鬼気迫るど忘れ書道

第9回

森山未来~DHA

2021.09.03更新

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 この頃は人と話す時、自分のコミュニケーション能力に完全な諦めをもって臨んでいる。絶対にひとつは固有名詞を失念するのだし、その固有名詞を思い出すためのヒントを言おうとして果たせない。
 つい一昨日は古くからの知人であるテレビディレクターと話していて、勝手なキャスティング案で盛り上がりそうになり、俺は森山未来(※1)と言おうとしたのである。だが、あの才能豊かで印象的な人の名前が出てこない。
 そこでヒントとして、最近KAAT(神奈川芸術劇場)で観た素晴らしい岡田利規(※2)の新作能のことを参照しようとした。『挫波』『敦賀』と二作あるうちの前者に森山さんは出ていて、さすがのダンスを見せる。つまりその舞こそが能のシテの最大の見せ所なわけだが、コンテンポラリーなダンスを独特の間で行う彼は観客の視線を吸い込んで動くかのようだったのである。
 しかし「こないだのKAATのさ、あの、あの彼の新作能の」と、すでに岡田利規が出ないのであった。あれほど才能豊かで印象的な舞台しかやらない人の、他にも幾つも舞台を観ている相手の名が出ないとは何事だろうか。
 新作能は二作あったので、もうひとつの『敦賀』の方のヒロイン(能ではシテ)であった石橋静河さん(※3)の舞も実に頭に残るものだったから、そっちから攻めていく手もあるにはあったが、俺は自分が絶対に「石橋静河」と言えないだろうとわかって撤退した。
 それで早送りでいやいやながらチェックしたことのある東京オリンピック開会式での、そこは目を引いた森山未来のダンスのことを言った。「あ、じゃあオリンピックで踊ってたじゃん、一人で、あの人だよ、あの人」というようなことを俺は説明したわけだが、横にいたマネージャーが冷静な口調で「開会式で踊った人はたくさんいると思いますが」と俺をたしなめたものである。そりゃそうだ、たいていの開会式は「入場」と「踊り」で出来ていると言っても過言ではない。
 あきらめきれない俺はクドカン(※4)のオリンピックの大河ドラマ(※5)のことにも触れようとしたのだが、「クドカン」はかろうじて言えても意外なことに「大河ドラマ」の方が言えない自分に衝撃を受け、そもそもなぜ森山未来のことを言及したかったかさえ忘れて、食べていたハヤシライス弁当のスプーンを見つめたまま、しばしじっとする始末であった。
 その時、自分が電気ショックを受けたマウスになったみたいな気がした。つまりあの悲しいネズミの物語、記憶を失っていくやつ、「なんとかは、なんとかに」、いや違う「なんとかなら、なんとかしよう」、あ、それじゃ「幸せなら手をたたこう」だな。ええと、あの、あ、『アルジャーノンに花束を』(※6)だ! だったら「なんとかになんとかを」ではないか、俺! ともかく俺の脳はこのように、ひとつのことを言おうとすると五つ以上のものを忘れるといった状態に陥っていた。
 つまりもう話さない方がいいのである。話すだけ恥をかく。話すならヨソへ行って、他の人とやってもらえないものだろうか。
 さて他にも、スケッチブックに大書してある通り、俺はあろうことか人前で「ノーセックス」と言ってしまった。いやセックスレスとかそういう話題の中でならいいのだが、俺が言いたかったのは「ユニセックス」(※7)なのである。男だとか女だとか、あるいはそのどちらでもないとか、そういったことをすべて含めて「ユニセックス」と言うべき流れの時(子供服の話をしていた)、俺にはそれを「ユニ」とひとつにまとめるべきかどうか疑問があったのだと思う。なんかそれはそれで雑な呼び方なんじゃないだろうか、では「いち」がダメならとなって、俺の無意識はあわてて「ゼロ」を取った。
 しかし、だからといって「ノーセックス」はないような気がする。
 また他にも、俺が大好きなルンバ(※8)、出来る限り長いこと部屋から部屋へと移動していて欲しいあの掃除機、あまりに仕事に厳格なイメージゆえに我が家で「軍曹」と呼ばれているあの丸いやつの名前を俺は見事に忘れた(前も名前を思い出せなくなったように思う)。これは驚くべき事態ではあったが、しかしあとからよく考えてみると前回書いた「ペッパーくん」のパターンである。
 白いペッパーくんがなぜ赤い唐辛子の名前で世に出ているのか。そういうことだから我々「ど忘れ人」(ここは是非「にん」と読みたい。素浪人とか渡世人とか、なんか少しやさぐれた旅人の感触がいいではないか)がど忘れしてしまうのだ。なにしろ「ど忘れ人」にとってど忘れは宿命(「さだめ」と読みたい)、ど忘れは命(なんならこっちも「さだめ」と読むのが演歌体質だろう)だから、ちょっとでも相手に忘れる要素があればすかさず忘れる。むしろ忘れない方がどうかしているわけなのである。
 で、あの冷徹に部屋の角を攻め、机の足には何度も別方向からのアプローチをし、ともすればいったん自ら充電をして再び任務に赴く「仮称・軍曹」、見れば黒々としていてヨロイを着込んでいるかのような円形の家電が、思い出してみれば思いもよらないキューバ生まれの、ちょっと大人っぽいラテンミュージックの名を冠されているなど信じられぬことではないか。
 ルンバは、社交ダンス界では確かにタキシード感が強いものの、音楽自体としてはもっと妖艶な色使いのイメージではないだろうか? もしルンバという音楽にふさわしい「ルンバ人(にん)」がいるとするなら、例えば白い帽子とかかぶって、胸元を大きく開けた白シャツ、けれどもなぜか虹を模したかのような七色の細い布を手にもって振っていかねない。なんなら靴は真っ赤だ。そういうアダな色合わせは溜めのあるリズムの多彩さからもおそらく来ていて、もしも友だちで「ルンバ」というあだ名のやつがいたなら、そいつは白いドレスシャツの下に赤いベルトなどして、待ち合わせの銅像の前に確実に軽く腰を動かしながら立っているであろう。
 それがまさか赤いランプで自己の位置を確認などしながら、人の足元をすーっと抜けていく忍者じみた掃除機の名だとは・・・。お願いだからせめて俺の想像する「ルンバ色」の機種が欲しいものである。
 なんか片一方にオットセイのヒゲみたいな黒いハケが付いていて、それで思わぬホコリを掻き出してくれる姿は確かに頼もしいのだけれど、そのヒゲもどうせなら紫とか金色ではダメだろうか。動いている間中、かすかにでいいからルンバの名曲を機械が口ずさんでいてくれてもいい。それなら「ルンバ」は押しも押されもせぬ「ルンバ」である。ど忘れ人の俺もさすがにど忘れ出来ない、部屋で一番に目立つ、こちらもエスコートされざるを得ない家電になるのではないか。
 岡本喜八(※9)は大好きな映画監督、もしかしたら日本人映画監督で最も好きかもしれない方なのだが、それでもなんだか俺はその名前をど忘れしてきた。だがしかし、今回はちょっとニュアンスが違う。
 なぜなら二週間くらい前から質のいいDHA(※10)が入ったカプセルを飲んでいるからで、すると今まで忘れるとほとんど出てこなかった「岡本喜八」という大事な四文字が数分で出てくるようになったのである。
 同じことは上野駅でも起こった。東北取材で新幹線に乗ろうとした俺は、いつものように何度も何度もチケットの席番号を確かめようとし始めたのだが、何度見ても「9号車3A」という記号がすでにバシッと頭に入っているのである。そのうち、チケットの方から「おい、もう見るなよ」と言われているような感じさえし、俺は驚いた。
 自分が席番号を覚えているだなんて!
 さて果たしてそれがマグロの一成分による変化なのかどうか、これについては半年ばかり様子を見なければなるまい。なにしろ俺は同時に「ノウゼンカズラ」(※11)を忘れ、「EXILE」(※12)をどうしても「トライブ」(※13)と言ってしまい、その前奏曲の美しさに心を奪われている「ドビュッシー」(※14)が言えなくなり、といった日常を相変わらず暮らしているからである。
 それどころか本当のことを言えば、肝心の成分「DHA」を忘れがちなのだ。このへんに関してはアルファベット三文字が同じように苦手なみうらじゅん氏とも自主ラジオ『ご歓談』(noteにてアップ中)で長々と話しあった。Dから来る三文字なら「DDT」(※15)が強烈過ぎて、我々はその呪縛から逃れられない(あの白い粉をかけられたことはないのだけれど)。
 

