相変わらず ほんのちょっと当事者

第4回

「家の犬」と「わたしの猫」3

2022.05.24更新

【お知らせ】この連載から本が生まれました

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『元気じゃないけど、悪くない』
青山ゆみこ(著)

本連載を再構成し、大幅に加筆を加えた一冊です。
「わたしの心と身体」の変化をめぐる、
物語のようなノンフィクションであり、ケアの実践書。
お手にとっていただけたら嬉しいです。(2024年3月20日刊行)

(「家の犬」と「わたしの猫」2 はこちら)

 ロイのことをよく思い出すようになったのは、猫と暮らし始めてからだ。
 ある日突然、わたしの元にやってきた生後4カ月の三毛猫のシャー。
 当時の写真を見ると、頭部が大きな子猫特有のバランスからその幼さを見て取れるが、猫とほとんど接したことのないわたしは猫のサイズ感もよくわかっていなかった。

「子猫はちっさいのお」

 夫がよく響く低く大きな声で繰り返す度、子猫はゴムまりのように弾け飛んで部屋の隅に逃げ隠れてしまう。
 数日が経っても、近寄ろうとする人間に「シャー!」「シャー!」と威嚇してばかりでいっこうに慣れてくれないのは、「シャー」という夫による名付けのせいではないかと、当初はちょっとうらめしかった。

 ウルトラ猫初心者であるわたしが最初にしたのは、「初めての猫を飼うひとのために」という教科書のような本を読みあさることだった(わたしはなんでもイラストがたくさんの入門書から入る)。
 ある日、シャーがダイニングテーブルの上に飛び乗った。
 猫の教科書に書いてあるとおり、シャーの背後で、勢いよく両手をパンと叩く。驚かせてテーブルが怖い場所だと思い込ませる作戦だ。
 しかし、シャーは音をした方向をちらっと見ただけで、テーブルの上できょとんとしている。
「なんや、その手をパンてやるやつわ。どけ、て言うたら猫もわかるんや」
 呆れるように見ていた夫が「そこはあかん!」と指さすと、子猫はしなやかにジャンプして床に着地し、どうでも良さそうにどこかへ消えてしまった。

 商店街の一角にある生地屋が生家で、屋内外を気ままに出入りする猫がいつもまわりに何匹もいたという夫の猫への接し方と、本に書いてある「飼い方」はまるで違う。
 わたしは実家で飼っていた犬のロイがいたずらをすれば叱り飛ばし、庭におしっこをすると叩いてしつけをしていたが、シャーには声を荒げたり手をあげたくなかった。
 ロイは飼い犬という名のとおり、人間が「飼って」いた。ごはんを用意し、寝る場所を確保するというだけで、わたしは「強い立場」になってしまう。
 立場という見えない線が引かれたときに生まれる上下関係。或いは主従関係。そういうものをシャーとの間にできるだけ持ち込みたくない。
 できる人ができることをする。ただそれだけでいいじゃないか。
 「親」と「子どものわたし」。「わたし」と「飼い犬のロイ」。そこにあったものとは異なる関わり方がしたかったのだと思う。

 子どものいないわたしたち夫婦だけの生活に、ひょこっと入りこんできた猫。
 猫は人間とは違う動物であるけれど、なんだろう、ペットとは思えない。
 という話をすると、「二人には子どもみたいな存在なんだろうね」と気遣うように言われることがある。
 えー、猫は猫だよ。子どもじゃない(子どもをもったことがないからわからないけど、たぶん違う)。ペットでも「うちの子」でもない。
 いまもってうまくいえない。
 子どもの頃から、閉じた環境での人間関係にいつも窮屈さを感じていたわたしは、自分ではない誰かと「家」という場を、信頼関係で共有するようなことに憧れていたのかもしれない。
 それが「家族」なら素敵だけど、わたしにはその言葉ではきれいすぎるし、その美しさがなんだか重い。もっとシンプルでフラットな関係性を猫に求めていた気がする(猫は最初からそんな感じだった)。
 わたしにとってシャーは「特別に大切な存在」だというだけ。

