相変わらず ほんのちょっと当事者

第13回

春の夜の夢、あとはおぼろ

2023.04.07更新

【お知らせ】この連載から本が生まれました

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『元気じゃないけど、悪くない』
青山ゆみこ(著)

本連載を再構成し、大幅に加筆を加えた一冊です。
「わたしの心と身体」の変化をめぐる、
物語のようなノンフィクションであり、ケアの実践書。
お手にとっていただけたら嬉しいです。(2024年3月20日刊行)

 年を取ると怖いものがなくなる、なんて聞くけれど、わたしの場合は50の急カーブを曲がって以来、怖いものが増えている。
 先日など、飛行機に乗るのが恐ろしくなった。
 コロナのことがあってから遠方の取材が激減していたし、海外旅行もご無沙汰で、飛行機に乗るのはそういえば2019年に台北か釜山に行ったぶりだろうか。
 とはいえ今回は、水戸への用事で、地元の神戸空港から約50分の空の旅。ちょっと近所に出かける程度の気軽なもんだ。
 なのに、わたしは自分が乗った飛行機が墜落するかもしれないという想像が止められなくなったのだ。
 乱気流に巻きこまれ、急降下する機内に響く悲鳴・・・コロナ禍でドラマを見過ぎたせいだろうか。

 そんなわけでフライト前夜、わたしは加入している生命保険、ネットバンキングの暗証番号、はたまたSNSなど諸々のIDやパスワードを整理してまとめたWordのファイルを、ノートブックパソコンのデスクトップに置いた。
 しかしこのままでは誰にも気づいてもらえない。
 そこで残された家族である夫が、持ち主のいないパソコンをスムーズに立ち上げられるように、ロック解除のパスワードを付箋にはりつけることにした。
 なにかあったときに、ノートブックパソコンから3センチはみ出した黄色い付箋が、「ふと」目に入るようなさりげなさで。

 そこまで念入りにセットしてみると、パスワードの羅列では素っ気ないように思えてきた。なんせこれを目にするときは、書いた本人はもういないのだ。読む側の気持ちってものもあるだろう。わたしなら、もっと血の通った肉声が聞きたい。
 それで付箋に「こうさんへ」と宛名をつけてみた。
 するとなんとなくもうひと言ふた言添えたくなり、「今までありがとう」などと書いちゃったりしてから、はたと気がついた。
 これではまるで遺書ではないか。
「家族によるとパソコンには遺書のようなものが〜」なんてニュースで見聞きする、まさにそれだ。
 これはまずい・・・。
 慌てて遺書のようなものになった小さな付箋を破り捨て、一回り大きめの付箋に書き直した。
「なにかあったときの場合に書いています」
「なにかあったときは自分の意志ではありません」
 仕事柄なのか熱心に推敲するうちに収集がつかなくなってきて、結局、「なにかあったときはこれを見てください。○日何時に帰ります」程度におさまると、それは遺書というより遺言だった。
 そしてまったく何事もなく、むしろフライトを楽しんで出張を終えて、付箋を破り捨て、この原稿を書いている。なにがあんなに恐かったのだろう。「死」をリアルに想像するほどに、わたしは老いてきたのかもしれない。
 というか考えすぎである。
 昔はむしろ怖いものが見たいような、考えしらずの好奇心が勝っていた。あれが若さなのだろうか。

 30になった頃、わたしは一夜を買われたことがある。
 雑誌編集者時代の、ちょうど桜の季節だった。
 その日も編集部のある大阪から、終電少し手前の電車に滑り込んで、ひとまず神戸に戻り、一杯飲んで帰ろうと途中下車。駅から近いけれど、人通りの少ない路地の一角にある、店主が一人でカウンターに立つ小さなバーに寄った。
 民家を改築した店で、看板はなく表札のみ。会員制ではないが、一見さんはまずこない。6帖ほどのシンプルな和のテイストの空間に、分厚い木のカウンター、5席ほどの椅子が間をあけてゆったり並んでいる。

 その夜は、独りの女性が先客で、頭をつるりとまとめた入道のような作務衣姿の店主と、打ち解けた雰囲気で喋っていた。入道店主は、当時のわたしより一回りほど年上。女性客はそのもう少し先輩で、年の頃は50の半ばあたりだろうか。
 高級な和紙の障子紙のように、ほどよくピンと張ったやわらかそうな乳白色の肌。透明感を際立たせる、艶やかなオレンジの口紅。さっと筆ではいたような切れ長の目。見るからに素人ではなさそうな女っぷりのよさだが、水商売の女性が放つ開きなおったような快活さとはどこか違う、湿り気のある空気感。なにより、櫻井よしこさんばりに念入りに前髪がそそり立ったセミロングの髪が、墨のようにどしりと黒い。
 女性客は、「おっしょさん」と呼ばれていた。どうやら三味線と声の芸の道で「師匠」と呼ばれる立場なのだそうだ。確かに、言葉や態度の端々に人を使い慣れた気配もある。