※1森山未来:俳優、ダンサー。1984年生まれ。映画『モテキ』などに主演。ダンスでは海外でも活躍し、東京2020オリンピックの開会式でもダンスを披露した。
※2岡田利規:劇作家、演出家、小説家。劇団チェルフィッチュを主宰し、ドイツを中心に海外でも活動している。
※3石橋静河:女優、ダンサー。主演作に映画『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』などがある。
※4クドカン:脚本家、俳優、ミュージシャン等、多方面で活躍する宮藤官九郎の愛称。
※5オリンピックの大河ドラマ:宮藤官九郎が脚本を担当した「いだてん〜東京オリムピック噺〜」のこと。
※6『アルジャーノンに花束を』:アメリカの作家ダニエル・キイスによるSF小説。作中、ハツカネズミの「アルジャーノン」は脳手術を受け、一時的に知能が発達するが、徐々にその知能が失われていく。
※7ユニセックス:男性、女性の区別のないことで、とくに衣服について用いられる。
※8ルンバ:世界シェアで1位を占める、アイロボット社のロボット掃除機。
※9岡本喜八:映画監督。主な作品に、『日本のいちばん長い日』『大誘拐』など。
※10 DHA:ドコサヘキサエン酸。内で合成できない不飽和脂肪酸のひとつで、脳の神経細胞の情報伝達をスムーズにする働きがあるとされる。
※11ノウゼンカズラ:つる性の植物で、夏から秋にかけて赤色の大きい花をつける。
※12 EXILE:日本のダンス・ボーカルグループ。
※13トライブ:部族を意味する言葉で、EXILEをはじめとした関連グループの総称としてEXILE TRIBEという呼称が使われている。
※14ドビュッシー:フランスの作曲家。伝統から外れた音階と和声の用い方が特徴。
※15 DDT:かつて使われていた有機塩素系の殺虫剤、農薬。

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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