朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第29回

ラブをしようぜ!4――「表象主義」の呪い、解きほぐします

2025.12.11更新

1.プロローグ――深夜0時23分、途切れない電波

「じゃあ、そろそろ寝なきゃね」
「うん・・・でも、もうちょっとだけ」
「もうちょっとって、さっきも言ってたじゃん」
「だって、声聞いてたいんだもん」
「私も・・・でも明日早いんでしょ?」
「うん・・・じゃあ、本当にそろそろ」
「・・・うん」
「・・・・・・」
「・・・ねえ、まだいる?」
「いるよ」

 深夜のスマートフォン越しに交わされる、この何でもないような会話。付き合って三ヶ月の二人は、今夜も電話を切ることができないでいます。もう二時間近く話しているのに、まだ話し足りない。でも明日は朝が早い。切らなきゃいけないことは、二人とも分かっている。それなのに、なかなか切れない。

 この日常的で、誰もが経験したことがあるような光景。私たちはこれを「恋人同士の会話」だと即座に理解します。 しかし、ここで少し立ち止まって、この場面を顕微鏡で覗いてみましょう。ここには、私たちが「言葉」や「コミュニケーション」に対して抱いている巨大な錯覚を打ち破る、重要な手がかりが隠されています。

2.宅配トラックという誤謬――表象主義という幻想

 多くの人は、会話を「情報を積んで運ぶ宅配トラック」のように考えています。 これこそが、哲学でいう「表象主義(Representationalism)」のモデルです。

 とはいえ、ここで突然「表象主義」だの「哲学モデル」だのという言葉が飛び出してきたものですから、皆さまの表情が一瞬にして「え、コーヒー頼んだのに、いつの間に哲学セミナーが始まったの?」という戸惑いの色に染まったのが、まるで映画のスローモーションのように私には見えております。

 どうぞご安心ください。この耳慣れない概念が、皆さまの頭の中で濃霧となり視界を奪ってしまわぬよう、私はこれから持てる語彙と比喩と語りの力、そしてほんの少しのユーモアまでも総動員して、皆さまをこの不思議な哲学の回廊の奥へと、できるだけ楽しく、そして迷わず進めるようお手伝いするつもりです。

 せっかく開かれたこの小さな知の扉を、今日は皆さまと共にゆっくり押し広げてみたいと思います。さあ、肩の力を抜いて、ご一緒に歩き始めましょう。

 実は、問題の核心はまさにここにあります。

 この「表象主義」という亡霊は、心の話をするときも、思考を語るときも、言語を論じるときも、さらには学習や教育をめぐる場面でさえも――まるで招待していないのに法事から結婚式まで全部に現れるお節介な親戚のように――必ずやって来ては、私たちの考えをがっちりつかんで離そうとしません。

 もう「君なしじゃ生きていけないんだ!」とでも言い出しそうな執着気質で、私たちの思考の隅々にまとわりつき、ほかの視点を持つ余裕すら奪ってしまうのです。

 だからこそ、今日はせっかく与えられたこの機会に、この表象主義という亡霊をスポットライトの下に引っ張り出し、皆さまがその濃い影からほんの少しでも抜け出す時間になれば、と心から願っています。

 どうか今日だけは、この頑固な亡霊には「ちょっとあちらでお休みください」と告げて、私たち自身の思考の散歩道を、もう少し自由に歩いてみたいと思います。

 表象主義の世界では、言葉は「中身(考え)」を梱包して相手に届ける「箱」です。 例えば、彼女の頭の中に「もう寝なければ」という情報が生まれます。彼女はこの情報を「じゃあ、もう切ろう」という言葉の箱に詰めて、彼に送ります。 彼はその箱を受け取って開け、「ああ、彼女は寝たいんだな」と情報を解読します。そして「分かった」という受領印を押します。 これが、表象主義が説明する会話です。

 もしこれが真実だとしたら、上記の恋人たちはどれほど非効率的な愚か者でしょうか? 情報はすでに伝達されました。「寝なければならない」というメッセージは一秒で伝わります。それなのに、なぜ彼らは「うん・・・」「・・・」「まだいる?」といった、情報量としてはゼロに近い無意味な音を、何分も、いや何十分もやり取りしているのでしょうか? 表象主義的な観点から見れば、彼らの会話は「配送事故」か、単なる「燃料の無駄遣い」でしかありません。