 わたしはいつものように駆けつけ一杯とばかりに、デュワーズの水割りをウーロン茶のようにごくごく一気に飲み干した。
「美味しいか?」
「しみわたります」
 おっしょさんは珍しい小動物でも見るように30娘を眺め、目を細めて笑ってくれた。見るからに高そうなとろみのある春色のニットブラウス、華やかで切れがあるおっしょさんの声は、なんだかぱあっと晴れやかで、わたしはすっかり嬉しくなり、調子よくどうでもいいバカ話をしたように思う。おっしょさんの笑う顔が見たくて。

 3杯目のグラスが空いた頃、そろそろ支払いを済ませて駅にダッシュしないと、午前1時前の終電に間に合わないことに気がついた。
 慌てて鞄から財布を取り出そうとしたとき、その隣に並んでいたおっしょさんの透明のバッグが目に入った。こ、こ、これは、エルメスが展示会の会場のみで販売したというビニール製の限定ケリーではないか。
「おお、噂の!」と思わず声が出てしまった。
「こんなん興味あるんか?」
 目をハートにしているわたしに、おっしょさんは切れ長の目をぬらりと光らせた。そして「あんた、わたしの鞄持つか?」とバッグを指さした。「それやったらタクシー代出したげるわ」と。
 一瞬意味がわからなかったが、つまり、こういうことだった。
 この後自分はまだもう少し飲みに行く。着いてくるのであれば、自宅までのタクシー代も飲食代もすべて出す。その代わり、自分のバッグをわたしが持つこと。文字通り「鞄持ち」をするのはどうかという提案である。

 正直なところまだ飲み足りない気持ちが不完全燃焼気味に燻っていて、わたしのあさましさがあふれ出た。渡りに船。いや、でもこの船今夜初めて見た船。はたして乗っていいものだろうか・・・。
 少し迷っているわたしに、入道店主があごをくいっと突き出して、「行ってこい」と明らかに背中を押してくる。気づけば「では、持たせていただきます!」と答えていた。酒の勢いもあったし、なんせわたしは「人生、行きがかりじょう」が信条なのである(バッキー井上さんに学んだ)。
 そんなわけで、わたしは自分の鞄を肩から下げて、ぬめっと輝く透明のケリーバッグ(40センチ)をお腹の前あたりで抱えて、おっしょさんの後をひょこひょこ着いて行くことになった。

 2軒目はそこから5分とかからない雑居ビルの一階。昼は喫茶店営業をしているパブだった。
 昭和なクロスと木製の椅子、黒っぽい赤の絨毯。いい感じにシブい。手前がソファ席、店内奥に小さなカウンターがあり、カランコロンと鈴を鳴らして入ってきたおっしょさんを見ると、カウンターに並んでいた男性二人が、「あらぁ」「なになにぃ〜」と黄色い声を上げて立ち上がって彼女を歓待した。

 男性二人もおっしょさんと同年代で、それぞれシャツにベストのようなスッキリした装いだが、見た目とは異なり、口調も語尾もやわらかい。
 彼らもビニールケリーの女を「おっしょさん〜」と呼んだ。きゃきゃっと弾むようなリズムで。
 男性の一人がカウンターの背後に並ぶ首に名札がぶら下がったボトルから、山崎だかオールドパーだかのボトルを一本取りだして、おっしょさんのグラスに手慣れた様子で水割りを作る。
「お嬢さんは?」と聞かれたわたしは、「あ、普通でお願いします」と間抜けに答えるといける口だと判断されたのか、ダブルに近い濃い水割りを差し出された。
 かんぱーい、お久しぶりね、どう調子は、などとたあいない世間話から始まり、おっしょさんにはその店はかなり「ホーム」だったようで、先ほどの店では纏っていたらしき鎧も脱いで、にわかにまったり寛いでいる。ほどなく結構な按配で、おっしょさんはぐだぐだになっていた。酒の場のそういうぐだぐだは、むしろわたしの好物でもあった。ええ感じやなあ。呑気に濃い水割りを味わっていた。

「マスター」と「タケちゃん」(とかそんな名前で呼ばれていたと思う)は、おっしょさんの連れ合いともよく知った仲のようで、話題の中心はその連れ合いへの不満、つまりおっしょさんによる愚痴になっていた。
 タケちゃんたちは「困るわねえ」と軽く同調しつつも、いまいち切れが悪い。その反応が、おっしょさんの言葉をますます尖らせていく。
 マスターは相づちを打つにも迷うような素振りで、言葉少なに顔を曇らせて、「まあまあ」と話題を変えようとするが、うまく舵が取れない。それがどうにもおっしょさんの気に入らないようだ。

 おっしょさんがトイレに立ち、タケちゃんがささっと後ろに着いて、足元のふらつくおっしょさんをさりげなく支えて洗面台に消えてしまうと、マスターがいそいそとわたしに尋ねてきた。
「初めて会った子って聞いたけど?」
「なんだか着いてきちゃいまして」
 へらへら笑うわたしの様子に、マスターは呆れたように目を見開いてから、小声で耳打ちしてきた。
「おっしょさんの連れ合いは○○さんなの。○○さんのこと、わかる?」
 その名前に聞き覚えがあるのは、海・山・組の神戸育ちだからだろうか。その筋のまあまあかなりのお偉いさんだ。アルコールでぼやけていた脳みそが、きゅうっと引き締まった。
 なるほど、愚痴に同調すれば、うっかり悪口にもなってしまう。それはヤバい。
 なもんで、おっしょさんからすれば、酒を飲んで愚痴のひとつに共感してもらい、ぱぱっとうさでも晴らしたいのに、場が煮詰まってもどかしい、ということらしい。