 動物の聡明な勘なのか、ごはんを用意するのがわたしだと確認したのか、シャーはわざわざ近寄ってはこないけれど、わたしという同居人を頼りにするような仕草を見せることが次第に増えてきた。
 このソファはシャーがのんびり過ごせるように。
 このかごはシャーが安心して寝られるように。
 好みそうな布を探して、空間を整えておくと、シャーはいつの間にか、その場所にたどりつき、居心地良さそうに毛繕いをして寛いでいる。

 なんてかしこい猫なのだろう。
 この猫はわたしの心が読めるのだろうか。

 猫の姿の一つひとつに心の乾きが潤っていくようで、胸が幸福な感触で満たされた。
 シャーをそっと撫でる自分の手のやさしさに驚く。自分にもこんなやさしさがあったのかと。リキのときに感じた心の距離もなく、ロイに抱いたような屈折した感情もない。
 自分の好きなように過ごしてくれる自由さをもった生きもの。気が向かなければ近寄ってもこない。そういう存在がそばにいるだけで、わたしまで解き放たれるようなようだった。
 ドラマや漫画であるじゃないですか。制服を着た子が二人で河原に並んで黙って座っているだけで安心みたいな場面が。
 ああ、あれはこんな気持ちだったのだなあ・・・(誰かといるとき沈黙が怖いわたしは、そんなシーンを目にするだけで居心地の悪い気分になっていた)。
 いつも抱えていた"太平洋ひとりぼっち"のような孤独もさみしさもどこかに消える。一人でいるようで一人じゃない穏やかであたたかな安心。それを教えてくれたのがシャーだった。

 わたしはすっかり猫に魅了されてしまった。
 いや、他の猫のことはわからないけれど、シャーが大好きになった。
 きらきら輝く黄色がかった瞳も、茶色と黒と白をかき回したような三毛の色も、目のまわりにくっきりひかれたアイラインも。
 こんなに美しくやさしい生きものがこの世にいるのか。そんな存在が世界のどこでもないわたしの暮らす家にいるという事実に、四六時中気が遠くなりそうで、来る日も来る日も、シャーを目にする度に幸せで息が止まりそうだった。

 特に大きな病気をすることもなく、シャーは順調に育っていった。教科書どおりの子猫らしい行動や、年齢に応じた体型の変化を経て、ごはんを食べて、寝て、遊んで、出す。
 シャーに求めることはそれ以外にない。シャーのすることが、わたしのして欲しいことだった。
 1年、2年と、ともに過ごす時間を重ねるほどに、シャーが何を欲しているのか(或いは欲していないのか)を、ごく当たり前に察することができるようになり、教科書を開くこともなくなった。
 フリーランスとなり、自宅で書きもの仕事をするわたしは、ほとんど終日、シャーの気配を傍らに感じながら日々を過ごす。著書という形になった本が生まれる時間のすべてはシャーとともにあった。

「あのさあ、自分ちの猫って、自分ちの猫だからかわいいんかな。もし他の猫と暮らしても、わたしはシャーみたいにかわいくてたまらないって思うもんなんかな」
「それは猫によるんちゃうか」

 夫の直球の即答に、目の前の猫が特別な存在に思えるなんて、自分はなんて幸せなんだろう。しみじみと心が震えた。
 もしいなくなったらどうしよう。寿命の異なる生きものとして、仮定では済まないどうしようもない事実だとわかっていても、そんな不安が浮かぶたび慌てて消した。なによりも恐ろしくて。

 シャーは悪性リンパ腫が発覚してから半年ほど闘病しこの世を去った。14年半ほど生きたことになるので、ロイと同様にいわゆる寿命だったのだろう。
 闘病期間が新型コロナウイルスの蔓延拡大と重なっていた。
 ウイルスに負けないで。不便でも日々の楽しみを大切に。未知の状況に立ち向かおうと鼓舞する前向きな言葉が望まれていた時期だ。
 シャーのいない生活はひたすらさびしくて、口を開けば悲痛な叫びが漏れそうだった。
 だめだ。こんな大変なときに死んだ猫のめそめそした話なんてするべきじゃない。
 誰に言われたわけでもないのに、漏れそうな声を手で塞いで自分の奥のほうに押し戻すことが増えた。来る日も来る日も。次第にどんどん、どんどん深くに。

