本のこぼれ話

第9回

絵本編集者、担当作品本気レビュー③「『声を聞き合う』から始める希望」

2023.02.25更新

2023年2月22日、GEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーさん、絵本作家の荒井良二さんによる絵本『みんなたいぽ』を刊行しました。装丁は名久井直子さん、編集は筒井大介さん。筒井さんとは、これまで『てがみがきたな きしししし』(網代幸介・作)や『よるにおばけと』(みなはむ・作)でご一緒してきました。ミシマ社と筒井さんとで絵本を刊行する際の恒例となりつつある筒井さんの「本気レビュー」。今回も、生々しい文章が届き、熱い気持ちがこみあげました。ぜひじっくりとお楽しみください。(ミシマ社編集チーム・ノザキ)

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 書けない。本当に書けない。書いても書いてもつまらなくてピンとこなくてボツにしてしまう。ミシマ社から担当本が出るたびに書かせていただいている「編集者の本気レビュー」、今回のお題は発売したての『みんなたいぽ』。パンクバンドGEZANのフロントマン、マヒトゥ・ザ・ピーポーさんが初めて書いた絵本で、絵はなんと荒井良二さん。本当にすごい絵本が出来た。だから書けない書けない言ってないで、その絵本がどんな風にすごいのか書けばいいだろうと思うのだけど、なぜか書けない。困った。担当の野崎さんに「本気レビュー、2月17日締切でいかがでしょう?」と打診されて「がんばります!」と返信したのが1月の半ば頃。そこから矢のように日々は流れ、これを書いているのは、2月20日。野崎さんに平謝りしつつ締め切りを延ばしてもらい、もういよいよ追い詰めれられてきたのだけど、なかなか捗らない。それでも書かないことには始まらないので、半ば開き直って「書けない」ということを書いてみているという訳だ。

 なんでこんなに書けないのか。それはおそらくこの『みんなたいぽ』が今までにない絵本だからじゃないだろうか。絵本編集者という仕事柄、人より絵本は読んでいる方だろうが、こんな絵本は読んだことがない。そもそも、タイトルからして謎だ。「たいぽ」って? と、ここまで書いてみて、この原稿を勧めていく糸口が見えた気がする。キーワードは「希望」だ。このタイトルの理由はそれぞれに解釈してもらえたら良いので敢えて触れないが、「たいぽ」は絶望を希望に転化する言葉だと思う。

 絵本は、子どもの本(敢えてこういう言い方をする。子どもから大人まで読者対象は限定しないが、「子ども」は外せないからだ。自分が大人のためだけに絵本を作ることはない。絵本はだから面白い)は、最終的には「希望」を提示しなければならない。こうやって打ってみると思った以上に恥ずかしいし、自分がこんなことを言うようになるなんて思わなかった。2002年に絵本編集者になって以来、とにかく面白い絵本を作りたい、想像力の限りを尽くして、読者を楽しませたい。そんな気持ちでやってきた。自分が絵本に求めるのは「自由」だ。メッセージなんていらないし、ましてや「希望」だなんて。そんなのは大人のエゴだ。こちらが面白いと思うものを全力で作り、子どもたちに「どうだ」と提示する。それを楽しんでもらえたら最高だ。ずっとそうやって絵本を作ってきた。それが、揺らいだ。「それだけじゃもうだめだ」という思いに最初は気づかないふりをして、今まで通りに絵本を作ろうとしたけれど、だめだった。このままじゃ絵本を作れなくなる。そんな危機感さえ覚えた。

 きっかけは、2011年の東日本大震災だった。自分が如何にぼんやり生きてきたのか思い知った。それまでは、日々色々としんどいこともあるけれど、こんな感じで日々が続いていくもんだと考えていた。果てしない日常をやり過ごしているうちに、年老いていくんだろうと。その間に、面白いことが出来たら良い。そう思っていた。今思うと、なんて甘く、浅はかなんだろうと苦笑してしまう。日常はかくも簡単に断絶する。そんな光景をこれまでも見てきた筈なのに、何も分かっていなかった。あの時感じた不安は今も自分の感情のベースになっていて、日々感じる「嬉しい」も「楽しい」も、その不安の上に立っている、そんな感覚がずっと消えずに、今も時折り顔を覗かせる。当時東京在住でとてもじゃないが「被災した」なんて言えない自分ですらそうなのだから、東北にいて被災された方の不安や絶望なんて到底想像しきれない。訳知り顔で分析なんてしたくもないが、日本で暮らす多くの人達の心のありようが変わってしまった。そんな気がしている。

