相変わらず ほんのちょっと当事者

第14回

大きな窓の小さな部屋

2023.05.19更新

【お知らせ】この連載から本が生まれました

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『元気じゃないけど、悪くない』
青山ゆみこ(著)

本連載を再構成し、大幅に加筆を加えた一冊です。
「わたしの心と身体」の変化をめぐる、
物語のようなノンフィクションであり、ケアの実践書。
お手にとっていただけたら嬉しいです。(2024年3月20日刊行)

 今月末で、仕事用に借りていた賃貸マンションの一室を手放すことにした。
 実のところ4月中に部屋を空っぽにして鍵を返す予定だったのだが、焦らずにどうぞという大家さんのご厚意に甘えてのろのろしていたら、またひと月が瞬く間に過ぎそうで、さすがにヤバい。

 どうやらわたしは、テキパキ効率よくその部屋を片付けたくないようなのだ。

 住んでいたわけじゃないので、家具も本棚、机、ソファベッドくらいしかない。
 築50年以上になる鉄筋4階建ての4階、1Kの飾り気のない空間だが、昭和の大工仕事を感じさせるちょっとした設えや、長い年月を経て塗り替えられてきたであろう木の塗料が味わいを生んでいる。
 なによりその部屋は窓が大きかった。東にベランダ、南に出窓、西には座ったときに肘がかけられる高さの肘掛け窓がある。
 ほぼ正方形の部屋の壁3面にある窓からは、太陽が昇ると同時に東から順に光が射す。
 すべての窓を開け放つと、部屋のなかをびゅんびゅんと風が通り、建物が面した幹線を走る車の音まで流れ込んでくる。
 明るく空気の抜けのいいその部屋で目を閉じると、ほとんど路上にいるかのように錯覚する。
 いささか素敵な言い方をすればオープンテラスのような、窓の大きなその小さな部屋が、この2年、わたしにとって特別な、わたしだけの場所だった。
 
 フリーランスになって15年以上、自宅リビングの丸テーブルの一角がわたしの仕事場だ。ノートブックパソコンと、プリンター&スキャナでもあれば仕事ができるフリーランスの物書きだし、人の手を借りるほどでっかく仕事を広げているわけでもない。
 テーブルの定位置に、朝昼晩の食事の際にはランチョンマットを敷き、仕事の時間はノートブックパソコンを開く。考えてみれば一日の大半、同じ場所に座り続けている。コロナでリモートワークがどうのというその15年以上前から、わたしは毎日自宅の片隅でこりこりと仕事をしてきたのだ。
 書斎に憧れる気持ちもあった。いや、そんな大層なものでなくとも、せめて自分の仕事道具を広げっぱなしにできる場所が欲しいなあって。でも、どう考えても自宅にはそんなスペースの余裕はなかった。

 夫婦二人で住む我が家には、そもそもお互いのプライベート空間がない。
 夫は整理整頓が苦手で大雑把なところがあり、だからなのか、人に自分のルールを押しつけることもなく、わたしが仕事道具を広げていてもまったく気にしない。散らかっていようが汚れていようが、意に介さない。
 わたし自身もずぼらなところがあるので、夫は同居人としては気楽な相手だ。
 自宅を仕事場にしているわたしとは違い、「職場」を持つその夫が仕事に出かけてしまえば、わたしは家でひとりになる。
 自然と気持ちが切り替わり、自宅を仕事場としても十分にやっていけていた。

 それが一変したのはコロナのせいだった。
 あの自粛につぐ自粛の、「巣ごもり生活」が始まってしまった。
 夫もたまに自宅でリモートになる機会が増えて、必然的に仕事の資料が増える。もとから雑然としていた自宅は、どんどん混沌として、テーブルの上に乗らないものは床に置かれ、それぞれに積み上がった上に、さらにこまごましたものが置かれる。
 なんだろう。困るわけじゃないけど、イラッとする。無秩序でアンバランスなものたちの存在に、気持ちがスッキリしない。

