朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第4回

「普通」に翻弄され、「普通」に逃げ、「普通」に居つくことを超えてⅠ(前編)

2024.06.04更新

 去年9月23日、韓国のパジュ(坡州)市でミシマ社の三島さんのご講演がありました。僕ははるばる遠い釜山から駆けつけました。三島さんのお話とても面白かったです。大盛況に終わったご講演のお祝いも兼ねて、会場の近くにあるマッコリ屋さんでみんなで打ち上げをしました。韓国のYuYu出版社の皆さんと、ミシマ社の三島さんをはじめ、野崎さん、そして角さんと、杯を交わし親交を深めながら「本を作ること」や「本を読者に届けること」だけでなく、多岐にわたる話題について熱く語り合いました。 というか、僕は両国の言葉を一所懸命通訳しました。
 そして、僕が外国人として普段不思議がっていてなおかつ面白がっている「日本語」の特徴をはじめ、話題があっちにいったり、こっちにいったりするなか、三島さんから「捨てないミシマ社」という新たな本の届け方を伺うことができました。「捨てないミシマ社」という実践は、断裁対象となっていた再出荷不能の傷んだ書籍ばかりを集めて販売しようという試みです。そのことをYuYu出版社の皆さんに通訳しているうちに、僕は思わず「それはある種の新しい普通づくりですね」ってぼろっと言ってしまいました。この言葉を聞いたミシマ社の皆さんは、一斉に「まさに! 新しい普通づくりです!」と激しく反応してくれたのでした。
 それからちょっと間が開いて、三島さんから突然「朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして」というタイトルで「みんなのミシマガジン」で連載をされるのはどうですかという提案をいただきました。思いがけない提案にちょっと戸惑いもありましたが、「キャリアのドアは自分で開けるものではありません。向こうから開くのを待つものです。そして、ドアが開いたら、ためらわずそこに踏み込む」という内田樹老師の教えに従って、僕は「僕でよければ、はいやります!」と即答してしまいました。
 そして、われわれがいつもそこに浸かって生きているありふれた、どうでもいいような「日常」をネタにして、「普通」というテーマで文章が書けるのでないかとなんとなく思ったのです。しかし、こんなに身近なものなのに、いざそれを言語化しようと試みてみると、どうにもはっきりしなくて、どう説明したらよいやらわからないような気分になります。難しすぎてよくわからないというよりは、「普通」はあまりにも「あたりまえ」に頻繁に起きすぎていて、いまさら言語化しようと思ってもしようがない、という感覚の方が強いかもしれません。
 あまりにも「あたりまえ」のことについて問われると、われわれは逆に苛立ったり、途方に暮れたりしますよね。そのような次元は、いつもすでに経験され、生きられていて、気づけばいつもそこにあるのですが、 あらためて語ろうとすると、言いよどみ言葉を失ってしまいます。よく馴染んでいて、自分自身の生と一つになっているがゆえに、それについて語ることはかえって難しい。語る言葉が見つからない。「あたりまえのこと」は、通常、語らなくてもわかっているからですよね。
 しかし立ち止まって、いままであたりまえと思ってすっと通り過ぎていたものを、いろんな角度から見つめ直すことによってはじめて、我々の経験と生は、言葉を失うほどある種の「謎」として我々の前に今更のように立ち現れてくるのではないでしょうか。
 ヴィトゲンシュタインという哲学者は、われわれがいつもすでに「自明な仕方で」生き抜いていると思われている「日常」に「一歩一歩、徒歩で」近づいてゆくことの大事さをつぎのように述べています。

 ご存知のように、「確実性」とか「蓋然性」、「認識」などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども、君の生活について、また他人の生活について、真面目に考えること、考えようと努力することは、できないことではないとしても、 哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、学問的にははりあいのないことだし、どっちかというと、まったくつまらないことが多い。けれども、そのつまらない時が、実は、もっとも大切なことを考えているときなんだ。

(ノーマン・マルコム著『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』pp.41~42、平凡社ライブラリ)

 我々が丁寧に汲み上げて言語化するのを待っている日常の片鱗が、あちこちに広がっているということですね。それから、その片鱗の深淵は日常のつまらなさとたいくつさに黙々と付き合うものの前にしか開口しないと思います。 言葉にならないものの『言葉にならなさ』を守る方法は、情理を尽くして語ることの他ないという永遠の背理をまっすぐ背負うこと。「片鱗の深淵」はそうすることによってしか開かれないと思います。