 しかし、エスノメソドロジーの目で見れば、この場面は全く違って見えます。 言葉は宅配トラックの箱ではありません。言葉は「ロプ」なのです。 暗闇の中、二人は離れ離れになっています。彼らを繋いでいるのは、スマートフォンを流れる声という細いロープだけです。

「もう切ろう」という言葉は、情報を伝えているのではありません。それは「私がこのロープを放してもいいだろうか?」と問う行為なのです。 続く沈黙は、何もない空虚な間ではありません。それは二人がロープを互いに引っ張り合い、相手の存在の重みを感じている、最も密度の高い「接触の時間」なのです。 「まだいる?」という問いは、相手の位置を聞いているのではありません。それは暗闇の中で探る手のように、「まだ私たち、繋がっているよね?」と確認する行為なのです。

 私たちは、頭の中の考えを「表現」するために話すのではありません。 私たちは、相手と繋がり、その繋がりを維持し、関係を調整するために、言葉を「実践」しているのです。 この恋人たちは、情報を交換しているのではなく、声という質料を通じて互いに触れ合い、抱きしめ合い、愛という家をその瞬間瞬間、建てているのです。

 おっと、ここでまた突然「実践」という言葉が飛び出してしまいましたね。

 耳慣れたようで、どこかよそよそしく、まるで近所のスーパーで 偶然に遭遇してしまった中学時代の同級生くらいの距離感をまとった単語です。

 もちろん、ここで私が使っている「実践」は、皆さまが日常で使う「明日から早起きを実践しよう!」という、あの健気で人間味あふれる実践とはまったく別物です。

 日常で言う「実践」が、目覚まし時計と意志の弱さが細い綱の上でせめぎ合う、あのささやかな朝の攻防戦だとすれば、哲学における「実践」は、その次元をはるかに超えています。

 それはまるで、私たちの知らぬあいだに世界の回転軸をそっと指先でずらしてしまうような、静かな「コペルニクス的転回」にほかならないのです。

 今は「そんな大げさな・・・」と思われても大丈夫です。

 今日のところは理解できなくても、哲学の世界では減点も追試もありません。
ただ、ひとつだけ覚えておいてください。

 ここで言う「実践」は、皆さまが日常で使うそれとはかなり遠い惑星で生まれた語だということ。

 その距離感さえつかめれば、今日の知的旅はすでに半分以上成功です。

3.十九世紀末の朝鮮半島、もう一つの「接触」の始まり

 さて、スマートフォンのという現代のロープを置いて、時空を超えてもう一つの会話の現場へ行ってみましょう。 舞台は十九世紀末の朝鮮半島。ドラマ『ミスター・サンシャイン』の、あの印象的な場面です。 ここにもまた、表象主義という古い眼鏡では到底説明できない、奇跡のような「接触」の瞬間が待っています。

 朝鮮の名門貴族の令嬢、コ・エシン。そして、奴隷出身の米軍将校、チェ・ユジン。 身分も国籍も違う二人が、「ラブ」という名の未知の冒険に足を踏み入れる瞬間です。

ユジン:「考えは整理できました。ラブ、それをしましょう。私と。一緒に」
エシン:「いいでしょう。・・・返事が遅れた分、その決断が慎重なものであったことを願います」
(しばしの沈黙が流れた後)
エシン:「それで、次は何をすればいいのですか?」
ユジン:「まず自己紹介から」
エシン:「ああ・・・私はコ・エシンです。あなたの名前は随分前から聞いていました」
ユジン:「すぐに読めるようになるでしょう」 (ユジンは自分の名前をアルファベットで書いた紙を見せる)「チェ・ユジンです」
エシン:「朝鮮では崔氏でしたか?」
ユジン:「アメリカでも崔という姓です。アメリカ人たちは『崔(Choi)』を『チョイ』と発音しますが」
エシン:「ああ・・・学べば学ぶほど、まだまだ道は遠いようです。・・・それで、また他には何をすればいいのですか?」
ユジン:「握手」
エシン:「握手・・・?」
(ユジンが手を差し出す)
ユジン:「握手はアメリカ式の挨拶です。この手にはあなたを傷つける武器が入っていないという意味があります」
(エシンはその意味を聞いて、ゆっくりと彼の手を握る)
エシン:「その意味、気に入りました。ラブとは、思ったより容易なものですね。始まりは半分だと言いますし。・・・ところで、この手はいつ離すのですか?」
ユジン:「あなたがその手に武器を持ちたいと思った時」
エシン:「・・・少なくとも、今ではないようです」

