第9回
中嶋監督は「三原系」の名将である
〈西村健〉
2023.10.25更新
NPBのライバル・ストーリーの元祖 三原VS水原
パ・リーグ三連覇を果たしたオリックス・中嶋聡監督の胴上げを見て、ふと思った。
ああ、パ・リーグでは、「三原系」と「水原系」のせめぎあいが繰り返されているのだな・・・と。
三原脩(おさむ)と水原茂。ともに、中嶋監督と同様リーグ三連覇の経験がある名監督(水原は五連覇)であり、終生のライバル関係にあった。NPBではこれまで江川と西本、桑田と清原といったさまざまなライバル・ストーリーが綴られてきたが、この二人がその元祖だといえよう。
1909年生まれの水原茂は香川・高松商に進学し、投手・三塁手として1925年と27年の甲子園全国制覇に貢献。その後慶大でも神宮のスタープレイヤーとして観客を魅了。1936年秋に巨人軍に入団し、レギュラー三塁手となる。しかし、1942年に応召して、シベリア抑留を経験することになる。
一方の三原は、水原より3学年年下の1911年生まれ。香川・丸亀中から高松中に進学したのだが、水原の高松商と三原の高松中は町全体をも二分するライバル関係にあった。その後三原は早大へ進学。1931年の早慶戦で、投手・水原茂を相手に敢行したホームスチールは伝説的に語り継がれている。そして1934年に「プロ契約選手第1号」として大日本東京野球倶楽部(のちの東京巨人軍)に入団。1936年にプロ野球が始まり、三原は二塁手として活躍。選手としては1938年に引退するが、1947年に球団から要請を受けて、巨人軍監督に就任した。
1949年には見事リーグ優勝を果たすが、翌年驚くべき監督人事が発表される。監督に水原が就任、三原は指揮権のない総監督に祭り上げられたのだ。三原の指揮権が剥奪された理由は「三原が水原を冷遇したから」というのが定説になっている。1949年、シベリアから帰国しチームに復帰した水原を、監督三原はなぜかほとんど起用しなかった。そのことに球団内部から怒りの声が上がり、三原排斥につながったといわれている。
監督として巨人を指揮した水原は、1951年から53年まで三連覇、1955年から59年まで五連覇を果たす。1938年から42年まで五連覇した藤本定義監督時代に次ぐ、巨人軍の第二次黄金時代である。
しかし1956年から58年、水原は最も負けたくない相手に対し、日本シリーズで3連敗してしまう。三原脩監督率いる西鉄ライオンズである。巨人を追われた三原はその後、福岡が本拠地の西鉄の監督に就任し、中西太、豊田泰光らの流線型打線(2番・豊田から長打が続く打線)を率いてリーグ最強チームに育て上げる。そして58年・59年と2年連続MVPに輝いた藤田元司や58年に新人王を獲得した長嶋茂雄らを擁する巨人と対峙し、稲尾和久の4連投4連勝(58年)などにより撃破。この時の稲尾の尋常ではない活躍(なにしろ、58年日本シリーズの稲尾の戦績は4勝2敗で、西鉄の戦績は4勝3敗なのである。7試合のうち6試合で責任投手となったのだ)に対し、三原は「神様、仏様、稲尾様」と最大限の賛辞で称えた。
「情感」型の三原、「納得」型の水原
――長々と、オールドファンにはよく知られた話を続けてしまったが、上述の通り、三原も水原も三連覇を経験している、まごうことなき名監督だといえよう。だが、監督としてのスタイルは正反対であったようだ。
『私が選ぶ名監督10人』(光文社新書)という、名将・野村克也の名著がある。同書の中で野村は、「選手の動かし方」により、監督を五つの類型に分類している。
「管理」=川上哲治、広岡達朗
「納得」=川上哲治、水原茂、森祇晶、落合博満、野村克也
「情感」=川上哲治、三原脩、西本幸雄、星野仙一
「報酬」=川上哲治、鶴岡一人
「実績」=川上哲治、長嶋茂雄、王貞治
すべての項目に川上が入っているのはともかく、水原は「納得」型、三原は「情感」型だという。「納得」型は、「根拠で納得させて選手を動かす」。一方「情感」型とは、「自分の意思を選手に伝え、選手の心に訴えて、プレーさせる」監督である。
水原は巨人や、その後監督を務めた東映で、ときには主力の大杉勝男選手にビンタを食らわせるなど選手たちに厳しく接し、猛者たちをもまとめあげたという。また、ブロックサインを日本の野球に導入した監督だともいわれている。選手の個性を引き出すというよりは、「勝つ野球」の基本を選手に叩き込んだ監督だったといえよう。そしてそれは、上記の川上、森、落合、野村にも共通していることである。
一方、情感型として名前があがっている三原は、選手のやる気を出させ、その気にさせることに長けた監督だった。『私が選ぶ名監督10人』には、「三原采配は、『野武士軍団』と呼ばれた個性豊かな選手たちをこれでもかとばかりにほめ上げ、選手たちに気持ちよく、のびのびとプレーさせるものであった。豊田泰光、中西太、大下弘、稲尾和久らが活躍してダグアウトに戻ってくると、抱きつかんばかりの笑顔で迎えた」とある。三原は「野武士軍団」の「個」の力を十分に引き出したのである。