 その後も頻発する自然災害がさらにその不安を増幅させる。さらに新型コロナウイルスのパンデミック。挙げ句に新しい戦争まで始まってしまった。その中で、税金は上がり、社会保障は削られていく。この十数年の間に、この国は、世界はこんなにも生きづらくなってしまった。そんな世の中で「自由」を提示することは確かに有効だろう。尚更求められる、とも言える。だからこそやらなきゃいけない。でも一方で、世界をこんなにも生きづらくしてしまった責任の一端を負う大人として、単に「自由」「面白い」を追求し提示することは無責任に過ぎるのではないだろうか。そんな気持ちが日に日に大きくなっていった。子どもの本は今こそ「希望」を提示するべきじゃないか。だからってどうしたら良いのか分からない。根拠のないことは言えない。「明日は良くなる」って言えるなら言いたいけれど、それこそ無責任というものだ。この絶望したくなるような世界と真正面から向き合い、取っ組み合った上で差し出される「希望」でないと、説得力がないのではないだろうか。「自由」「面白い」を実現するために使ってきた想像力を、さらにその先にある「希望」を見出すために使うべきなんじゃないか。そう思い至った。で、そんな絵本をどうやって作ろうか。この何年も、そのことを考え、試行錯誤している。

 「なんで、マヒトゥ・ザ・ピーポーで絵本なんですか?」この絵本を出すことが決まってから、色々な人にそう聞かれた。まあその気持ちもわからなくもない。パンクバンドのフロントマン。一見「絵本」というものに接点がないように思えるマヒトゥ・ザ・ピーポーという人に、なぜ絵本を頼んだのか。それはまさにさっきまで上で長々と書いてきた自分の個人的な危機感によるものだ。マヒトさんほど、今という時代に向き合い、取っ組み合って、生傷を作りながらこの絶望の先にある光を見出そうとしている人はなかなかいないと思う。こんなことを言うと語弊があるかも知れないが、僕は絵本編集者であり、これからもずっと絵本を作り続けたいと思っているけれど、「絵本作家」とだけ仕事をしたいわけではない。昔から他ジャンルで活動している人や、絵本を作ったことのない作家と仕事をすることが多かったが、近年ますますその機会が増えている。ジャンルなど関係なく、この時代と正面から向き合い、取っ組み合って何かを作り出す人。そういう人たちと絵本を作りたい。だから、マヒトさんに絵本を依頼するというのは自分としてはとても自然なことなのだ。

 マヒトさんは「光」という言葉をよく使う。著書『ひかりぼっち』にも「戦うときは光で武装するんだ」という言葉が出てくる。GEZAN with Million Wish Collective名義で発表された新譜『あのち』にも「怒りと光 共存できる」(誅犬)というフレーズがある。GEZANの音楽は一聴すると激しいし、マヒトさんも全身真っ赤な出で立ちで、とっつきにくさを感じる人もいるかも知れない。でも、その表現は常に光に向かっている。誰よりも、この絶望したくなるような今に向き合い、時に怒りながら、その先の光を希求している。だからこそ「この人と絵本を一緒に作りたい」と思ったのだ。

 そろそろ『みんなたいぽ』の話に入ろう。マヒトさんからこのテキストが届いた時の驚きは忘れられない。凄いのが届いたな......と読んでしばし呆然とした。ぬすみ、放火、暴力......様々な「わるいこと」をした人たちをおまわりさんが逮捕していく。「ろうやではんせいしなさい」、その言葉と共にどんどん捕まえていくのだが、徐々に様相が変わってくる。ひどい言葉でひとを傷つけた「かのじょ」は、「ろうやではんせいしなさい」というおまわりさんにこう言う。「でも そのかわり、ことばも たいほしてください。わたしが ろうやに はいってるあいだも ことばが だれかを きずつけるでしょう」。おまわりさんは言葉を逮捕する。そうやって、おまわりさんは、色や音、そして台風までもを逮捕していく。テキストを読みつつ鳥肌が立つ。これはこの世界で起こっていることそのものじゃないか。例えばSNSを開くと、そこには無数の言葉が溢れている。そしてその言葉は、自分たちの正しさを、そして相手が如何に間違っているかを主張するために機能している。誰も相手の言葉を聞いていない。これはコミュニケーションではない。そのことが、とてもシンプルに、なおかつ普遍性のある寓話として提示されている。詩や小説を読んで、マヒトさんが優れたストーリーテラーだということは知っていたつもりだけれど、初めての絵本でこんなお話を作るとは想像していなかった。