 また、例えば自宅が2つのオフィスでシェアする仕事場のようになっていくと、食事の時間にもどちらかのケータイが鳴り、なにかのトラブルや催促の連絡が入ったり。家は「生活の場」と「仕事の場」としてうまく切り替わらなくなり、ちょっとしたことがワインのボトルの澱のように降り積もって、日に日に部屋の空気がよどんで重たくなるように感じた。

 いつしかわたしにとって夫は、同じフロアで微妙に自分のパーソナルスペースを侵略してくる同僚のような存在になって、「生活モード」であってもいつもどこか緊張し、自宅でうまくリラックスできなくなった。
 「自分」の領地に対してナーバスになったわたしと夫の間で、いくつかの紛争も起きて、穏やかな暮らしの場であり、職場であるはずの自宅は、そのどちらでもなくなっていった(と感じた)。なにもかもが、どんどんうまくいかない・・・。
 ああ、自分だけの場所が欲しいなあ。毎日毎日、祈るように唱えつつ、それがどんな場所なのか想像もできなかった。

 思えばわたしは、子どもの頃からいつも「自分だけの場所」を求めていた。
 実家では、三人きょうだいそれぞれに子ども部屋が与えられていた。ただ、その部屋は父のものである「家」の一部でしかなかったように思う。
 妻や子どものすべてを知りたがる傾向が強かった父は、友達との通話に内線で聞き耳を立て勝手に入ってくる。でもまあそんなことは、当時の家庭で珍しくないことだったろう。
 父は、子ども部屋の引き出しや押し入れを好きなときに開け、机の整理の仕方が悪いと指摘し、気に食わないものは外に出して説教をした。
 中学のときに同級生に借りた漫画『ハイティーン・ブギ』が見つかって、「こんなエロ本を読むヤツは不良や」と激しく罵られたことは、とにかく恥ずかしくて50を過ぎても忘れられない。
 また、雑誌でペンパルを見つけて文通を始めたわたしに届く手紙を勝手に開封して当然のように読む。文句を言うと、親にも見せられないようなものを書くヤツなのかと逆に叱られた。
 
 思春期の子どもとうまく距離を保てない親は、同級生の家にも余るほどおり、わたしたちは休み時間や放課後に親の悪口を言って発散していたから、そうしたことで大きく鬱屈した覚えはない。
 ただ、自分の部屋であっても、いつ土足で踏み込まれて嫌な思いをするかもしれない。ここは「安心できる場所ではない」とも感じていた。
 ちなみに母はそうした父の言動を嫌がって、わりあいプライバシーに配慮してくれる人だった。彼女自身にもそんな場所は家庭になく、自分も欲しかったのだろうと、今は思う。

 2021年の春先のある朝、「巣ごもり生活」もほぼ1年が過ぎた頃、3月のその日のことをよく覚えている。
 朝起きて、わたしはなぜか唐突に「どこかに部屋を借りよう」と決めたのだ。
「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」というヴァージニア・ウルフの言葉を思い出したのだろうか。
 小説なんて書いてないけれど、お金だって不十分だけれど、「自分ひとりの部屋」がわたしには必要な気がした。
 いつものようにテーブルの端っこで MacBookAir を開き、検索窓に、エリア、間取り、家賃など具体的な項目を打ちこんで、ヒットした賃貸不動産のサイトを1ページずつ隅から隅まで眺めていった。
 その横で、いつものように夫が起きて、いつものように仕事に出て行った。わたしは秘密の冒険の計画でも立てているように、なんだかわくわくして、朝ごはんも昼ごはんも食べるのも忘れて、「自分が求める部屋のイメージ」をくっきりと、具体的に組み立てていった。

 30代中盤の頃、初めて実家を出て、ごく短い期間だが一人暮らししたことがある。
 引っ越した夜はカーテンもダイニングテーブルもまだなく、電子レンジでチンしたコンビニのドリアを床に広げて、安っすい白ワインを飲んだ。
 そのときに感じた、大海原に航海に出た船のなかにいるような、初めて味わう、人生が無限に広がったような自由。
 部屋を探し始めたら、久しぶりにその感触をありありと思い出した。
 わたしはいま、自由を探しているのだ、と確信した。

