第15回
なぜあえて『新しい普通』なの?(前編)
2025.01.13更新
先日、この連載を担当しているミシマ社編集チームのSさんから、こんなメールをもらいました。
「朴先生が、新しい『普通』という表現を使うのはなぜか、そのことをぜひ書いていただきたいです。『新しいこと』『普通じゃないこと』ではなく、『新しい普通』。あえて『普通』と言い直すのはなぜなのでしょうか?」
そういうわけで、今度の連載は「なぜあえて『新しい普通』なの?」にしようと思います。内容的におそらくめっちゃ長くなりそうな予感(おいおい、いままでは長くなかったのかよ!)がいたします。
まず、「普通」について考えてみることにしましょう。僕の「普通」についての考え方の原点というか、原風景にあるのは、なんと韓国のテレビドラマです。
その前に、ドラマと哲学の関係性についてひとこと言わせてください(そういえば、この文脈で僕が使っている「言わせてください」という言い方はいかにも日本語らしいですね。ちなみに、韓国語ならば、この文脈だと使役型はまず使いません)。僕はこの連載でときどき「ドラマ」を素材として使っています。それはドラマ好きの方々に「あなたたちはそれとは知らずにじつは哲学に興味を持っていたのだよ」とぜひとも言ってみたいからですし、哲学好きの方々には「その問題ははるかにポピュラーな形でもうドラマに表現されているのだよ」と言ってみたいからです。
僕自身のほんとうの執筆意図はむしろ後者にありますが、実際には前者の意味にとられることのほうが多いかもしれません。もちろんそれでいいです。哲学の兎とドラマの兎に見えたものは、なんと実は一羽の兎だったのだというのが、僕のエッセイにおける僕の究極のメッセージです。
さて、僕にとって「普通」の原風景であるテレビドラマについて話をしているところでした。ドラマに「核家族」が出てくると、お父さんとお母さんと息子娘(ときどき姑)の役割分担と台詞がほとんど決まってしまっていると思いませんか。
たとえば、朝帰りした娘に、わなわな震えながら父親が説教する場面では、「・・・ユナ、 お前、夕べいったい、どこに行ってたんだ。お母さん、心配して一晩中眠れなかったんだぞ。(ユナ、シカトして二階に上がろうとする。)お、おい、返事くらいしたらどうだ。ま、まさかあの金髪ピアス野郎と・・・そ、そんなふしだらなことをお父さんは許さんぞ」というような、「おいおい、またかよ」的な台詞を聞くのに、みなさんもう飽き飽きしていないでしょうか(そのあとユナはバタンとドアをしめ、暗い顔をした妻が廊下のわきから出てきて 「あなた・・・・・・もう、やめて。 あたし、あの子のことはもう、あきらめてますの・・・だから」なんて言ったりするんですね、これが)。しかし、私たちは実際に人間関係の中で何らかの立場を取ることを求められると、どうしても映画やテレビで一度見たことのあるような場面の台詞回しと演技を規範的に意識してしまうことも事実です。
核家族における役割分担がこれほどまでに定型化してしまう、つまり「普通」になってしまうと、これから抜け出すことはきわめて困難であると言わねばなりません。なにしろ、核家族における「秩序壊乱要因」であるはずのバカ息子、バカ娘たちの立ち居振る舞いや言葉遣いすらテレビドラマの定型のまんまなんですから、それ以外の「秩序維持派」諸君に独創性を発揮する余地のあるはずがありません。
その結果、韓国中(日本中でも)の核家族のみなさんが、同じような「家庭内ドラマ」を、同じような台詞回しで毎日演じておられるわけです。
この「物語」による 「日常」の侵食というのは、僕にとってたいへん興味深い論件であります。そして、僕にとってこの家庭内で繰り広げられている「ドラマで使われているセリフ」こそ「普通」を考えぬくうえで大事なポイントになると思います。
こういったドラマの分析にあたって、一つ疑問が僕の心の奥底から湧いてきます。「なぜ普通は相変わらず普通のままなの?」ということです。
言い換えれば、「当の『普通』はなんの痛痒も感じることなく、相変わらず繁昌し続けるのはいったいどうしてなのか」。あるいは、「その『普通』がどうしてくびり殺されては息を吹き返す死に際の悪い死者のように、繰り返し蘇生するのか」。もちろん、僕もそれについてのクリアカットな説明はなかなか見いだすことができません。しかし、こういう困難な問題について考え抜くことは、しばしばクリアカットな説明にたどりつく以上の知的利益を私たちにもたらしてくれると思います。
この「普通」の難問を考え抜くためのヒントとなる文学作品をひとつご紹介しましょう。「エスノメソドロジー」という学知を創り上げた社会学者ハロルド・ガーフィンケル(Harold Garfinkel)が大学院時代に書き上げたとされる小説『カラートラブル(Color Trouble)』です。本作は『一九四一年最優秀短編小説集』の編著者からも「本物の素材と芸術的な形式を結合してひとつの図柄へと精密に織り上げている点で優れており、その誠実さにおいて正当にアメリカ文学のなかに位置を占めることを要求しうる」と評されたという傑作です(1)。