 全てを逮捕する。その行為だけを見ると、「なんだか怖いお話だな」と感じるかも知れない。でも、テキストを最後まで読んで、これは解放だと感じた。おまわりさんは、やがて全ての人間を逮捕し、最後には自分自身をも投獄する。牢屋の中は、数え切れないくらいの人や言葉、色や音でもうぎゅうぎゅうだ。台風までいる。否応なく、相手との距離が近くなる。そうして皆は、お互いがお互いの近くで、「いままで したことないくらい」声を聞くことになる。一方的に相手にぶつけるのではなく、聞きあったのだ。そうすることで、やがて皆はとけあい、1つの球体になる。全てが混ざりあった、まだ名前のない球体。テキストを読んだ時、この結末に呆然としつつ、解放感を感じる自分がいた。

 言葉も、色も、音も、ただ「そのもの」として存在することが出来ない。何かの文脈の中で意味を背負わされ、「良い」「悪い」などの価値観と共にこの社会の中で存在する。自然現象もそうだ。台風にビルや家を壊されて困るのは人間の都合であって、台風自身には関係のないことだ。台風は単なる自然現象だ。言葉は言葉でしかないし、色は色でしかないし、音は音でしかない。良いも悪いもない。でも、もはやそんな風には存在できない。人間だってそうだ。意味や価値観から解放されて存在出来るのは、生まれてから数年くらいのものではないだろうか。僕らは程度の差はあれど、どこかの知らない誰かが作った価値観に縛られて、意味を背負わされて生きている。そう考えると、もしかしたらおまわりさんが逮捕したのは、皆を縛り付ける意味や価値観なのではないだろうか。あらゆるものを逮捕し投獄したその牢屋の中には、つまりもうひとつの世界が存在することになる。やがて全てはとけあい1つの球体となる。地球を思わせるその球体には、しかしまだ名前がつけれていない。地球であることから解放された、名もなき球体。これは、つまり再生の物語ではないだろうか。全てから解放されて、もう一度、名もなき球体からやり直す。そうやって、世界は、僕らは再生するのだ。それは、マヒトさんの、未来に対する切なる願いにも思える。

 さて、次は絵の番だ。この世界を、どんな風にビジュアル化するか。絵本を読むとわかるかも知れないが、絵を描くのがものすごく難しいテキストなのだ。大体、この世界がどういうものかも示されていないし、言葉や色、音を逮捕するって言われても、それってどう描くの? と、次から次へとクリアすべき課題が続出する。おまわりさんがあらゆるものを逮捕していくというその行為自体をそのまま描いてしまうと、とても生々しい印象にもなってしまいかねない。絵を描く人にとって、難題が山積みのテキストでもあるのだ。

 「荒井良二さんどうですか?」。マヒトさんのその提案に「なるほど......!」と膝を打った。確かに、荒井さんならこの世界を見事にビジュアル化してくれるに違いない。おまわりさんが逮捕していくという、ともすると生々しい印象になってしまいそうな設定も、普遍性のある表現でクリア出来そうだ。荒井さんが描いてくれたら間違いない。そう確信しつつ「でも......」と逡巡する自分もいた。当時、自分は荒井さんと『こどもたちはまっている』という絵本を進めている真っ最中で、いよいよ刊行も迫り、ラフを描いてもらわなくてはいけない、という切羽詰まった状況だったのだ。(いやいや、このタイミングで荒井さんに別の仕事を頼むなんて考えられないっすわ......)(でも、荒井さん描いてくれたらいいなあ)『こどもたちはまっている』編集担当としての自分とマヒトさん絵本の編集担当としての自分の正直な気持ちがないまぜになり、どうしたもんかなあと考える。でも、今回の絵本のことを考えると、荒井さんにお願いするのがベストだ、ということはもうわかっていたので、その感覚に従うことにした。どんな状況でも、その本にとってのベストを尽くすのみだ。

