朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第31回

「すみません」という名のアーミーナイフ

2026.02.06更新

​ あれは私がおそらく初めて日本を訪れた、蒸し暑い夏の日のことでした。東京の雑踏に圧倒されながら、小さなラーメン屋の暖簾をくぐったのです。券売機の前で悪戦苦闘していると、親切な店員さんが身振り手振りで教えてくれました。おかげで無事に目的のラーメンにありつけた私は、店を出る際、覚えたての日本語で感謝を伝えようとしました。

 しかし、咄嗟に出てきたのは「ありがとう」ではなく、なぜか「すみません」という謝罪の言葉でした。すると、店員さんは満面の笑みで「いえいえ、どういたしまして」と返してくれたのです。私は混乱しました。感謝の場面で謝罪の言葉が、なぜこれほど自然に受け入れられるのだろうか。

 ​数日後、今度は私が歩道でうっかり前にいた女性の足を踏んでしまいました。私は慌てて、韓国で同じような状況の時に使う「죄송합니다(チェソンハムニダ)!」とほぼ同じ意味合いであろう「ごめんなさい!」という、心からの謝罪を口にしました。すると、足を踏まれたはずの彼女は、私に向かって軽く会釈をしながら、こう言ったのです。「ああ、すみません」。

 私は再び思考の迷宮に迷い込みました。被害者であるはずの彼女が、なぜ私に謝るのでしょうか。まるで、私が彼女の足を踏んだことが、彼女自身の責任であるかのように。

 この二つの出来事は、私の心に大きな問いを投げかけました。「すみません」とは、一体何なのだろうか。それは謝罪の言葉ではないのでしょうか。それとも、日本人は本当に、巷で言われるように「何でもすぐに謝る」民族なのでしょうか。この謎を解明したいという強烈な知的好奇心が、私の日本語学習、そして日本文化研究の原動力となったのです。

習者の「すみません」八倒

 私の母語である韓国語にも、謝罪を表す言葉はもちろん存在します。「미안합니다(ミアンハムニダ)」や、より丁寧な「죄송합니다(チェソンハムニダ)」がそれに当たります。言葉の役割は、非常に明確です。それは「自らの過ちを認め、相手に許しを乞う」という、一点に集約されます。

 いわば、韓国語の「미안합니다」は、特定の機能に特化した精密な工具、たとえば一本の重厚なハンマーのようなものです。釘を打つ、つまり「謝罪する」という目的のためだけに、その重みと力が発揮されます。

 ハンマーで壁を撫でたり、料理をしたりしないのと同じように、「미안합니다」を呼びかけや感謝に使うことはありません。もし、誰かに道を尋ねる際に「미안합니다」と言えば、相手は「この人は私に何か悪いことをしたのだろうか」と訝しむでしょう。席を譲ってもらって「미안합니다」と言えば、感謝の気持ちよりも、何か負い目を感じているような、少し湿っぽい印象を与えてしまいます。

​ この「ハンマー的言語感覚」を持っていた私は、日本語学習の初期段階で、「すみません」を「미안합니다」の日本版、つまり「少し軽めのハンマー」くらいに捉えていました。ですから、教科書に「レストランで店員を呼ぶときにも『すみません』を使います」と書かれていても、実践にはかなりの勇気が必要でした。店員さんに向かって「ハンマー」を振りかざすような、場違いな感覚があったからです。「私はあなたに何も悪いことをしていません。ただ注文がしたいだけです」と、心の中で叫びながら、おずおずと「す、すみません・・・」と口にするのです。すると、店員さんは「はい、ただいま!」と明るく応じてくれる。その度に、私は安堵すると同時に、自分の言語感覚が揺さぶられるのを感じました。

​ この「すみません」という言葉は、ハンマーどころか、まるで魔法の道具、アーミーナイフのようです。一つのボディに、謝罪のナイフ、呼びかけのドライバー、感謝の缶切り、そして恐縮のコルク抜きまで、ありとあらゆる機能が格納されているのです。