さらに三原が長けていたのが、「三原魔術」とよばれる大胆な選手起用であった。先ほど述べた流線型打線も、当時の日本球界においては画期的な発想であったといえる。また、三原監督が発明した戦術「当て馬」も三原魔術の一つだといえよう。「当て馬」作戦とは、予告先発制度が導入される前、相手チームの先発投手が右か左かわからないときに、実際には打席に立たない選手をスターティング・メンバーに置き、試合が始まり相手投手が判明したら代打を出す、というものだ。多いときには、スタメン9人のうち7人が当て馬だったこともあるという。
三原魔術と中嶋イリュージョン
さて、この三原魔術という言葉を聞いて、最近の例で何か思い出さないだろうか。そう、昨年よく聞かれた、オリックス・中嶋監督独自の意外性あふれる采配を表す言葉、「ナカジマジック」あるいは「中嶋イリュージョン」である。
中嶋イリュージョンで私が印象に残っているのは、2021年の日本シリーズ進出を決定づけた、クライマックスシリーズファイナルステージ第3戦における、小田裕也のサヨナラバスターである。相手はロッテ、2-3と1点ビハインドの9回裏、無死一・二塁で打席に立ったのは、8回から守備固めで起用された小田。小田はこのシーズン、わずか1安打であった。その小田に対して、最初はセオリー通りバントのサインが出たが、投手益田を中心にロッテ内野陣がマウンドに集まったのを見て、オリックスベンチは強攻策に切り替え、「バスター」のサインを送る。強振した小田が放った打球は二塁打となり、「サヨナラ引き分け」でオリックスは激闘を制したのであった。
おそらく、ロッテ内野陣がバントシフトを敷いてくることを予期し、小田の様子も見て中島監督は戦術を切り替えたのだろうが、試合後強攻策について問われた彼は「いちばん聞かれたくない。答えません」と何も語らなかった。だからこそ「中嶋イリュージョン」なのだが、とにかく選手のデータと、選手の調子や状況をよく見ている監督であることは確かだといえよう。
三原と中嶋の共通点はそれだけではない。どちらも選手をやる気にさせるのがうまい。
2020年、二軍監督であった中嶋が一軍の監督代行を務めることが決まった時、二軍でくすぶっていた杉本裕太郎に寮の風呂で「俺と一緒に一軍に行こう」と声を掛けた話は有名である。杉本は翌年、一軍で本塁打王を獲得する大ブレークを果たした。
厳しい処置をとることで選手の力を引き出すこともある。23年の開幕当初、レギュラーに定着した紅林弘太郎を二軍に降格させた。これをきっかけに紅林は一皮むけたようで、2022年のOPS(出塁率+長打率)は.593だったが、23年のOPSは.695と急成長したのであった。紅林は「二軍に行かせてくれた監督には感謝しています」と語っている。
三原と中嶋をつなぐ存在とは?
というわけで、三原監督と中嶋監督は似ているのだが、もう一歩踏み込んで、「中嶋監督は三原野球の伝統を受け継ぐ存在である」といってしまいたい。
おいおい、それはいいすぎだよ、という声が聞こえてきそうだ。三原がプロ野球の現場を離れたのは1973年。この年にヤクルト監督を辞したのち、日本ハムの球団社長に転身している。その後、1984年に死去。一方中嶋聡が阪急ブレーブスからドラフト3位で指名されたのは1986年。この二人には直接の接点が全くない。中嶋が三原の野球を受け継ぐ機会はないようにみえる。
しかし、この二人をつなぐ、もう一人の名将がいるのである。80年代末から90年代に、近鉄やオリックスの監督をつとめた仰木彬である。
仰木は日替わりオーダーや小刻みな継投を好むなど、従来あまり見られなかった用兵を行なった。その自由自在な戦術(かなり精緻にデータを分析していたようだが)は「仰木マジック」と称された。また仰木は、野茂英雄やイチローといった個性的なフォームの選手の能力を開花させることに成功した。選手の「個」の力を伸ばし、スーパースターを生んだのである。
そんな仰木は、現役時代、西鉄ライオンズの正二塁手であった。つまり、三原野球にどっぷり浸かって選手時代を過ごしたのである。プレイヤーとしてのポジションまで同じなのだから、三原からかなり大きな影響を受けているのは間違いないところだろう。
野村克也は仰木について、こう述懐している。「投手交代を告げるときに、腰に手をそえて、やや上を見上げながらベンチから出てくるしぐさ、ああいう『カッコつけ方』が三原監督とそっくりだった」と。しぐさからマジックまで受け継いでいるのなら、三原野球の最大の継承者は仰木だと言えるのではないだろうか。
さて、中嶋監督が、選手時代、レギュラーとして優勝を経験したのは1995年と96年の2回である。その時のオリックスの監督が、仰木彬であった。
