朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第14回

「無視する行為」は無視できない(後編)

2024.12.11更新

(前編はこちらから)

「表象主義」というのは、人間の「知」の源泉として、「なんらかの形での知識」を頭の中の「実体」として想定して、それが発揮されるのが知性だとする考え方のことです。すなわち、「知性」を研究するとは、「頭の中」に貯えられ、構築されているはずの知識がどのように整理され、構造化された記号体系として「表象」されているかを明らかにし、さらにそれらの記号体系は、さまざまな認知課題にあたってどのように「変換」され「処理」されるのか、ということを研究する、という立場です。このような考え方は一般に「表象主義」と呼ばれています。繰り返しますが、この「表象主義」は「知」をもっぱら個人の「頭の中」の問題に還元して考えるべきだという、「知」に関する我々の「普通の感覚」そのものだと言っても過言ではないでしょう。
 しかし、認知科学者のマッカーシーは、有名な「宣教師と人喰い」というパズルを使って、「表象主義」が抱えているフレーム問題の本性を非常に巧みに描き出しています(1)。「宣教師と人喰い」のパズルとは、次のようなクイズです。
「川岸に三人の宣教師と三人の人喰いがいる。そこには二人乗りのボートがある。川のどちらの岸であろうと、人喰いの数が宣教師の数を上回れば、宣教師は食べられてしまうとしたら、どのように川を渡ればよいか?」もちろん、惨事を起こさずにボートで両側を往復しながら、全員を向こう岸に渡す方法が求められています。
 でも、マッカーシーはこう言います。
 ある人にこの問題を出題したら、かれが「半マイル上流に上り、 橋を渡ったらどうだ」と提案した、と想像してみよう。「橋だって」、あなたは言う。「橋なんてことは、問題のどこにも書いてないよ」。すると、この愚か者は答える、「でも、橋がないとも書かれていない」。あなたは問題の英文を眺め、さらにこれを一階述語論理(数理論理学の記述の形式)に翻訳したものまで眺めてみる。確かに橋がないとは「書かれていない」と認めざるをえない。そこで、あなたは問題を修正して、「川に橋はかかっていない」と書き加え、もう一度問題を出す。すると愚か者は、こんどはヘリコプターはどうかとか、翼のある馬はどうかとか、二人がボートを漕いで他のものがボートにぶらさがるのはどうか、などと提案する。
 あなたは、いまや、こいつは愚か者だが、啓発的な愚か者だ、 ということに気がつく。あなたはかれに、本来の意味での問題を伝えるのをあきらめて解答を教える。ところが、さらにめんどうなことに、かれは、ボートに穴があいているかもしれないとか、オールがないかもしれないとか言って、あなたの解答に難癖をつける。あなたが、ボートには穴はあいていないし、オールもあると補っても、かれは、海の怪物が川をのぼってやってきてボートを飲み込んでしまうかもしれない、という。またしても、あなたは失敗し、かれを完全に黙らせてしまうような推論の方法はないものか、と考える。