 ハーヴィー・サックス(Harvey Sacks)というアメリカの社会学者は、「誰も助けてくれる人はいない」という、だれでも「あたりまえ」だと素通りしてしまうような一言を手掛かりにして、「日常」を生き抜くことや「言葉」を発すること、そして「社会学者」が取り組むべきことについて、当時彼以外の誰も思いついたことがないような「あっと驚くような」論考を展開しています(*1)
 サックスは自殺志願者および自殺志願者の周りの人から、自殺防止センターにかかってくる電話データを分析しています。サックスが注目したのは「誰も助けてくれる人はいない」、「だれも頼りになる人がいない」という言葉が、電話の中で自殺志願者によって自殺防止センターのスタッフに対して繰り返し語られることでありました。この論考で、彼の深い洞察力はほとんど感動的ですらあります。と同時に、その一ページことに敷きつめられた細かい文字の列をおっていくと、はて、と思うことがあります。サックスの鋭い視点は、まさに高村光太郎が言っていた「日常の瑣事にいのちあれ生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」に通じるところがあるのではないか。サックスが実際にやっていたことは、ある見方からすると非常にみみっちいことをやっているように映るに違いないと思われますが、 彼は「社会にはゴミはない」 という言い方をしているのです。 多くの人にとって「こんなものはゴミだ」といって簡単に切り捨てられるような些細なものでも、実はそれこそ物事の本質にせまるうえでは欠かせないので、きちっと見ていきましょうというのが、サックスのスタンスなんです。
 自殺志願者が繰り返し口にする「誰も頼れる人がいない」という表現の反復可能性は何によるのか、この表現はどのようにして反復可能な仕方で産出されるのか。サックスはその方法・手続きを精緻に探究しています。サックスの議論は概ねつぎのとおりです。
 私たちは、人を指し示すのにカテゴリーをもちいています。 それは「男」であったり「大人」であったり「父」であったり「警察官」であったりします。 サックスは、カテゴリーの使用についていくつかの際立った特徴を指摘しています。 第一に、 私たちは、人を指し示すために特定のカテゴリーをもちいるとき、実は単に個別のカテゴリーをもちいているだけではなく、「特定のカテゴリー集合の要素」としてのカテゴリーを用いています。つまり、カテゴリーをもちいるとき、それは「カテゴリー集合」へも差し向けられているということです。Aが「父」であるならば、 Aは『「父」「母」「子」・・・』というカテゴリー集合(つまり「家族」という集合)の要素としての 「父」であります。 だから、 BがAと同じ「家族」の集合の一要素(たとえば「母」)であるとき、 Aを指示するのに「父」を用いたならば、 Bを指示するときに、「母」を用いるのが自然であります。 もし「雅弘は父と警察官と一緒に出かけた」と言うならば、その「警察官」は(少なくとも)太郎の「母」ではないように聞こえてしまいます(たとえ太郎の母が実際に警察官であったとしても)。
 第二に、一人の人を指し示すのに単一のカテゴリーだけを用いてよいということです。たとえば雅弘のお母さんを指すのに「雅弘のお母さん」と言わずに 「お母さん」だけでもよい(「お母さんが帰ってきたので雅弘は泣き止んだ」)。
 第三に、 カテゴリー集合内の諸要素のあいだには、特定の関係が予想できます。 たとえば、「父」は 「母」に対してどう振る舞うべきか、「父」は「子」に対してどう振る舞うべきか、といったことについて、私たちは「一般的な期待」をもっています。 つまり、たとえその「父」のことを(その人が「父」であるということ以外)何も知らなかったとしても、「父」であればもじもじしている「子」に「お礼を言いなさい」 と言うことが予想できるし、実際にそう言ったならばそれは「父」だからだと了解することができます。
 さてサックスが用意するのは、自らRと呼ぶカテゴリー集合であります。それは、『「夫-妻」「親-子」「兄弟-兄弟」「友人-友人」「他人-他人」』という、 対関係にある「カテゴリー対」から成っている複合的な集合であります。このカテゴリー集合の要素は任意の特定の二人を対関係化する性能をもち、しかも、上述の三つの特徴をすべてもち合わせています。私たちはこの集合の要素を一つのまとまりとして日ごろ用いています。 実際しばしば、「親子か」と聞かれてそれを訂正するとき、 たとえば「兄弟だ」と答えたり、あるいは「夫婦か」と聞かれて「友達だ」と訂正したりします(つまり、Rの要素を、同じRの別の要素で置き換える)。また、それぞれの対関係に「一般的な期待」が付着しているだけでなく、対関係同士のあいだにも特定の関係が一般的に期待できます。対関係内の二カテゴリー間に期待される一定の振る舞いについて、対関係間に序列が期待できるということです。たとえば、問題が起きたときに最初に相談するべき相手は、結婚していれば配偶者であろうし、そうでなければ親である可能性が高いでしょう。 配偶者も親も身近にいなければ友人に相談するかもしれない。