 私が最初に経験したラーメン屋での出来事は、私が「感謝の缶切り」を使うべき場面で、無意識に「謝罪のナイフ」を取り出そうとしていた、ということなのでしょう。そして、足を踏んでしまった女性が口にした「すみません」は、もはやナイフですらなく、「突然目の前で人がよろけて、お互いに気まずい思いをさせてしまいましたね」という、周囲の人を意識して状況全体を丸く収めるための潤滑油のような役割だったのかもしれません。

 ​このアーミーナイフの存在を知らなかった私は、日本人とのコミュニケーションで数々の失敗を繰り返しました。小さな親切に対して、律儀に「ありがとうございます」とだけ返していると、少しよそよそしい、あるいは少し傲慢な印象を与えてしまうことがあると後で知りました。逆に、軽いお詫びのつもりで「ごめんなさい」を多用すると、相手に深刻に受け止められ、かえって恐縮させてしまうこともありました。私の「좌충우돌(ジャチュンウドル、「七転八倒」の意味)」は、「すみません」という一本のアーミーナイフを、いかにして状況に応じて適切なツールを選び、使いこなすか、という果てしない訓練の連続だったのです。

「澄みません」の心――デジタルな韓国、アナログな日本

 では、なぜ日本語の「すみません」は、これほどまでに多機能なアーミーナイフとして進化したのでしょうか。一方、韓国語の「미안합니다(ミアンハムニダ)」は、なぜハンマーとしての単一機能を守り続けてきたのでしょうか。ここに、両国の文化的な深層の違いが隠されているように、私には思えます。

 民俗学者の柳田国男の「私の心が安らかでありませんというのが、このスミマセンの最初の感覚」という指摘、そして「澄みません」という漢字を当てるという発想 (『毎日の言葉』、角川ソフィア文庫、一七頁)は、私にとってまさに目から鱗が落ちるような発見でした。つまり、「すみません」の根底に流れているのは、「過ちを犯した」という罪の意識だけではなく、「相手に何らかの負担をかけた」「相手の時間や労力をわずかでも使わせてしまった」という事実によって、自分の心が穏やかではない、つまり「澄み切った状態ではない」という感覚なのです。

 この感覚を理解したとき、「すみません」が持つ多義性の謎が、一気に解けていくようでした。

 レストランで店員さんを呼ぶのは、彼らの仕事の流れを中断させ、こちらに注意を向けさせるという「負担」をかける行為です。だから「すみません」。

 落とし物を拾ってもらうのは、相手の善意に甘え、手を煩わせるという「負担」をかけた結果です。だから「すみません」。

 電車で席を詰めてもらうのも、相手のパーソナルスペースを少し侵犯し、動いてもらうという「負担」を強いることになります。だから、やはり「すみません」なのです。

 ここには、謝罪、呼びかけ、感謝という個別の事象を超えた、より包括的な思想が流れています。それは、「他者との関わりは、常に何らかの形で相手に影響を与え、負担をかける可能性がある」という、人間関係に対する深い洞察と、それゆえの謙虚さ、そして相手への細やかな配慮です。

​ この点を、韓国の文化と比較すると、非常に興味深い対比が見えてきます。

 韓国の人間関係は、しばしば「정(情)」という言葉で語られます。情は、愛情、同情、共感などが複雑に絡み合った、深く温かい心のつながりを指します。この「情」の文化では、関係性における貸し借りは、あまり明確に意識されません。親しい間柄であれば、助け合うのは当然であり、そこに「負担をかけた」という感覚は希薄です。むしろ、過度に遠慮することは、相手を他人行儀に扱っていると見なされ、かえって失礼に当たることさえあります。

 ​これを先ほどの比喩で表現するならば、韓国のコミュニケーションは「デジタル」的だと言えるかもしれません。罪があるか(1)、ないか(0)。感謝すべきか(1)、そうでないか(0)。その境界線が比較的はっきりしています。「미안합니다(ミアンハムニダ)」と「감사합니다(カムサハムニダ)」は、このデジタル信号を明確に伝えるための、極めて効率的な言語ツールなのです。