 部屋探しの条件は窓だった。できるだけ大きい窓、そして日当たり、できれば見晴らしの良さ。こう書くと、誰だってそうだろうという気もするが。
 となると、建物の上階であることが優位の条件に上がってくる。
 家賃を考慮すると、昭和の後期に建てられたようなちょっと古い、雑誌的にお洒落に言い換えればレトロなハイツのようなマンション、あるいは団地のような集合住宅がいいのかもしれない。
 そんな部屋を探してわたしは毎日、自宅の半径2キロほどのあたりを、歩き始めることになった。

 めぼしい建物を見つけると、上階の窓を目でなぞっていく。集合住宅の窓を精査するようになって気づいたが、窓は非常に雄弁で、ぼんやり輪郭が浮かぶカーテンや、レールに雑然とかけられた衣類など、生活が透けて見える。
 窓の間隔からそこが単身者用の住居なのか、ファミリー向けなのかも見えてくる。窓枠のしつらえは建物そのもののグレードに反映されていて、そこに暮らす人の月収さえ想像できる気もした。

 窓を見上げて歩き始めてみると、見知ったはずの近所の風景の解像度が格段にあがり、バス道沿いや、そこから一本入った住宅地、その奥の路地など、一軒一軒に自分の知らない誰かが暮らしていることが、心から不思議で、呆然とさえした。こんなにもたくさんの人が生活をしていて、そこでどんな思いをしているのか、おそらくわたしが一生知ることがないという事実に。 

 ひょんなことから、詳細を書くと「できすぎじゃない?」と嘘のように聞こえる偶然と人の縁が重なり、わたしは部屋探しを始めて2週間後には、自宅から自転車で10分ほどの場所にある、最高に風通しの良い1Kの部屋の鍵を手にしていた。
 大家さんは友人で、物件に対する信頼はもとより、人生がぐつぐつ煮詰まって、心身共にくたびれきっていたわたしの状態を聞かずとも察してくれる存在だったことも、その部屋に対して100%以上に安心できた理由だった。
 これを読むあなたが想像しているより、おそらくはるかに安価な家賃。ざざっと頭のなかで計算してみれば、必要最低限の家具を用意したあと、貯金を切り崩せばひとまず1年はなんとかなりそうだ。

 その部屋で、わたしは創作意欲を燃え上がらせて、作家活動に邁進した。
 なんてことは1ミリも起きなかった・・・。

 いや、当初の予定ではバリバリやる気だったので、老眼が堪えてしょぼしょぼする目の強い味方になりそうだからと、思い切って当時最新のiMac24インチまでポチったのだ(自宅のMacは13インチ)。
 なのに、ブラインドタッチのできないわたしは、文章を書こうとする度に、液晶とキーボードを見るために、頭を赤べこのように振らねばならず、首がちぎれそうになった。「書く」仕事にはまったく使えないことが早々にわかって、ちょっと落ち込んだ。
 だがしかし、iMac24インチは、ハイスペックなディスプレイとサウンドシステムで、大好きな韓流ドラマを見るには最適だった。
 そんなわけで、朝起きて、自宅から仕事場に出勤すると、自宅にはないベッドにもなるソファに寝転んで、ラブコメなどを気の済むまで再生し、わたしはその部屋で泣いたり笑ったりしながら一日を過ごし、夜になると自宅に帰った。
 生産性のマイナス数値で井戸を掘れば南半球に届きそうな勢いで、「なにもしない」を全力でしていたように思う。ひと月ほどはほんとにそんな生活だった。

