本のこぼれ話

第15回

絵本編集者、担当作品本気レビュー⑦
「ミロコマチコは絵本である――『まんげつおどり』という新境地について」

2026.10.14更新

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2026年9月18日、ミロコマチコさんの絵本『まんげつおどり』が発刊しました。編集は絵本編集者の筒井大介さん、デザインはtentoの漆原悠一さんです。

数々の絵本を発表し、国内外で高い支持を集めてきたミロコさんが満を持しておくる最新作の舞台は、自身が暮らす奄美大島です。島に実際に受け継がれる伝統「八月踊り」から、物語が生まれました。満月の夜、月から落ちてきた「たいこ」を手にした子たちが踊り出すと、そこに、アダンの木々、土、風、砂、波......みんなが加わります。どんどん膨らみ、躍動する踊りは、いったいどうなっていく?

デビュー作『オオカミがとぶひ』(日本絵本賞大賞受賞)、『オレときいろ』(ブラチスラバ世界絵本原画展金のりんご賞)、『ドクルジン』などを編集し、ミロコさんと長年作品づくりを共にしてきた筒井大介さんに、本作をつくりながら考えたこと、作家ミロコマチコの新境地について、「本気レビュー」をご寄稿いただきました。

「絵本の枠に収まらない」?

 「絵本の枠に収まらない」という言葉を時々聞きます。スケールが大きかったり、固定観念にとらわれない自由な発想で創作している作家を評する時に、褒め言葉として使われることが多いですね。そのように言う気持ちはとてもよく分かります。ただ、その言葉を見聞きする度に「わかる、わかるけど、絵本って実は無限なんですよ......!」と言いたくなるのです。そう、絵本は無限。あらゆるものを内包することが出来る無限の器なんです。「絵本の枠に収まらない」なんてこと、ある筈がない。そう思うのです。

 急になんでこんなことを言い出したのか。それは、今回取り上げる絵本『まんげつおどり』の著者が、「絵本の枠に収まらない」と言われる作家の代表、ミロコマチコさんだからです。絵本を作ることを生業としている者としては、これほどの作家が「絵本の枠に収まらない」と言われることは、絵本がスケール的に見合わないと言われているような気がして、ちょっと悔しいんです。なので、今日はなんとか無理やりにでも、ミロコマチコにとって、絵本こそが最高に合った表現なんだ、という方向に持っていきたいと思っています。絵本こそが、この作家の巨大な才能を受け止める器なんだということにしたい。どうかな、やってみます。

生きる中で感じる感覚を動物に託して描く

 絵本『オオカミがとぶひ』でのデビュー以来、ミロコさんは「ダイナミックな動物を描く作家」として大きな人気を集めるようになりました。まずは「動物の人」として世に出たのです。自分もミロコさんと最初に絵本を作る時に、作家の大きな強みであるダイナミックな動物を全面的に活かしたものが良い、という話をした記憶があります。そうして最初に『オオカミがとぶひ』のラフを見せていただいた時に、その傑作ぶりに興奮しつつ、絵本の中での動物の存在の仕方に、作家が動物をどのように捉えているか、動物に何を見ているのかが伝わってきて、「そういうことか」と感銘を覚えたのでした。

 「そういうこと」とは、どういうことでしょうか。絵本の中で、ある動物が、その動物そのものとしては登場していないんです。『オオカミがとぶひ』は「ある天候の変化や、時間の経過などの現象は動物の仕業かもしれない」という発想で描かれました。つまり、生きる中で感じる感覚を動物に託して描いた、ということです。作中にはオオカミやゴリラ、チーターなど様々な動物が出てきますが、それらは全て何らかの現象になぞらえて描かれています。「その動物それ自体」として描かれているものはひとつもありません。それ以降の絵本も、一緒に暮らした愛猫「てつぞう」との日々を描いた『てつぞうはね』を例外として、動物は登場するものの、ある動物そのものを描きたい、というよりは、何らかの感覚、現象を動物に置き換えて描かれていることが多いように思います。そのことがより顕著に表れているのが4作目のオリジナル絵本『オレときいろ』です。同作では、動物はやや抽象化された存在として描かれています。形のない「生命」という存在を、まぶしい黄色に輝く動物に託して描かれたこの『オレときいろ』において、動物たちはもはやはっきりとした輪郭を持っていません。通常、動物を得意とする作家は、如何にして自分の強みである動物を活かした絵本を作るかを考えるものですが、ミロコさんはそこからどんどんと離れていったように思います。