 一方、 他人に(まさにその人が「他人」であるがゆえに)そのような相談をすることは、むしろありえません。サックスは、このRの要素間の序列にもとづいて、Rの要素を「問題が起きたとき相手に相談することが適切である」関係と「不適切である」関係に分割し、それぞれ(Rの部分集合)を RpとRiと名づけています。
 このように道具立てを揃えてみると、自殺志願者の「誰も頼れる人がいない」という発話がどのような手続きに従って産出されたかがようやく見えてきますよね。
 第一に、「誰もいない」は、Rp対関係を結ぶべき相手がいないことを、単一のカテゴリーで表現しています。それとともに、電話のかけ手(自殺志願者)と受け手の関係は、Riの要素によって(つまり「他人同士」として)定義されます。第二に、自殺願望という問題について相談するのが適切である相手がいないことを訴えることで、助けをRi関係の相手、つまり「他人」に求めるにいたる経過が述べられています。つまり、最初から「他人」に助けを求めているわけではないことが主張されます。第三に、電話のかけ手と受け手がRi関係にあるかぎり、前者が後者にR関係にもとづいて助けを求めるということは正当化されないということです。Rp関係の相手がいないことを訴えることは、Rによって助けを求めることが断念されていることを主張します。 つまり、そうすることで、Rではなく、『「専門家」「素人」』というカテゴリー対(これをサックスはRとの対比でKと呼んでいます)が、当人たちの関係を定義する道具立てとして呼び出されます。いわば、相手は「他人」であるにもかかわらず、「専門家」であるがゆえに、「素人」である自分が助けを求めるのに適切だというわけです。
「誰も頼れる人がいない」という発話は、このような手続きに従って、第一に、「他人」に対する助けの求めとして、第二に、見ず知らずの「他人」に対して助けを求めることの正当化として、反復的に産出されるのであります。その発話はそれ自体、助けを求める活動であり、かつ同時に活動がどのようになされたかの報告にもなっています。
 サックスはこの方法・手続きの探究を「自然の観察科学(natural observational science)」と呼んでいます。その理由は、探究するべき方法・手続きは、「自然のままに非人為的に観察可能」(*2)だからです。 私たちが日ごろ自分たちの活動を行なうために、あるいはその活動について報告するために用いている方法・手続きは、研究者の分析以前に私たちの活動および報告とともにすでにそこにあるわけです。そして、それは個人的な好みなどをこえており、私たちの日々の活動において自然のままに公的に観察可能であり、利用可能であります。だから、その方法・手続きを捉えるために、特別の実験装置は必要ではない(ましてねずみの脳細胞を調べるように人間の脳を調べる必要もない)し、特別な科学的な操作化を行なう必要もないということです。それは、自殺志願者とスタッフが行う記述を批判したり矯正したりすることを目指すのではありません。ちょうど、昆虫学者がミツバチのダンスを研究するとき、ミツバチのダンスの仕方を批判したり矯正したりしようとしないのと同様に、です。
「誰も頼れる人がいいない」という発話の産出手続きの探究は、自殺志願者が助けを求める手続きの探究だったわけです。このように「些事」に注目する「カテゴリー化分析」のおもしろいところは、普段私たちが何気なく行っている会話が、非常な細部にいたるまでシステマティックに構成されていることを教えてくれるところです。しかも、私たちはそれをほとんど無意識的に行っていて、会話の微細なメカニズムに習得していながら、それに気づくことはまったくない(seen but unnoticed)といってよいでしょう。サックスが創り上げた学知である「カテゴリー化分析」は日常会話を録音して分析するというある種の顕微鏡を発明したといってもいいでしょう。いったんその顕微鏡を覗いてみたら、そこには見る者をどんどん引き込んでゆく微細な文化の装置が広がっていたということですね。
 では、僕も三島さんの「朴先生もミシマガジンで連載をはじめられるのはいかがですか」という一言を手掛かりにして「当たり前」や「普通」についてちょっと掘り下げたいと思います。 具体的で、限定的で、断片的なものの方が「普通」という概念をしっかりとかたちにしてくれる。その方が「腑に落ちる」。これは僕の直感です。観念を弄んでもどこにもたどりつけない。それより具体的なものから始める方がいい。

(後編につづく)


(1)Sacks, H. (1966). The Search for Help: No One to Turn to, Ph. D. dissertation, University of California, Berkeley.
(2)Sacks, H. (1992). Lectures on Conversation. 2 vols. Oxford: Basil Blackwell.

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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