「宣教師と人喰い」の事例は、フレーム問題がなぜ解けないのか、を見事に教えてくれます。フレーム問題とは、知識の中に、行為にとって関係のある事項と関係のない事項の区別を導入し、前者のみを有効に選択するにはどうしたらよいか、ということです。しかし、愚か者の執拗な難癖が示しているように、行為にとって無関係な意味のないことがらは、あるいはそのようなことがらを表現している言明は、 いくらでもあります――つまり無限にあります。ロボット・R2-D1がやったように無関係な事項を排除し、関係のある部分のみを残そうとする作業は、決して終わりません。
 無関係な部分を排除する方法は、「直接的」なものと「間接的」なものとがありうるでしょう。直接的な方法とは、無関係な部分と有意味な部分との区別を、世界の状態を表現する「記述」の水準に設定することですが、この場合は、当然、膨大な(無限の)記述が必要になります。 間接的な方法とは、世界の状態を表現する記述の量の方は減らして、 そこからの「推論」によって、区別を導入することです。こちらの場合には、膨大な(終わりのない)推論が必要になります。しかし、どちらの方法に依拠しようとも、原理的な困難は解消されない。したがって、フレーム問題は、ある意味では、原理的に解くことができません。 記述か推論のどちらかが、膨大なものとならざるをえないからです。 記述を節約すれば、その分は、推論によって補わなくてはならず、推論を圧倒的に大きな非効率なものにしてしまいかねません。
 だがしかし、われわれの通常の行為においては、フレーム問題は 必ずしも現われません。たとえば、先の「宣教師と人喰い」の問題に直面して、われわれは、通常、あの「愚か者」のような立場に立つことはあるのでしょうか。ないですよね。それはなぜでしょうか?
 これまで述べたように、フレーム問題の「正面からの解決」は、原理的にありえません。正面からの解決とは、なんらかの形態で、記号的な過程として顕在化するような(つまり、「表象主義」が言っているように記号によって表現・表象されるような)操作を通じて、フレーム問題を解消することです。
 だから、われわれがときにフレーム問題に悩まされないのだとすれば、われわれは、これに正面から直面せず、これをなんらかの仕方でかわしているはずだということです。
 ここまで一緒にきた読者の皆さんは、「フレーム問題」の解決が前提にしている「表象主義」が人間の認識行為の関係を正しく抽象するものではないことがお分かりいただけたと思います。このことは、人間の行為が、フレーム問題と同じ平面を共有してはいないということを示しているでしょう。とすれば、私たちはいかにしてフレーム問題をかわしているのでしょうか?
 再び「宣教師と人喰い」の事例が、ヒントを与えると思います。愚か者が後から指摘するさまざまな難癖を、われわれは最初はまったく問題にしていなかった。愚か者によって後から様々な可能性に気づかされさえしなければ、われわれは、フレーム問題に直面しません。
 つまり、フレーム問題は、世界の中で起こりうる無限に多様なことがらを、純粋に「無視」する術を知っているものにたいしてのみ、解消されるのです。
 フレーム問題は、なんらかの積極的な認識の営みによって克服されているわけではありません。そうではなく、「無視」と呼ばれる特殊なタイプの「認識=行為の不在」こそが、 これを非問題化するのです。
「無視」という営みは、しかし、たいへん不思議な営みです。この営みを構成する条件について、簡単に考察を加えておきましょう。
 第一に、「無視」という営みは、単なる「無知」とははっきりと区別されなくてはなりません。たとえば、「宣教師と人喰い」のパズルに対したとき、愚か者によって指摘された可能性を、われわれは全く知らなかったわけではなく、ただ気がつかなかっただけです。 フレーム問題を見事に解消する「無視」という方法が驚異的なのは、知っているのにそれを問題化しないからです。はじめから知らないことについては、そもそも、フレーム問題が浮上することはありません。
 表象主義的な「解決」は、機械を、非常に広範なことがらについて「無知」にしてしまうことによって、フレーム問題に応じようという手段です。しかし、 それはフレーム問題の克服ではありません。はじめから知らないものは克服できないのですから。
 しかし、第二に、単なる「無知」とは本質的に異なっているにもかかわらず、他方では「無知」の場合とよく似て、「無視」という操作は、記号的な過程に翻訳できるようないかなる「積極的な痕跡」(いわゆる「表象」)をも、 残さない。つまり、「無視」は、その驚異的な能力にもかかわらず、決して、積極的に行われる何かではありえません。 純粋に無視するとは、 このようなことを言います。
 フレーム問題の「解決」を図ろうとする試みの多くは無視に対応する営みを、「積極的に遂行されなくてはならない操作」として扱ってきたと思います。しかし、それが何であれ、積極的な操作によって無視を代行しようとすれば、フレーム問題は避けようがありません。
 他方で、表象主義的な方法を採る以上は、無視が積極的な操作に変換してしまうことは避けられない。そのような方法は、なんらかの論理にしたがってプログラムに書き込むことしか術をもたず、そして書き込んでしまえば、機械はその操作を「積極的に」遂行してしまうからです。ともあれ、無視がフレーム問題をかわすことができるのだとすれば、それがいかなる積極的な操作をも構成しないからである。
 しかし、ある操作や営みが積極的(肯定的)ではない、とはいかなることでしょうか? つまり、その本性からして、自己否定的な操作とは、どのような操作なのでしょうか?
 無視することは、いかなる積極的な痕跡もさしあたっては残さないにもかかわらず、たしかに、世界の状態について区別し、選択するような、効果をもたらしてもいます。それは、世界内の諸要素を行為にとって関係ある有意味な範囲に限定することによって、世界についてのある「描像」を、予期の地平のような形式で、 ある行為を遂行しようとしている行為者に対して与えています。たとえば、「宣教師と人喰い」のパズルを出されたとき、われわれはこれに解答しようと構えたとたんに、問題の世界をある限定された要素によって構成されたものへと固定してしまう(ように思われる)。
 またしても、「宣教師と人喰い」のパズルをめぐってマッカーシーがつくった寓話が示唆的だと思います。無視という操作は、あの愚か者が「半マイル上流の橋を使ったらよいではないか」という提案を行ったとき、「そのような可能性があるとは予想していなかった」という驚きの反応を通じ、事後的に「発見」されたのです。つまり、無視に相当する選択の操作は、 私とはまったく異なる他者の行為=認識に直面したとき、「そのようには予想してはいなかった」以上は「そのようにではなく予想=想定していたはず」であるとして、後から、反作用のようにして見出されるものです。
それでは、現実の人間たちは実際に「フレーム問題」をどう克服しているのか、いやもっと正確にいうと、それを「無視」あるいは「問題視」しないのかを見てみましょう。