 絵本を作るごとに、そして展示を重ねるごとに、実在の動物、それそのものが描かれることは減っていき、徐々に、オリジナルの生きものが登場するようになります。それは、自然の中に感じるエネルギーを、ある動物の姿に託して描いてきた作家の感覚が、描き続けることでどんどんと鋭敏になっていき、ついに、自分なりのビジョンでその姿を捉え始めたからかもしれません。実在の動物の姿を借りる必要がなくなったという言い方も出来るでしょう。

 その変化は、奄美大島との出会いで加速します。その濃厚で奥深い自然のエネルギーのなかにどっぷりつかって暮らすことで、作家の感覚は急激に鋭敏さを増し、やがて、目に見えない存在を知覚し、描き出すようになりました。『オオカミがとぶひ』の頃からの変貌ぶりには目を見張るものがあります。仕事柄、色々な作家の作品を見ています。その時々によってタッチや描画手法、モチーフが変わっていく、ということはあることですが、ここまで大胆な変化をするのはかなり珍しいのではないでしょうか。

「1つのアイディアとそのバリエーション」

 と、ここまで読むと、まるでミロコさんが全く違う作家になったと思う人もいるかもしれません。でも、僕は今回出来上がった最新作『まんげつおどり』をめくりながら、「やばすぎる......!」「2020年代ベスト級や」、などと興奮しつつ、「ずっと変わらないな、この作家は」とうれしくなってもいるのです。

 「ずっと変わらない」、それはどういうことでしょうか。ミロコさんは日々の中で感じることの中に、アイディアを見出し、そこから絵本を作ってきました。自分が編集を担当した絵本を例に出すと、『オオカミがとぶひ』は、風がびゅうびゅう吹いているのを見て「オオカミが空を飛び回ってるみたいやな」と感じたことから始まっていますし、『オレときいろ』は、春先に落ち着きをなくす猫たちの様子を見ていたのがきっかけです。そこで感じたことの中に、実はこんな生命のうごめきがある、ということを見出し、描いているのだと思います。その「こんな」が絵本を貫き通すアイディアの仕組みを決める重要な要素となります。そして、見出した「こんな生命の営み」の「こんな」が様々な形で反映された場面を絵本の中に描いていく。絵本の中では沢山のことが起こりますが、起こることは全て同じ「こんな」の仕組みで出来ています。つまり、一冊の中で、ずっと同じことを形を変えて描き続けている訳です。実は1つのことしかやっていない。僕はこのことを「1つのアイディアとそのバリエーション」という言い方をしています。1つのことを形を変えて繰り返すからこそ、読者の中に深い体験、体感が生まれる。これはミロコさんに限らず、絵本というものの大きな特長の1つです。

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 「日々の中で起こるこの現象や、こういう感覚には、実はこんな生命のうごめきがある」、ミロコさんは形を変えながら、ずっとこのことだけを絵本で描き続けてきました。それはこの『まんげつおどり』でも変わりません。刊行にあたり、ミロコさんはこんな言葉を寄せて下さいました。

 私の集落は月が昇る海があって、満月の夜は格別です。電灯が少ない島では影ができるほど明るくなります。小さなお庭でぎゅうぎゅうになって踊っていると、意識がどこかへ飛んでいって、波も木々も人々も、夜の世界が一緒くたになったような気がしてきます。その時の感覚をこの絵本で、表現しました。