 あれから2年。感染症と付き合っていくしかないという、ウイルスに対する心の抗体がようやくできてきたような今日この頃だ。と思いきや、痛ましい紛争が日常を異なる仕方でまた変えた。今に始まったことではないが解決の糸口のない事件や事故はすぐそばで日々起きている。
 現実は相変わらず、いや、ますます過酷だ。
 そんななかで、わたしはこうして今さらのように死んだ猫の話をしている。
 なぜだろう。
 わからないけれど、ふと聞いてもらいたくなったのだ。なにを話しても親身に耳を傾けてくれる友人たちになら、話しても大丈夫かなって。
 なのにその日、シャーの顔も名前も知っている彼らを前にして、わたしは言葉が出なかった。ただシャーを懐かしむことをしたいだけなのに、なにを口にしても違う気がして、躊躇い、黙ってしまった。
 わかってもらいたいのに、うまく言葉にできない。自分の声を押しとどめるものがなにかわからない。喉の奥にひっかかるもので窒息しそうな、胸が潰れそうな息苦しさ。絞り出した言葉の断片も、間違えてしまった気がして引っ込める。そんなことを繰り返すわたしを見守って言葉を待ってくれる友人の顔に助けられて、ようやくまとまりのない話をし始めた。少しずつ。
 そのときにできなかった話の続きを、実はいまわたしはここで書いている。要点を絞ってひと言で語ることのできない、とりとめのない話を。

 シャーとの別れの時間を思い出すことも、わたしにはまだ難しい。
 あの苦しい気持ちにそっと布をかけて見えないようにしているけれど、そうするうちにシャーの顔も、やさしい声もまで忘れてしまいそうになる。
 シャーがいた幸せを忘れることはなによりも怖い。耐えられない哀しいことだ。自分にとって大切な誰かについての苦しい過去と、幸せに存在していた思い出は同時に自分のなかにある。それぞれを都合良く取り出すことは、難しい。難しくて当然ということがわからなくて、どうしていいのかわからなかった。
 最近はこんなふうに思う。
 思い出すのが苦しいことは、心の奥に布をかけて見えないようにしてもいいんじゃないかって。忘れてしまうことが怖い、自分にとって特別に大切な思いや記憶だけを浮かび上げて言葉にしてもいいのかもしれないと。
 だからわたしはシャーがいたことの幸せをときどき懐かしむことをしようと思う。いま感じているさみしさは、いなくなった猫でも死んだ猫でもない、わたしにとって特別な存在がいたことの確かさがもたらす幸せなのだから。

 長い長い話に付き合ってくれてありがとうございました。

 雑談のようなおしゃべりのなかで耳にする自分ではない誰かの言葉から、ふと初めて「自分の言葉」にたどり着けることがある。
 言葉にならなくても「ない」わけではない、言葉になる前にすでにあった思いのようなもの。それに触れてくれるのはぽつぽつと語られる、自分ではない誰かの言葉だ。人が語りあうことにわたしは希望を捨ててはいない。
「自分でわからない」ことは、「自分だけ」では言葉にできないことなのかもしれない。だから本を開けば届いてくる言葉に耳を傾けて、自分の言葉を探すのだと思う。
 これからもわたしは誰かの話、その人だけの声を聞き、こうしてとりとめのない話をしていく。

 シャーは猫ひとりだったので目にすることがなかったが、姉妹猫と暮らすようになって、猫同士がケンカすることに驚いた。
 生まれたときから一緒にいるせいか、気が合うのか、時折激しい取っ組み合いを見せてはらはらさせた次の瞬間には仲直りをして、お互いの顔や身体をペロペロと舐め合っている。
 ぐるぐると喉を鳴らす音は、争いのあとの平和そのものだ。
 幸せな音だなあ。わたし一人では辿りつけないシャーの声を、姉妹猫の鳴らす音で思い出す。幸せだけを思い出す。

青山 ゆみこ

青山 ゆみこ
(あおやま・ゆみこ)

文筆・編集。神戸在住。猫が好き。「読む・書く」講座やオープンダイアローグをはじめ、さまざまな対話の手法を実践中。著書に、ホスピスの「食のケア」を取材した『人生最後のご馳走』(幻冬舎文庫)、エッセイ『ほんのちょっと当事者』(ミシマ社)。共著に『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房)、震災後の神戸の聞き書き集『BE KOBE』(ポプラ社)などがある。

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