 ほんま、偉そうに言うこと聞かしてるけど、あんなんただのあほのおっさんやで。外ではええかっこしとっても、家におったらちいこいことぐっちゃらぐっちゃら。ああ、しんきくさ。あっちに帰ってもらいたいわ。

 本宅が別にあるらしい。むしろそちらにいていただきたいというのが彼女の要望である。
 おっしょさんのモヤモヤは、仕事の面にもあった。
「師匠」の看板をあげて、腕一本で勝負するはずの芸の世界にもかかわらず、私生活を問題視され、実力に見合わない不当な扱いを受けているのだという。
 彼女から語られる権力争いや派閥間で繰り広げられるドロドロは、お連れ合いさんのおられる仁義なき世界のようでもあり、山村美紗のミステリードラマを見ているようでもあり。

 1時間ほど滞在しただろうか。カランコロンと再び鈴を鳴らして店を後にするとき、マスターからはもうどこにも寄らずに、彼女をこのまま自宅まで届けるよう念を押されたし、そろそろ丑三つ時。ダブルの水割り以上に濃い話に酔っていて、わたしもビニールケリーを放り出して家に帰って寝たかった。
 だがしかし、おっしょさんはタクシーの通る大通りではない方向へと、千鳥足ながら強い意志を持って歩き出す。気後れして立ち止まっていたわたしを振り返り、「はよ、鞄持ってきぃ」と声が届く。慌てて小走りで駆け寄るわたし。
「ええか」と、闇に白く浮き上がるおっしょさんの顔が、わたしをぐっとのぞきこんだ。
「あたしはなあ、あんたの時間を金で買うたんや。お金をもろたら、それ相応の働きをせなあかん。鞄もわたしも、なんかあったら、あんたの責任や。もろた分、しっかり働きや」

 そこからは、わたしはもうお酒は飲まずに、おっしょさんの道中の安全をただただ祈願し、わたわたと立ち回った。性的に女性に関心がない(という看板の)男の子たちが接客してくれる店ばかり2、3軒回ったあと、鞄だけでなくおっしょさんの身体も抱えてタクシーに乗りこんだ頃には、長い長い夜がうっすら白く明けてきた。
 高層マンションのエントランス前で彼女を下ろして、無事に中に入るのを見届けると、身体の芯が薄く削られたような疲労感で、わたしはタクシーの後部座席にとてつもなく深く沈み込んだ。

 あれから20年以上経つ。おっしょさんとは二度と顔を合わせることはなく、タケちゃんたちがいたパブもいまはレトロさが持ち味の喫茶カフェに替わっている。
 すっかり夜にも酒にも弱くなり出歩くことが減ったが、つい先日たまたま仕事で少し遅くなった宵の口、パブがあったすぐ横の小さな公園を通りかかると、当時と変わらず妖艶な夜桜が闇に浮かんでいた。
 すると久しぶりにあの夜のおっしょさんの白い顔も、記憶の底からぬらりと浮かび上がってきた。
 そういえば当時の彼女は、いまの自分と同じような年の頃ではないか。
 あのシミひとつない透き通るようなもっちりした肌と、くすんでタルんでパサついた自分の肌が大違いだと、そんなことに気が向く我が身の変化にまず驚いた。
 また、おっしょさんとの思い出を「自分の時間をお金で売らない」などといった人生の教訓に変えていたことが、なんだかつくづくしょうもない。
 ときにわけのわからない勢いに飲まれ、巻き込まれるのも、飽きずに懲りずにいられる人生ではないか。
 50の急カーブに戸惑ってたじろいで、わたしはいつの間にか人生を恐れすぎていたのかもしれない。
 そして散る桜にもののあはれを感じる年齢になったからなのか、当時の彼女の愚痴に、なんかわかるわあと、しみじみ共感めいたものさえ抱いてしまう自分もいる。
 いま会えば、大変ですよねえと、こちらも思わず身の上ひとつも語りたくなり、ぼやいてしまうだろう。そんなわたしを目にしたら、おっしょさんはどう言うだろう。
 あーしんきくさ。
 いや、まったく。

青山 ゆみこ

青山 ゆみこ
(あおやま・ゆみこ)

文筆・編集。神戸在住。猫が好き。「読む・書く」講座やオープンダイアローグをはじめ、さまざまな対話の手法を実践中。著書に、ホスピスの「食のケア」を取材した『人生最後のご馳走』(幻冬舎文庫)、エッセイ『ほんのちょっと当事者』(ミシマ社)。共著に『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房)、震災後の神戸の聞き書き集『BE KOBE』(ポプラ社)などがある。

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