 奄美の「八月踊り」で、満月の夜にぎゅうぎゅうになって踊っている時の感覚を絵本で描く。そこでは、アダンの木々や土や風が踊り、やがて海の波も、星や月までもが踊りだします。「八月踊り」で踊り続ける中で感じる感覚と、そこにある生命のうごめき。それがこの絵本におけるアイディアであり、そのことだけが描かれています。絵本デビュー作である『オオカミがとぶひ』以降、絵本で描き続けていることが、この『まんげつおどり』でも、形を変えて表現されているのです。ミロコさんはずっとこれをやっている。目に見える表現が変わっていっても、そこはずっと変わりません。ミロコマチコという作家の、自然や生命への眼差しと、その表現に惹かれ続けている自分にとっては、それはとてもうれしいことなんです。動物の絵で人気が出て、沢山お仕事があるのであれば、ずっと動物を描き続けるというのも1つの選択肢だと思います。全然悪いことだとは思いません。でも、それをやらない。自分の感覚に誠実であること。その時々に感じたことを、感じたように描く。ミロコさんにとっては、それが一番大切なことなのでしょう。感覚が洗練されていく中で同じことを表現し続けようとすれば、変わらざるをえない。変わらないために、変わり続けている。ミロコマチコはそういう作家だと思うのです。

 と、ここまで書いて、「ミロコマチコ自体が、絵本そのものなんじゃないか」という考えが浮かんできました。先に「絵本は1つのことだけを、形を変えて描き続ける」と書きました。ミロコさんの絵本もそのように作られている。そして、そこで表現されていることは常に「日々の中で起こるこの現象や、こういう感覚には、実はこんな生命のうごめきがある」ということ。絵本だけでなく、展覧会で発表される作品も、勿論、ミロコさんの感覚が捉えたものが描かれています。形を変えながらも、ひたすらそれを描き続けている。まさに「1つのアイディアと、そのバリエーション」。なるほど。冒頭で「絵本こそがこの作家の巨大な才能を受け止める器なんだということにしたい」と述べましたが、本人が、絵本そのものだったんですね。「ミロコマチコは絵本である」、結果的に「絵本は無限である」と言えそうな着地点でもありますし、この辺りで終わっても良いのですが、もう少し『まんげつおどり』の話を続けます。

作家が新たなステージに足を踏み入れる作品

 さっき、「ミロコマチコは形を変えながらずっと同じことをやっている」と書きました。そのうえで、この『まんげつおどり』はミロコさんがこれまで作った絵本の中でも、特異な作品とも言えるのです。だからこそ、作家がやり続けていることの延長線上にありながらも、新たなステージに足を踏み入れるものになっているのです。

 現在は奄美大島に暮らしているミロコマチコさんが、現地の伝統行事「八月踊り」から着想して作った絵本、それが『まんげつおどり』です。奄美に移住して以来、ミロコさんはこの八月踊りに夢中になり、歌や踊りを覚え、太鼓をたたき、毎年率先してこのお祭りに参加されています。その中で感じたことを、絵本として描いたのです。

 ここが大きなポイントです。ミロコさんはずっと、暮らす中で感じることの中に「こんな生命のうごめきがある」というアイディアを見出して絵本を描いてきました。そこで感じたこと、見えたビジョンを絵本や一枚絵として僕たちに見せてくれています。その感覚がどんどん研ぎ澄まされていく中で、『まんげつおどり』はそこから一歩踏み込んでいます。この絵本は、作家本人が魅せられ、率先して参加している「八月踊り」で、ぎゅうぎゅうになって踊っている時の感覚を表現したものなんです。つまり、暮らしの中で感じる、気づくということから、さらに能動的に、生命のうごめきやエネルギー、そこにいる目には見えない存在を感じる、自らがそのような状態になっている、と言えるのです。

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 深い自然に抱かれた奄美に暮らすミロコさんも、現代を生きる人間です。当然、理性や常識を持って、周囲と折り合いながら生きています。生活する中での様々な雑事にも追われるでしょう。どんな人でも、そこから完全に逃れることは不可能に思えます。絵を描いている時はきっと全てを忘れ没頭出来るのだと思いますが、多忙な暮らしの中で、ずっと絵を描いていられるわけではありません。しかし、真夜中に、ぎゅうぎゅうになって踊り続けるその間だけは、理性や常識、様々な面倒事を忘れ、全てから解放されて、自然と一体化し、普段自らが描く様々な生き物たちの一員として存在することの出来る、ミロコさんにとってはまさに理想の状態を体感するような、とても得がたい時間なのではないでしょうか。