 あの頃を思い返すと、わたしは自分が、温泉宿に逗留して湯治でもしていたかのような感覚がある。
 止まれないハリネズミのように過剰に動き、50を迎え、人生のさまざまで全身は傷だらけ。でも、いまどこが痛いのかもわからないような満身創痍の自分。
 わたしにとって『千と千尋の神隠し』の湯屋のようなその部屋で、がちがちだった心身が少しずつ緩まってくると、絶対的な安心感しかないその場所から、次はいろんな人に会いにいくようになった。
 iMacの24インチのディスプレイは、今度は誰かに会う「窓」になったのだ。 
 対面では人と会うのが難しいコロナ禍は、オンラインだと海を越えた遠い国で暮らす友人とまで気軽に会える機会を生んでくれた。
 外食の機会が減り、会うことが極端に減っていた友人たちとも、スマホやパソコンといったお互いの「窓」越しなら気負わず会える。
 とりわけ、「オープンダイアローグ」という医療の現場で生まれた対話の手法が、「聞く」と「話す」に関心の高い仲間と集う口実(というか目的)となった。
 オープンダイアローグには、「その人の体験や話を否定しない」「ジャッジしない」「説得やアドバイスをしない」「結論を出さない」などの対話のルールがある。
 最初はとりとめのなさに不思議な感触をもつが、ただ対話を続けることを繰り返していくと、「対話の時間」そのものが、絶対的な安心を確保された「居場所」となることがわかってくる。

 パソコンの画面という小窓が外に開かれた、窓の大きなその部屋が、日々いろんな人が行き交う港のように感じた。わたしは防人やセンチネル(歩哨)のように、港を通過するさまざまな思いや言葉をぼんやりと眺めている。
 集い、通り過ぎていく人たちもまた、ふっと肩の力を抜いて、日常で背負っている「役割」などを忘れているように見えた。社会的な「顔」を一旦保留にした非日常な避難場所、アジールのような場所で。

 自分の会いたい人に、会いたいときに会うためのこころの居場所。小さな部屋の目的が変わっていくのを感じながら、わたしはその部屋から、信頼する仲間たちと親密に話をし続けた。
 窓越しにやり取りする時間は、若い頃についた傷、不当に扱われていると感じたたった今の傷。いろんな傷を一つひとつなぞるように点検する、やっぱり湯治のような時間だったように思う。
 傷がある。わたしは傷ついている。ゆるゆると湯に浸かり、肯定もせず、否定もせず、そのことをフラットに眺めると、わたしの傷は消えるわけではないけれど、ただそこにあるだけで、なぜかもう疼かないようになっていった。
 小さなその部屋は、自分が何者であるとか、そこにいる理由なんて考えなくてもいいような、生まれて初めて感じた不思議な安心を与えてくれた場所だ。
 わたしは大丈夫。なんだかわからないけれど、そう思える。
 
 あっという間に2年が過ぎていた。
 2年目は週に1度程度しか仕事場に立ち寄らなくなり、相変わらず自宅のリビングの片隅で、こうして文章を書いている。この2年も、仕事は結局、自宅でこりこりやってきた。リビングはテーブルも床もますますとっちらかっているが、なぜだかもう気にならない。
 わたしのこころには、たくさんの小さな窓がある。どこにいても、いつでも自由にどこかに飛んでいける窓だ。だから、どんな場所でもわたしは書ける。
 人によっては本やラジオが窓になる人だっているかもしれない。
 そんな窓を与えてくれたあの大きな窓の小さな部屋と、わたしはまだ別れがたい気持ちで、引越しがなかなか進まないんじゃないかな。うん、そうだ。
 この先、こころの窓を開ける度に、わたしはあの部屋のことを思い出すだろう。ほんとうにありがとう。これを御礼とお別れの手紙としたい。

青山 ゆみこ

青山 ゆみこ
(あおやま・ゆみこ)

文筆・編集。神戸在住。猫が好き。「読む・書く」講座やオープンダイアローグをはじめ、さまざまな対話の手法を実践中。著書に、ホスピスの「食のケア」を取材した『人生最後のご馳走』(幻冬舎文庫)、エッセイ『ほんのちょっと当事者』(ミシマ社)。共著に『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房)、震災後の神戸の聞き書き集『BE KOBE』(ポプラ社)などがある。

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