 「マヒトゥ・ザ・ピーポー、知ってるよ。音源も持ってる。やるよ」。『こどもたちはまっている』打ち合わせのあとに、おそるおそる切り出した僕に、荒井さんは即座にこう言った。テキストも読まずに引き受けたことに驚きつつ、(最高の絵本になるぞ)と心の中でガッツポーズをする。それが2020年1月のことだった。それから約2年半の時を経て、完成した絵を見て「荒井さんにお願いしてよかった......!」と心底思った。どんな絵かを説明しだすとキリがないので、絵本を開いてみて欲しい。ラフ制作の過程で何度か打ち合わせをしたが、とても刺激を受けた。世界観やキャラクターだけでなく、細部の演出に至るまで、この15見開き32ページの中に、「絵本を作る人」としての荒井さんの思考と技術が満ち満ちている。荒井さんのお陰で、この絵本は幅広い年代の人たちそれぞれに響く、そして、未来の子どもたちにも届きうる普遍性を獲得した。自分の中の『こどもたちはまっている』編集者に押し切られずに、この絵本にとってのベストを貫き通して本当に良かった。出来上がった絵本を見返すたびに「これ、荒井さんにしか描けないわ......」という気持ちになる。個人的にしびれたのは、音を逮捕する場面。こんな表現思いつかない。ぜひ見て欲しい。

 絵本が校了して数日経った頃、荒井さんからメールが来た。「プラトンの饗宴に入っているアリストパラスの『愛の起源』に出てくる球体......これじゃないかな」。そのメールを見た瞬間、「これだ~!」と興奮した。「人間球体論」。知っている人もいるだろう。人間はもともと2つの頭と4本ずつの手足を持つ球体で、男女の別もなく、完璧な存在だった。しかしその完璧ゆえの高慢さから、ゼウスの怒りに触れ、身体を2つに切り裂かれる。別れてしまったそれぞれの身体は、分身を探し求め続ける。そうして、その分身同士が出会った時に完全無欠な愛が成立する、という説。これを読んでいる人の中に『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』という映画や舞台を観た人はいるだろうか。その中で「The Origin Of Love」という曲が登場するのだが、それはまさにこの人間球体論をモチーフにしたものだ。というより、映画そのものがそれを下敷きにしている。性転換手術に失敗したドラッグクイーンのロックンローラーが自分の片割れを探し、さまよう、愛を求める物語。『みんなたいぽ』で逮捕された全ての者たちは、かつてバラバラになった分身たちなのだろうか。思えば、テキストが届いた時の仮題は『球体』だった。マヒトさんの意図は知らないが、意図的であれ偶然であれ、どっちにしても凄いし、そこに気付いた荒井さんも素晴らしいと思う。

 バラバラに分かれてしまったものたちが、牢屋の中で出会い、とけあい、1つの球体になる。その時、何が生まれるだろうか。僕らは、絵本の中ように、物理的にとけあうことは出来ない。だったらどうやってとけあうことが出来るのだろうか。この絵本で提示された希望を、どうしたら掴み取ることが出来るのか。絵本の中で答えは示されない。考え、行動するのは自分たちだ。『みんなたいぽ』を読んで、それぞれに感じ、考えていただけたら嬉しい。まずは、今までしたことないくらい、声を聞き合うことから始めよう。そうして、いつか僕らも、球体からやり直せるだろうか。

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プロフィール
筒井大介(つつい・だいすけ)
1978年大阪府生まれ。フリーランスの絵本編集者。野分編集室主宰。担当した絵本に『ドクルジン』(ミロコマチコ)、『こどもたちは まっている』(荒井良二)、『ぼくはいしころ』(坂本千明)、『ネコヅメのよる 』(町田尚子)など多数。『ブラッキンダー』(スズキコージ)、『オオカミがとぶひ』(ミロコマチコ)がそれぞれ第14回、第18回日本絵本賞大賞を受賞。『オレときいろ』(ミロコマチコ)が2015年度ブラティスラヴァ世界絵本原画展金のりんご賞受賞。編著に『あの日からの或る日の絵とことば3.11と子どもの本の作家たち』がある。水曜えほん塾、nowaki絵本ワークショップを主宰し、作家の発掘や育成にも力を注いでいる。

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