 まず実在の動物を描くことから始まり、やがて目には見えない存在を描き出すというような変化を続けながら、ミロコさんはずっと1つのことを表現し続けてきました。そこには、自然の中で、自然のエネルギーと一体となって生きる存在への憧れのような気持ちがあったのかもしれません。人間は、服を着ないと、食材に火を通して調理しないと、電気やガス、水道などインフラが揃っていないと生きていけない、脆弱で、心もとない存在です。自然の中で生きる動物だったはずの人間は、やがてそのままの状態では自然の中で生きていくことが出来なくなってしまいました。ミロコさんがずっと一貫して、自然のエネルギー、そこにある生命のうごめきを絵本や一枚の絵として描き続けるのは、自分の中に、自然のなかで、そのままの状態で生きることの出来る強さを取り戻そうとしている、ということなのかもしれません。「動物になりたい」という言い方も出来るでしょうか。そんなミロコさんが、自然と一体化するような感覚を得られる「八月踊り」に夢中になるのも必然だったのだと思います。

読むと動物になれる絵本

 踊っている間は全てから解放されて、自然と一体となれる。それはもはや、「動物になっている」と言っても良いですよね。奄美の自然の中で生きることで、ミロコさんの感覚はどんどん鋭敏になっているのだと思います。さっきの話でいうならば、少しずつ、動物になっている、と言えるかもしれません。その過程で感じることを様々な形で絵本や絵として表現してきました。一方で、勿論、人間なんです。だから、僕たちよりはその度合が少ないかもしれませんが、自然と「対峙している」という状態も少しは入ってくるでしょう。でも、一旦動物になってしまえば、感覚が鋭敏になるとか、見出すとか、そんな次元ではなく、自然の中に生きる存在そのものとして、見て、感じることが出来るのです。八月踊りで踊っている間、ミロコさんは動物になって全てを知覚しているのではないでしょうか。つまり、踊っている時の感覚を描いた『まんげつおどり』は、「動物としてのミロコマチコ」が感じたことが表現されている、と言えるのです。だからこそ、そこで描かれる感覚の濃厚さは過去最高だと言えるでしょう。

 ミロコさんの絵本や作品は常にものすごいエネルギーを内包していますが、『まんげつおどり』の絵を見せてもらった時のことは忘れられません。ページごとに新たな踊り手が登場し、どんどん周囲を巻き込みテンションは上がり続ける。まるで絵そのものが踊っているように感じ、やがて自分も踊っているような感覚を覚えて、とても驚きました。踊り続けてやがてトランス状態に突入し、自然と一体となるような感覚、それを絵を見ているだけで感じることが出来るとは。絵本編集者的な視点で付け加えるなら、単に上がり続けるだけでなく、緩急を巧みに使えるところは絵本作家としてのミロコさんの素晴らしいところであり、今回もそれが効いています。上がり続けて一旦休んだあと、ページをめくると素晴らしいクライマックスが待っています。ピークが何度も更新され続ける快感をぜひ体感してください。

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 『まんげつおどり』にはある特定の主人公が存在しません。月から落ちてきた太鼓を叩き、踊る月の子どものような存在が登場しますが、必ずしもこの子たちだけが主体というわけでもありません。絵本の中では全てが踊ります。この自然の中に存在する目に見えるもの、見えないもの、その全てが踊っているのです。そして、先述の「小さなお庭でぎゅうぎゅうになって踊っていると、意識がどこかへ飛んでいって、波も木々も人々も、夜の世界が一緒くたになったような気がしてきます」という言葉の通り、全てが溶け合い、やがて渾然一体となる。そこでは全てが等しく存在しています。動物となって踊りまくるミロコさんもどこかにいるのでしょう。いや、この絵本で踊る全てが、「動物としてのミロコマチコ」だと言えるのかもしれません。踊りながら、木になり、土になり、風になり、月や星になり、全てになっているのです。それをそのまま描いたら『まんげつおどり』になった。作家史上、最もぶっとんだ作品でありながら、実は見たまま、感じたままを描いているという、実録絵本でもあるのです。

 そう、実録。なにせこの絵本には、全編にわたって、実際に八月踊りで歌われる唄の歌詞が登場するのです。「動物ミロコマチコ」が見て、感じたビジョンと共に歌われるのは、その土地の人々に連綿と受け継がれてきた、豊年を祝い、祈願する言葉。様々な形で自然のエネルギーとそこにある営みを描いてきた作家の表現が、土着の風習、言葉、そこにある人々の願いと繋がり、これまでにない強度を持ちえた作品だとも言えるでしょう。

