島の底、風のしるし――戦争を聞き継ぐ人類学

第13回

水の旅路(1)

2026.02.19更新

 石畳の道に沿って走る側溝を、光りながら流れていく水。木々に覆われた暗い泉に、こんこんと湧き出る水。空をめぐるものは風、大地をめぐるものは水。船越は、その恩恵を受けてきた土地だ。
 集落の東の端、上門イージョーの屋敷のほど近くに、大川ウッカーという名の井泉がある。島石と呼ばれる琉球石灰岩の石垣で囲まれ、泉の底も縁も石で造られたその場所は、ちょっとした公園の水場のようだ。道路に面した南側からみると、この井泉は手前の下手にある大きめの泉(シチャ大川ウッカー)と、奥の上手にある小さめの泉(イー大川ウッカー)の二つからなり、その間は短い水路で結ばれている。上大川を囲む石垣の一部は木々の生い茂る山の斜面に接していて、そこに開いた二つの樋口から清水が流れ落ちるしくみになっている。現存する大川の姿は、いまから四半世紀ほど前に復元されたものだけれど、井泉そのものは十七世紀頃に建造されたといわれる(1)
 山肌に接した石垣に開いている二つの樋口のうち、東側の樋の突端は丸みを帯びていて、西側のそれは四角い。その理由について、このあたりに伝わる口頭伝承を集めた『たまぐすくの民話』の中で、一九一六(大正五)年生まれの糸数太吉さんはこんな風に語っている。

 (ふな)(こし)大井泉(うっかー)の東側のことをべーべーグヮーと言って井戸は丸い。西っ側の井戸は四角い。なぜかというと船越ではもう三百年以上前に東と西を区別するためには、東側は男だから、丸く作らなければならないと向かって右側の東は丸。西側は女だから女物(みーむん)だから四角にした。船越の場合は、綱引きでも(あがり)の東側は、雄綱(うーんな)、西側は雌綱(みーんな)になっている。だから、あのカヌチ棒〔大綱引きのときに雄綱と雌綱を結合させるための棒〕というのを東側の人が持って行く。西から出さない。そういう伝説がある(2)

 東と西。男と女。その分離と結合の論理が、集落の構造にも、水場の樋にも、年中儀礼にも適用されて、集落とそれを取り巻く環境の中にフラクタルな秩序をつくりだしている。
 下大川を縁どっている島石の中には、隆起した岩石に丸い穴が開いているものがある。この井泉のかつての姿について、湧上さんはこんな風に説明してくれた(3)

〔上大川の樋の〕右側は、丸っこい感じの形。〔...〕左側は四角い。女性の形とか、男性の形という風になってます。上の方は、女性が使っていた井戸ですね。飲み水とか洗濯とか。こっち〔下大川〕は男の人が。〔...〕男の人と、家畜ですね。馬を〔水浴びさせていた〕。〔...〕水路がありますけど、昔は田んぼに水が流れてたんです。〔...〕こういう砂利でね、立派な、底もみえるぐらい〔水が〕透明だったんです。

 大川のほとりには、この井泉の由来を記した絵入りの説明板が立っている。絵の中の大川は松林に囲まれ、上手の泉では小さな子どもを連れた女性たちが水浴びをしたり、洗濯をしたりしている。一方で、下手の泉では少年が馬に水浴びをさせている。下大川の縁石に開けられた丸い穴は、行水をしている間、馬をつなぐ紐を結えておくためのものだったのだ。
 この井泉を取り囲んでいる石垣の上には、年古りたシーサーが東の方角を向いて座っている。島岩を粗く削った素朴なもので、一見したただけでは獅子とはわからないだろう。

 そして、ここには魔除けの獅子があります。〔...〕後ろにも〔もう一体〕あります。向こう側から見えるはずだけど......あれかな。

 戦前から戦中を経て昭和三十年代に入る頃まで、船越の人びとは日常的にこの泉を使っていた。
 男たちは褌一丁で、女たちは腰布を巻いて、子どもたちは裸ん坊になって。陽光にきらめく水を浴び、水と戯れ、皆の声は青空に吸い込まれていく。土の道の向こうには棚田が広がり、その果てには低い山並みが連なる。泉を囲む石垣の上には魔除けの獅子が鎮座して、この場所を見守っている。
 その獅子の横に佇んで、石垣を隔てた隣の屋敷地を見やりながら、湧上さんは思いだしたようにこう続けた。