「カラートラブル」は一九四〇年代のアメリカ南部のジムクロウ(黒人差別)を描いた作品であります(2)。物語は、一九四〇年三月二三日の夕方、ワシントンD・C発ノースカロライナ州ダーラム行のバスが、バージニア州ピータースバーグのバスデポに到着したところから始まります。若い黒人のカップルが白人席のすぐ後ろの空いた席に移動したのを、 運転手がみとがめる。 運転手は、黒人は後ろから順に詰めて座らなければならないというバージニア州の人種隔離法をたてに、ふたりに後ろの席に移るように言います。ニューヨークから来たそのカップルのうち女性のほう、アリス・マクビーンはそれを拒否します。運転手はふたりの警官を呼んでくる。警官と運転手はかわるがわるふたりに後ろに移動するように言いますが、アリスは、病気なのでタイヤの上の座席には座れないこと、さらにその座席が壊れていること、外で待っている黒人の乗客たちが乗れば、空いている後ろの席が埋まり、結局同じであること、憲法が平等な権利を保証していることなどを挙げて反論します。警官は結局ふたりを逮捕することを一旦あきらめます。運転手はふたりに一列だけ後ろに下がることで妥協しようともちかけます。座席を直すことを条件にアリスもそれを受けいれます。 運転手が座席を直し、これで一件落着と思われたそのとき、アリスは運転手にさらに謝罪を要求します。運転手は怒り、ふたたび警官を呼ぶ。今度は警官は即座にふたりを逮捕します。アリスは気を失って倒れ、バスからひきずりおろされる。ふたりを乗せたパトロールワゴンが走り去り、バスも乗客を乗せ、なにごともなかったかのようにふたたび走り出します。
この間約二時間の車内の様子を、ガーフィンケルは、アリスと運転手や警官のやりとりや、他の乗客たちの反応を中心に、 細密に描写しています。
この「カラートラブル」はおそらくガーフィンケル自身の体験がもとになっていると思われますが、なぜ、彼は、結局は主人公の黒人女性が警官に逮捕され、バスから降ろされ、バスが再び出発していく、という幕切れを選んだのでしょうか。事実の報告ではなく、小説であるとすれば、書く者の「関心」から、「適切な」あるいはちょっとした「スペクタクルな」結末を自由に創造できるはずです。仮に見てきた事実の報告であるとしても、なぜこの場面で小説に「区切り」をつけたのか。そんな疑問が、僕の心にわいてきます。
このバスで起きたことは自由な市民の権利の否定にほかなりませんが、別な見方をとると、「カラートラブル」が原因でバスに遅延が生じる、ともいえる。偏見や先入観について鋭い注意を向ける必要があるのは、まさにこうした場面であり、だからガーフィンケルはあのような結末によって物語を終えたのではないでしょうか。
おそらくガーフィンケルは、複雑なかたちで生活の背景となっている偏見や先入観の問題に関心があったのでしょう。偏見や先入観の問題は、日常の「自明なもの」、言いかえれば「普通」の風景のなかに前触れもなく噴出し、ひとびとの現実をある程度は揺さぶりますが、大きく変えることはなく、ふたたび「自明なもの=普通」にとりこまれ、底深く埋没していきます。バスが何事もなかったふりをして再び走り出したように。
いわば、「自明なもの=普通」の巨大かつ執拗な「ちから」を、ガーフィンケルは「文学のちから」を借りて、 描破したのではないでしょうか。言い換えれば、彼が思考実験というかたちで論理的にギリギリのところまで突き詰めていった先に遭遇したのが「自明なもの=普通」の「巨大さ」と「変わりなさ」だったのだと僕は思います。
内田樹先生は、「起きたことはなぜ起きたのか」を確定するのが本務である歴史学とは違って、文学の仕事は「起きてもよかったのに起きなかったこと」について想像することと、「起きるはずがないと今思われていることはどんな条件が整えば起きるか」を想像することだという、 洞見を語っておられました(3)。
つまり、文学は「アリスの革命的行動がなぜ当時のアメリカの『普通』を揺さぶりながらも、結局何も起きない」で済んでしまったのか、そして「自明なものを揺さぶることはどんな条件が整えれば起きるか」ということについて我々に思いを巡らせることを促します。「われわれ黒人は同じアメリカ合衆国の市民なのに、なぜ、バスに乗る時は一番後ろの座席から座らないといけないのか」。このような問いかけがアリスが生きていたその時代の日常では繰り返し首をもたげていたと思います。それはときに世界への別の問いと反響しあい、知らぬまでに増殖し膨れ上がる。そのときそれまであたりまえであったことがらが次々とその自明性を失いだし、普通が次第に迷宮と化していきます。アリスの何気ない問いによって起きた普通の内部の小さなひび割れが普通そのものの全重量に対抗するものになりかけています。
けれどもこうした一群の問いと行動は、「カラートラブル」の結末が示しているように、たいていの場合、「普通」という名の迷宮の前門に頭を打ちつけ、そのとば口できびすを返してしまいます。「普通」への問いはやがて「普通」のなかにひきずりこまれ、当初の起爆力を失いかねません。
ただし、「カラートラブル」という作品は、我々の日常が「自明なもの=普通」を安定させる場であるとともに、それを崩壊させる「危うさ」がはらむ場でもあることを見事に描いてくれたと思います。そして、この作品は僕にとって「自明なもの=普通」がうごめくさまに率直な「まなざし」を向けるための原動力になっているのです。
(後編につづく)
(1)Doubt, K. (1989). Garfinkel before Ethnomethodology. The American Sociologist, 20-3: 254.
(2)Garfinkel, Harold. 1940. "Color Trouble," Opportunity(18), May.(秋吉美都訳「カラートラブル」山田富秋・好井裕明編『エスノメソドロジーの創造力』せりか書房、1998年。10-29頁)
(3)内田樹「解説」、島田雅彦『パンとサーカス』2024年、701頁より。