 つぎのやりとりは今年の7月10日に、三島邦弘さんと私が韓国の南大門市場のある豚足屋で豚足を食べ、ビールと焼酎を飲みながら行ったものです。

三島さん:アンニョンハセヨー。今、南大門市場の豚足屋さんにバク先生と来ています。

説明文:「アンニョンハセヨ(안녕하세요)」は、韓国語で「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」など、時間帯を問わず使える万能なあいさつである。初めて会う方や職場に出社したときなどに使用する言葉でもある。
 ここ南大門市場には、私は大学生のころに一度来たことがある。今から食べることになっている豚足料理は、豚の足をゆでた後、ニンニクやネギなどが入ったしょう油ベースのタレと一緒に長時間煮こんでつくる料理で、ゼラチン成分が豊富。中国や日本の沖縄地域などでもよく食べられている食べ物だが、韓国では焼酎との相性がよくおつまみとしても好まれるほか、夜食の出前メニューや屋台メニューとしても人気である。
 ここで言う、朴先生とは、韓国人で「ミシマガジン」で「朴先生の日本語レッスン ――新しい「普通」を一個増やす」を連載されているあの朴東燮先生のことである。

朴:いや、本当に出演したかったんですけども、念願が叶いましたので本当に嬉しく思っております。

説明文:ここでいう「出演」というのは、ラジオへの出演という意味。出版社ミシマ社が運営する、読者が本との出会いがちょっとだけ広がる機会を作り上げる「ミシマラジオ」に生まれてはじめて出演したので、念願が叶ったと言ったわけだ。普通、ラジオ収録は「オフィス」などで行われるはずだが、三島さんがせっかく訪韓されたこともあり、しかも収録する時間を設けるのは難しかったので「豚足屋」ですることになった。それで、「本当に嬉しい」と言った。

三島さん:今、昼の2時40分ですけれども・・・

説明文:あら、僕は昼間から飲むつもりはなかったんですが。でも、隣にいるのは、拙著の翻訳を手掛けてくださったうえに、今回の取材、イベントすべての場で通訳くださった朴東燮先生である。朴先生のうれしそうな表情を見ていると、飲まない選択肢など最初からなかったように思えてくる。ここは韓国、先生のやり方についていくのみだ。
 その後、何ビンも追加、焼酎まで注文され、すっかりええ感じになった。

 いまの会話文は、三島邦弘さんと僕が韓国の南大門市場の豚足屋でやりとりした会話の一部を書き写して、発言にいちいち注釈しながら、その意味を展開してみたというものです。上が実際に起こった会話を示し、下(説明文)はこのやりとりの意味を「延ばした」注釈です(一部は三島さんによる「おもしろいは止まらない――韓国出版交流記(1)」から抜粋)。

