風靡セピア」メンバーとしてレコードデビュー。その後、Vシネマに多数出演、『ゼブラーマン』等、100本以上の映画で主演。カブトムシ愛好家としても知られる。
※11Vシネ:ビデオシネマの略で、劇場公開を前提としないビデオ専用の映画のこと。
※12香川照之:俳優、歌舞伎役者。歌舞伎役者としては九代目 市川中車を名乗る。ボクシングファン、昆虫好きとしても知られ、NHKの『香川照之の昆虫すごいぜ!』ではカマキリの着ぐるみを着て「カマキリ先生」とも名乗っている。
※13小室哲哉:自身の音楽ユニットTMNETWORKとして活動したほか、プロデューサーとして数々のミリオンセラーを生んだ。なお書籍『ど忘れ書道』p126~128では、略称の「TK」だけが思い浮かんで本名を思い出すことに苦闘している。
※14小室直樹:社会学者、評論家。著書『ソビエト帝国の崩壊』でソ連の崩壊を10年以上前から予言していた。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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