​ それに対して、日本の「すみません」が支配するコミュニケーションは、「アナログ」的です。そこには、0と1の間に無限のグラデーションが存在します。100%の謝罪から、50%の感謝と50%の恐縮、10%の呼びかけと90%の配慮まで、その場の空気や相手との関係性によって、「すみません」のブレンド比率は滑らかに変化します。このアナログ的な特性こそが、「すみません」を外国人学習者にとって難解なものにしている最大の要因であり、同時に、日本文化の機微を最も象徴している部分でもあるのです。

む」「澄む」「住む」の三重

 さらに思索を深めるきっかけとなったのが、「すむ」という言葉の語源、すなわち「澄む」「済む」「住む」という三つの意味合いが根底で結びついているという倫理学者・竹内整一の指摘(『「おのずから」 と 「みずから」』、ちくま学芸文庫、二四五頁)です。この視点は、街場の心理学者としての、私の心を激しく揺さぶりました。

​「澄む」は、濁りがなくなり、心が静まる状態。
「済む」は、物事が完了し、わだかまりがなくなる状態。
「住む」は、ある場所に定着し、安定する状態。

 ​これら三つの「すむ」が、「すみません」という一つの言葉の深層で、美しい三重奏を奏でているのではないか。つまり、「すみません」と口にすることは、「私の行いによって生じた、あなたと私の間の関係性の濁り(澄んでいない状態)を、この言葉によって清算し(済ませ)、再び穏やかで安定した関係性に落ち着きたい(住みたい)」という、深層心理の表明なのではないでしょうか(もう韓国人のわたしはあたまがくらくらしますね)。

 足を踏んでしまったあの時、彼女が言った「すみません」は、「このアクシデントによって生じた気まずい空気を早く『済ませ』て、お互いの心が『澄んだ』状態に戻り、平穏な日常に『住み』続けましょう」という、高度な社会的メッセージだったのかもしれません。そう考えると、あの時の私の混乱は、なんと表層的な理解に基づいていたことかと、今更ながら恥ずかしくなります。

​「日本人は何でもすぐに謝る」というステレオタイプは、この「すみません」が奏でる豊かな三重奏を、単なる「謝罪」という単一のメロディーとしてしか聴き取れていない、ということなのでしょう。それは、ベートーヴェンの交響曲を、冒頭の「ジャジャジャジャーン」という動機だけで判断してしまうような、あまりにも粗雑な聴き方です。その奥には、人間関係を円滑にし、社会の調和を保とうとする、精緻で洗練された文化的メカニズムが働いているのです。

終着のない旅

 街場の心理学の目的は、異文化を理解し、そのロジックを解き明かすことにあります。私は「すみません」という言葉を通して、日本文化の核心に触れるための、一つの重要な鍵を手に入れたような気がしていました。私はもはや、ラーメン屋で感謝を伝えるべきか謝罪すべきかで悩むことはありませんし、足を踏まれた相手から「すみません」と言われても、動揺することはありません。状況に応じて、アーミーナイフから適切なツールを選び出し、それなりに使いこなせるようにもなりました。

 ​しかし、本当にそうでしょうか。

​ 先日、長年の付き合いになる日本の友人が、私のために大変な骨折りをしてくれたことがありました。私は心からの感謝を込めて、何度も「ありがとう」と伝えました。そして、最後にこう付け加えたのです。「本当に、すみませんでした」。それは、感謝の気持ちが極まり、相手に多大な負担をかけてしまったことへの申し訳なさ、つまり「心が澄み切らない」状態を表現した、私なりに会得した最上級の「すみません」のつもりでした。

 すると友人は、少し寂しそうに微笑んで、こう言ったのです。「君がそんなに謝ると、僕がしたことが、ただの『迷惑』だったみたいに聞こえるじゃないか。こういう時は、『ありがとう』だけでいいんだよ」。

​ 私は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けました。完璧に使いこなせていると思っていたアーミーナイフは、まだ私の手には馴染んでおらず、私はまたしても、相手の心を傷つける使い方をしてしまったのです。親しい間柄では、「すみません」が逆に距離を作ってしまうことがある。あの言葉は、関係性の「アナログ」なグラデーションだけでなく、相手との親密度という、もう一つの複雑なパラメータによっても、その意味合いを万華鏡のように変えるのです。