4.手のひらからこぼれ落ちる砂

 私はこれまで「ラブをしようぜ!」の第1編第2編第3編と、この魔法のような会話を様々な角度から分析してきました。でも、書けば書くほど、何か大切なものを取りこぼしているような気がしてならなかったのです。 それはまるで、目の前に咲いている一輪の花を写生しようとして、百万個の言葉を動員しても、その花の本当の姿を描ききれないような、そんな焦燥感でした。

「私が持っている言葉では、この現象を追いかけるにはあまりにも足りない」

 そんな自戒の念を込めて、今、第4編を書いています。 なぜなら、この会話には、まだ語られていない、しかし確実にそこに存在する、驚くべき「方法」の層と「日常の深淵」が隠されているからです。そして、その方法を明らかにすることこそが、エスノメソドロジーと会話分析という学問が私たちに与えてくれる、特別な「眼鏡」なのです。

 私がこの第4編を執筆することになったもう一つの理由は、『ミスター・サンシャイン』の登場人物であるユジンとエシンの会話を通じて、表象主義とは何か、そしてその誤謬とは何かについて、読者のみなさんに読んでいただきたいという願いがあるからです。 先ほどの恋人たちの電話のように、ユジンとエシンの会話もまた、「情報の伝達」ではなく、「関係の実践」だからです。

5.説明できない奇跡――ユジンとエシンに聞いてみたら

 さて、想像してみてください。もしこの場面の後で、私たちがユジンとエシンに質問をしたとしたら、どうなるでしょうか。

「今の会話で、お二人はどうやって『ラブを始める』という行為を達成したのですか?」

ユジン:「えっと・・・なんとなく、自然な流れで・・・」
エシン:「確かに・・・特に何か意識していたわけではありませんが・・・」

「握手の場面で、エシンさんはなぜすぐに手を出さなかったのですか? そして、なぜあのタイミングで手を握ったのですか?」

エシン:「それは・・・ユジンが武器を持っていないという意味を説明してくれたので・・・何か、安心できるような気がして・・・」

「ユジンさん、なぜ『いつ手を離すのか』という質問に対して、あのような答え方をしたのですか?」

ユジン:「うーん・・・どうしてでしょうね。その瞬間、そう言うのが正しいと感じたというか・・・」

 不思議なことが起きています。 二人は見事に「ラブを始める」という前代未聞の社会的実践を達成しました。儒教的身分制度が厳格な朝鮮社会において、貴族の令嬢と元奴隷出身の男性が、西洋式の「ラブ」という概念を共有し、握手という身体的接触まで実現したのです。 しかし、当の本人たちは、自分たちがどうやってそれを達成したのか、説明できないのです。彼らはまるで水の中の魚のように、自分たちが泳いでいる方法を意識していないからです。

6.研究者たちの孤独な営み――百万個の顕微鏡

 ここで、エスノメソドロジーと会話分析の研究者たちが、どれほど途方もない仕事をしているのか、少し立ち止まって考えてみましょう。 彼らの仕事は、まるで次のようなものです。

 想像してください。あなたの目の前に、この世で最も美しい花が一輪、咲いています。その花は、朝日を浴びて輝き、微風に揺れ、繊細な香りを放っています。 あなたはその花を描写しようとします。でも、どんなに詩的な言葉を使っても、どんなに精密な観察をしても、その花の本当の姿を完全に捉えることはできません。 それでも、あなたは諦めません。百万個の顕微鏡を持ってきて、花びらの一つ一つ、雄しべの先端、花粉の粒子、細胞の構造、水分の流れ、光の反射・・・あらゆる角度から、あらゆる倍率で、観察し続けるのです。 エスノメソドロジーと会話分析の研究者たちが、日常会話に対してやっていることは、まさにこれなのです。