 じつは、ここの亡くなった方が、キジムナーのことを書いているんです。ここにはウスク木〔アコウ〕が、大きいのがあったけど。〔...〕本には書いてないですが、〔その方は〕ここからうちに帰って、キジムナーに襲われて。意識はあるけど、どうにも〔動けない〕。そういう話をよくなさいました。〔...〕あの方は私の親父の従弟なもんだから、よく行ったり来たりして遊んでました。

 大川の隣の屋敷に住んでいたというその人は、湧上さんの大伯母の息子で、先にも登場した糸数太吉さんのことだ。『たまぐすくの民話』の中で、彼は戦後間もない頃に区の事務所で宿直をしていたとき、夜半に「きれいな七歳ぐらいで一メートルぐらいのおかっぱの女の子」がやって来たという体験を語っている(4)。太吉さんによれば、それは事務所の脇に生えていたガジュマルの木に棲むキジムナーであった。本には書かれていないけれど、彼は大川でも、ウスクの木に棲むキジムナーに遭遇していたらしい。
 大川のほとりの丘の上には、小さな祠が立っている。山のふもとの、松林に囲まれた泉は人びとの寄り合い場であり、神聖な拝所でもあり、ときにキジムナーの出没する、異界に通じる場所でもあった。
 山と水源におわす神々に守られて、その恵みを受ける場所でありながら、そこにやってくる人間たちはあまりに無防備で、ときに危険に曝されもする。スミ子さんの言っていたように、「自然界」とのやりとりはいつもそんな両義性を帯びていて、だからこそ人は祠を建てて、神様たちを懇ろに祀るのだろう。

 それにしても、この井泉の水はどこからやってくるのか。大川のほとりの説明板には、つぎのように書かれている。

 このウッカーは糸数台地からの浸透水が湧き出ており、夏場でも涸れることのない豊かな水量を保っている。〔...〕前方に下ウッカーがあり昭和30年頃までは男性と子供達の水浴びや馬アミシー、フナやウナギの釣り場として利用されていた。

 船越集落の背後にある糸数台地は、水を通さない「クチャ」と呼ばれる泥灰岩層の上に、水を透過させる石灰岩層が堆積した地層からなる。いわば、お椀の上にザルが重なっているような構造だ。石灰岩層を通って地中に浸透した水はクチャ層の上に溜まり、この二種類の地層の間から地上に溢れ出てくる(5)

湧上さん 昔は、〔船越に〕青年会ができる前は、青年団になってたんですね。そういう方々は村のほうから許可を得て、年に一回はここでウナギを捕ってたんです。あちこちに木の汁を流して、それで浮き上がらせてね、出てきたのを捕って。それを売って、青年団の活動費に充てていましたよ。

 地中深くに浸み込み、地層の間から湧き出した水はあちこちの泉や井戸を満たし、川や水路を通って集落の隅々にまで行き渡り、田袋(ターブツクヮ)と呼ばれる水田地帯に流れ込んでいた。豊かな湧き水はこの土地を潤し、船越の人びとはそうやって、水のもたらす自然の恵みを受けとっていた。


(つづく)


(1)船越誌編集委員会(二〇〇二:三五〇)参照。
(2)遠藤編(二〇〇二:一九三)。
(3)本章で引用した湧上洋さんの語りは、二〇二四年三月七日に沖縄県南城市玉城船越で行ったフィールドワークの記録に基づいている。
(4)遠藤編(二〇〇二:三〇八)。
(5)船越誌編集委員会(二〇〇二:八−九)、湧上(二〇一八:三−四)参照。

参照文献
 遠藤庄治編 二〇〇二『たまぐすくの民話』玉城村教育委員会。
 船越誌編集委員会 二〇〇二『玉城村 船越誌』玉城村船越公民館。
 湧上洋 二〇一八『船越集落概況』私家版。

石井美保

石井美保
(いしい・みほ)

京都大学人文科学研究所教授。文化人類学者。これまでタンザニア、ガーナ、インドで精霊祭祀や環境運動についての調査を行ってきた。2020年の夏、アジア・太平洋戦争で戦死した大叔父の遺した手紙を手にしたことから、戦争と家族史について調べ始める。主な著書に『裏庭のまぼろし──家族と戦争をめぐる旅』『環世界の人類学』『めぐりながれるものの人類学』『たまふりの人類学』『遠い声をさがして』など。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台Vol.5「宗教×政治」号』にエッセイ「花をたむける」を寄稿。

石井美保研究室

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