 師である内田樹先生が『態度が悪くてすみません』の序文に掲げられた「まえがきが長くてすみません」という文章に出会った瞬間、私は再び深い絶望の奈落へと突き落とされました。

「ウチダくん、それは違うよ」と言われたときに、私はつねに「すみません」と言うわけではありません。「え、どこが間違ってた?」と問い返すことだってあるんです。

 私が「どこが?」と問い返すのは、その人の指摘によって私の中に知的な興奮が起動したことを意味しています。 自分の知らなかったことを教えてもらうというのはわくわくする経験ですからね。私は自分自身についての知識をふやすという点についてはきわめて勤勉な人間です(私の数少ない美点の一つです)。その「間違い」の指摘が「私についての情報」をふやす可能性がある場合、きわめてオーブン・ハーテッドな応対を私はご用意しております。

 逆から言えば、私が「すみません」と言うのは「この話はもうやめましょう」というクールなサインです。それは、その指摘の中に「私についての情報」をふやす手がかりがないという私の判断を意味しています。

 私に向かって「ウチダって、ほんとに態度の悪いやつだな」と言っても、それは「私についての情報」を少しもふやすことにはなりません(だって、知ってるから)。同じように、「ウチダはものを知らない」とか「ウチダの議論は詭弁だ」とか「ウチダの言うことは話半分だ」とかいうご指摘も、どれほど事細かに証拠を積み上げられ、理路整然と提示されても、「すみません」というワンワードの返答しか期待できません。

内田樹著『態度が悪くてすみません』、まえがき「まえがきが長くてすみません」より

 これまで、数々の「すみません」の用例を身をもって学び取り、もうそろそろ日本語母語話者さながらに自由自在に操れるのではないか――と、私はひそかに自負していたのです。

 ところがどっこい、その思いはあえなく木っ端みじん。私の「すみません修行」は、まだまだ未熟な雛鳥の羽ばたきにも及ばなかったのであります。

「まえがきが長くてすみません」という絶妙のユーモアに触れ、先生の「すみません」が、私の知っている広大なる「すみません」のスペクトルのどこに座するのか、今なお皆目見当がつきません。

 ――ああ、「すみません」の奥義をきわめる道は、はるか遠く、嶮しく、霧の深い山中を行く修行僧の旅そのもの。

「すみません」の完璧なマスターなど、私にとっておそらく永遠に不可能なのかもしれません。この言葉は、まるで生き物のようです。文脈、人間関係、声のトーン、表情、その場の空気、その全てを吸収して、その意味を無限に変化させていく。その奥行きは、私が一生をかけても探求し尽くせないほど、深く、そして広がりに満ちています。

 しかし、だからこそ、私はこの旅をやめることができません。「すみません」という、たった一つの言葉を理解しようとすることは、日本人の心の機微に触れようとすることであり、ひいては、人間という存在の複雑さと豊かさを学ぼうとすることに他ならないからです。

 今日も、次こそは完璧な「すみません」が言えるようになりたい、という永遠にたどり着かない頂上を目指して、日本語の勉強という修行を続けていきたいと思います。

 新たな思考を紡ぐこと。それは、その思考のためだけにあつらえた「固有の言葉」という名の家を建ててやることに似ています。その堅牢な戸口を持ってはじめて、私たちは隣家に住むまったく異なる思考の持ち主へと、扉を開くことができるのです。

 思考が他者から学ぶという営みは、相手を自分色に染め上げる恋愛などではありません。それはむしろ、どれだけ愛しても決して飼い主の思い通りにはならない猫を、ただ見つめる眼差しに近いのかもしれません。

「お前は決して私にはなれないのだ」という埋めがたい距離。決して我が物にはならないその気高き他者と、他者であるままに対峙し続けるせいひつな緊張感。その「ままならなさ」の中にこそ、思考が真に呼吸できる深淵な空間が広がるのではないでしょうか。

 そして、またきっと、新しい発見と、愛すべき失敗を繰り返すのでしょう。その果てしなき旅路こそが、私にとって何よりの学びであり、喜びなのです。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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