 絵本を開けば、太鼓の音が響き、歌声が聞こえてきます。やがて何もかもが踊りだす。読み進めるうちに巻き込まれて、単なる読者でいさせてはもらえません。いつの間にか、絵本の中で全てを忘れて踊っていることでしょう。その瞬間、自分も動物になっているのです。今まで、僕たちはミロコマチコの絵本から自然のエネルギーを分けてもらっていました。この『まんげつおどり』は分けてもらうだけでなく、そこからさらに踏み込んだ、「読むと動物になれる絵本」なんです。そういう意味で、ミロコさんがずっとやって来たことの、現時点でのピークと言っても良いかもしれません。

「ミロコマチコという絵本」のこれから

 と、ここで、「ミロコマチコは絵本である」説に戻ってみたいと思います。絵本は1つのアイディアとそのバリエーションで出来ている。つまり、形を変えながら1つのことをやり続けているミロコマチコはもはや「絵本そのもの」といっても差し支えないでしょう。これが「ミロコマチコ絵本説」の理屈です。そうなると、もはや「絵本の枠に収まる、収まらない」の話ではありません。本人が絵本なんだから、何をやってもそれはそういう絵本の展開なんです。この考えでいくなら、『まんげつおどり』はまだミロコマチコという絵本の中盤に差し掛かったくらいなんだと思います。ここまででのピークというのは間違いありませんが、ミロコさんが相手にしているのは自然そのもの。感覚が鋭くなればなるほど、知覚出来る情報量は増えていく。しかし同時にそれは、深淵はさらにずっと先にあると気づくことでもあるでしょう。より感じられるからこそ、その果てしなさにも気づくことが出来る。そう考えると、今はミロコマチコという絵本のやっと中盤、どんどん盛り上がってきて読者がどんどん巻き込まれていくあたりと言えるかもしれません。ピークはまだまだ先にある。

 絵本を作る時、編集者として様々なことを考えますが、クライマックスの盛り上がりもとても意識しています。1つのアイディアとそのバリエーションで展開しつつ、後半はどんどん盛り上がって読者を飽きさせないようにしたい。ピークは出来れば何度も更新したい。そう考えています。この『まんげつおどり』も終盤、何度もピークを更新しながら進んでいきます。そうやって、読者を遠くまで連れて行くのです。だとすると、ずっと先にやってくるであろう「絵本・ミロコマチコ」のピークはどんなすごいことになるのでしょうか。その時、自分は何を感じ、見ることが出来るのか。それを楽しみにしつつ、今は『まんげつおどり』を開いて動物になり、気持ちよく踊っていたいと思います。

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プロフィール

筒井大介(つつい・だいすけ)
1978年大阪府生まれ。絵本編集者。教育画劇、イースト・プレスを経てフリー。野分編集室主宰。担当した絵本に『ドクルジン』(ミロコマチコ)、『ぼくはいしころ』(坂本千明)、『ネコヅメのよる』(町田尚子)、『てがみがきたな きしししし』(網代幸介)、『ぼく』(谷川俊太郎/作 合田里美/絵)、『ねこまがたけ』(加門七海/作 五十嵐大介/絵)、『100ねんごもまたあした』(瀬尾まいこ/作 くりはらたかし/絵)、『よるにおばけと』『はるってなんか』(みなはむ)、『ゆきのゆきちゃん』(きくちちき)、『ゆめがきました』(三好愛)など多数。『ブラッキンダー』(スズキコージ)、『オオカミがとぶひ』(ミロコマチコ)がそれぞれ第14回、第18回日本絵本賞大賞を、『こどもたちは まっている』(荒井良二)が第26回日本絵本賞を受賞。『オレときいろ』(ミロコマチコ)が2015年度のブラチスラバ世界絵本原画展において第2位にあたる「金のりんご賞」を受賞した。編著に『あの日からの或る日の絵とことば 3.11と子どもの本の作家たち』がある。水曜えほん塾、nowaki絵本ワークショップを主宰し、作家の発掘、育成にも力を注いでいる。2023年10月~2024年1月、京都dddギャラリーにて展覧会「はみだす。とびこえる。絵本編集者 筒井大介の仕事」が開催された。京都精華大学デザイン学部特任准教授。

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