 それでは、僕があげているような「現実の人間」は「フレーム問題」をどう考えているのでしょうか。この事例は、実は、「フレーム問題」が前提している主張とは真逆のことを言うためにあげられているものです。
 この三島さんと僕のやりとりに見ることができるように、会話の際の参加者の背景にある共有知識をすべてあげるという課題は、「表象主義者」が言っているような実際に存在する「(頭の中の)背景知識」を記述するものというよりは、背景においての仮定を「生成する課題」であるということです。つまり、背景についての仮定は、行為の前提を問われるとき、アド・ホック(adhoc)に行為を説明するという「活動」によってはじめて「生成」されたものなのです。
 こうした背景についての仮定が、僕と三島さんのやりとりが示したように行為者の行為に先立つ「頭の中」の知識である(いわゆる「表象」)と信じる理由はまったくありません。むしろ、背景の知識とか文脈的情報と言われてきたのは、「頭の中の知識」というよりは、「頭の外」にある何かであって、問題がないかぎりそれについて考える必要はない。つまり「消極的」に「無視」すればいいわけです。これまでの(おそらくこれからも)表象主義者たちは、すべての情報を「頭の中に投入しようとして」「フレーム問題」のようなパラドックスを生み出してきましたきましたが、情報がすでに外側に存在していることを考えれば、「フレーム問題」は生じるはずがありません。
 ここで一つ注意していただきたいのは、本来の問題は、「知識」が外側にあるのか、内側にあるかというようなことではなく、僕のような「非表象主義者」の観点からすると、「外側」とは、「表象主義」の投影としての外側ではないということです。
 最後に、冒頭でとりあげた「牧童の問題」を問い直してみましょう。
「牧童の問題」について僕が最初に採用していた「仮説」は子どもたちが「現実感」を失い、人間機械になってしまったというものでした。
 しかし、今まで見てきたように、人間は「無視」という行為を見事にする生き物だというフレームワークを当てはめた途端、全然違う風景が広がっていくんですね。つまり、生徒たちは「牧童の問題」を「学校的問題」として限定し、現実に起きうる可能性を「無視」したわけです。
 無視という操作は、このように、発見される場合にはいつでも、 事後的にそして否定的に発見されます。事前に、肯定的に存在していたはずのものとして。 無視という奇妙な操作は、自らが存在することの現実性を、その操作が直接に帰属する時点には確立できず、 その時点の後に確立することがあります。つまり、それは、操作が実現された(はずの)現在にではなく、その操作にとって未来であるような場所に存在の現実性をはじめて確保することができる(したがって、未来からの逆投影として、「かつてあった」ものとして発見されます。わかりにくいことを申し上げてすみません)。
 実際に「牧童問題」に参加していた子どもたちは皆、注意を向けさせれば、「いなくなった4頭の牛を探しているうちに残りの6頭がどうなるのかわからない」ことを認めます。そして事後的に、「学校の問題なのだから、僕たちの解答は別におかしくない」「問題に書いてあることだけから解けばいい」「先生の頭の中にすでに正解があるんだからそこを当てればいいんだよ」、といった「学校の算数観」を口にしました。
 無視は、このように肯定的=積極的な形式においてはさしあたって存在しているということすらできず、ただ自らの否定を鏡として、そこに自らを反照させることによってのみ、現実的である(それは、そのようには予想していなかった、という形式の否定を通じて見出される)。
 僕は、このように、未来性と否定性を基本的な条件として、存在することの現実性 を確認することができるような操作のことを、「消極的な操作」と呼ぶことにします。 無視は、消極的な操作(の一種)です。 われわれ人間は、機械と違って行為において、無数のことを無視する。そうすることでフレーム問題をかわしています。無視することは、いまいろいろな事例からわかったように、「根本的に秘密裡に」とでも表現したくなるような仕方で、世界についての有意味な知識を選択し囲い込むのです。

 その語の厳密な意味での科学者の資質とは、彼・彼女にとって科学的真理の正しさが確認される事例よりもむしろ、それが「破綻する」ような事例に出会うことの方により大きな、「快感」を感じてしまう傾向(というより能力)にあると思います。
 現実の複雑さと「話」の複雑さがどんぴしゃりと合ったときに、世界はみごとにクリアカットになるでしょう。もちろん、そんなことは現実には絶対に起こりません。けれども、それをめざすのが「ことの筋道」というものだと僕は思います。
 そろそろ「知」に関する「表象主義」という賞味期限がとっくに切れてしまった陳腐な「普通」のかわりに、「非表象主義」という新しい普通を受け入れるべきではないでしょうか。「非表象主義」については今度じっくり語ることにしましょう。


(1)McCarthy, J. (1980). Circumscription: a form on non monotonic reasoning. Artificial Intelligence. 13. PP.29-30

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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