1995年のオリックスとヤクルトの日本シリーズでは、「小林とオマリーの14球」の名勝負が生まれた。そのとき、小林宏を捕手としてリードしたのが、中嶋であった。95年はヤクルト相手に1勝4敗とコテンパンにやられてしまったが、翌96年は巨人相手に4勝1敗と快勝。1995年と96年の間に、チームがワンランク強くなるということを経験した中嶋は、チームの指揮官であった仰木監督から学ぶものが多かったのではないだろうか。
ただ実は、96年の日本シリーズにおいて主戦捕手を務めたのは、中嶋ではなく、高田誠であった。5試合中4試合で高田が先発出場している。中嶋と仰木はあまり反りが合わなかったともいわれている。
中嶋が仰木の野球の一部を受け継いでいるのは確かだと思われる。「未完の大器」であった山下舜平大を一軍に定着させるなど、スターの力を引き出すに長けている点も共通している(他方、性格も含め癖のない山本由伸の場合は、中嶋が彼の力を引き出したとは言い難く、どんな監督の元でもエースになったのではないかと思われる)。だが、仰木のすべてを参考にしているわけではないようだ。仰木はチームの一流選手には何もいわなかったが、控えの選手には非常に厳しく、自分の意向にとまどいを示した選手は容赦なく二軍に落としたと言われている。いわば恣意的な面もあったといえそうで、こうした面を中嶋は快く思っていなかったのではないか。
水原系の森、そして秋山、工藤、辻・・・
さて、中嶋が2021年から三連覇を果たす前、パ・リーグで強かったのは、西武ライオンズ出身の監督が率いるチームであった。リーグを制覇した監督とチームを列記すると、2014年秋山ソフトバンク、15年工藤ソフトバンク、16年は栗山日本ハム、17年工藤ソフトバンク、18年・19年は辻西武、20年工藤ソフトバンクとなる。16年を除き、秋山幸二・工藤公康・辻発彦と、森祇晶がつくりあげた西武黄金期のメンバーが、入れ替わり立ち替わりリーグを制している。
森祇晶は、上記の五類型で「納得」型の典型例に挙げられている名監督であり、90年から94年まで五連覇を果たしている。捕手であった森は、1954年に、水原が率いる巨人に入団。59年からレギュラーに定着するが、これは水原の抜擢によるものだといえる。当時「打てる捕手」としてチームのスターの一人だった藤尾茂を、打撃を活かすためにセンターにコンバートし、空いた正捕手の座を森に与えたのだ。
60年限りで水原は退団。翌年巨人の監督に就任した川上も森を信頼しレギュラーで使い続け、森は「V9巨人の司令塔」として君臨した。そんな森は水原野球、さらには川上やヘッドコーチとして仕えた広岡達朗の「管理」型野球の影響を受けているといえよう。ただし、西武監督時代の森は、野球の基本を選手に徹底させたが、選手の生活を厳しく管理するということはなかった。だからこそ野村氏も、森を川上・広岡の「管理」型ではなく、水原と同じ「納得」型に分類しているのだろう。
森監督の「納得」型を、秋山・工藤・辻も受け継いでいると思われる。仰木や中嶋のように意外性のある(と思われる)采配をしたり、オーダーをころころ変えるということはなく、野球の基本を徹底させ、オーダーはあまり変えなかった(工藤は結構変えたが)。彼らのオーソドックスな采配に、選手もあまり疑問を感じることはなかった。一方、広岡のように選手の生活を厳しく管理するということもなかった。いわば彼らは水原系・「納得」型の監督だといえる。
三原系VS水原系の名勝負が見たい!
思えば、パ・リーグでは三原系と水原系のせめぎ合いが繰り返されてきた。62年から67年は、三原野球を受け継ぐ中西太が率いる西鉄と、水原が率いる東映がしのぎを削った。西鉄は優勝1回、2位2回、3位2回、それに対して東映は優勝1回、2位1回、3位4回であった。
88年からは森西武と仰木近鉄が覇権を争い、89年を除いて森が勝利した。そして2021年、水原系のソフトバンク・西武から、三原系のオリックスに覇権がうつった。
私は2024年以降も、パ・リーグで三原系と水原系のせめぎ合いが見られることを期待しているのだが、懸念しているのは、来年のパ・リーグに「水原系」の監督がいると思えないことである。
ロッテの吉井理人監督は、どう考えても、三原系である。オーダーをころころ変える、若い選手の言うことを否定しない、若手の横山陸人をいきなり抑えで起用するなどの意外性・・・近鉄時代に仰木監督の下でプレーしたこともあり、まさに三原系の系譜を受け継ぐ存在だといえよう。
ホークスを率いることになる小久保裕紀は、日本代表監督を務めた際、不可解とも思える采配をふるって批判を受けた。「納得」型の監督としてホークスを立て直すことができるのかどうか、一抹の不安が残る。楽天は今江敏晃、西武は松井稼頭央、日本ハムは新庄剛志・・・。彼らのうち、水原系の監督の下でプレーした経験があるのは、18年に辻西武に在籍した松井だけである。ひとまず、小久保と松井が監督として一皮むけて、「納得」型の緻密なタクトを振るうことを期待している。