 ユジンとエシンの会話は、わずか数分の出来事です。でも、その数分の中に、信じられないほど複雑で、精緻で、美しい「方法の織物」が織り込まれているのです。 研究者たちは、この会話を何度も何度も再生します。一言一句を書き起こし、沈黙の長さを測り、声のトーンを分析し、視線の動きを追跡し、身体の姿勢を観察します。 そして、彼らは問い続けます。

「なぜエシンは『それで、次は何をすればいいのですか?』と尋ねたのか?」
「なぜユジンは『まず自己紹介から』と答えたのか?」
「なぜエシンは握手の意味を聞いた後、『気に入りました』と言ったのか?」
「なぜユジンは『あなたがその手に武器を持ちたいと思った時』という、あの詩的な答え方をしたのか?」

 これは、単なる好奇心ではありません。これは、人間が社会を作り上げる最も基本的なメカニズムを理解しようとする、科学的探求なのです。 そして、この仕事がどれほど骨の折れるものか、想像してみてください。 それはまるで、砂漠で一粒一粒の砂を数えるようなものです。 それはまるで、交響曲を聴きながら、各楽器の各音符を、すべて楽譜に書き起こすようなものです。 でも、彼らはそれをやるのです。なぜなら、その「一粒の砂」の中に、その「一つの音符」の中に、私たちが「社会」と呼ぶ壮大な現象の秘密が隠されているからです。

7.心の地図は存在しない――踊るダンサーのように

 さて、再び最初のテーマに戻りましょう。「表象主義」という幻想についてです。 先ほど私たちは、スマートフォンの通話を「宅配トラック」として誤解することが表象主義だと述べました。 多くの人は、人間の行動をこんな風に理解しています。 「まず、頭の中で考える(地図)。そして、その考えを言葉や行動で表現する(旅)」

 例えば、ユジンが「ラブをしましょう」と言った時、私たちはつい「ユジンは頭の中にすでに愛という完成された地図を持っていて、それを言葉として取り出し、表現したのだ」と考えてしまいます。

 しかし、これは幻想です。これを理解するために、「ダンサー」を比喩に使ってみましょう。 タンゴを踊る二人のダンサーを想像してください。彼らの動きは完璧に一致しています。しかし、彼らの頭の中に「3秒後に右足を45度に出す」といった詳細な地図(計画書)が入っているでしょうか? いいえ。もし地図を見ながら踊ろうとしたら、その瞬間、踊りは崩壊してしまうでしょう。 彼らは計画を実行しているのではなく、その瞬間瞬間、相手の動きに応答しながら、踊りを「創造」しているのです。

 ユジンとエシンも同じです。彼らはあらかじめ書かれた「ラブの台本」を持って出会ったわけではありません。「ラブをしましょう」という言葉は、頭の中の考えを取り出したのではなく、一緒に踊ろうという提案でした。そして、彼らが交わした眼差し、握手、問いと答えという具体的な「実践」を通じて初めて、「ラブ」という現実がその場で創り上げられたのです。

8.地図と旅のパラドックス――道は歩く者が創る

 私たちは、ジャズの演奏家たちが楽譜なしで音楽を創造するように、ユジンとエシンが会話を通じて「ラブ」を創造したことを見ました。ここで私たちは、もう一つの重要な比喩を通じて、表象主義の誤謬をさらに深く掘り下げる必要があります。それは、「地図」と「旅」の関係です。

 私たちは多くの場面で、こう考えがちです。 「まず地図がある。そして、旅行者はその地図に従って旅をする」 これが表象主義的な思考です。社会的ルールや規範(地図)が先に存在し、私たちはそれに従っているだけだという考え方です。

 しかし、実際の歴史上の探検家たちはどうだったでしょうか? 彼らは完全な地図を持って未知の海へ船出したのではありません。彼らは航海しながら、地図を描いていったのです。 新しい島を発見し、海流の流れを記録し、星の位置を確認しながら、少しずつ世界地図を完成させていったのです。

 ユジンとエシンは、「ラブ」という未知の海に船を出しました。二人とも、完全な地図は持っていませんでした。 ユジンはアメリカで「ラブ」について学んだかもしれません。でも、それは「十九世紀末の朝鮮で、貴族の令嬢と元奴隷出身のアメリカ軍人が『ラブ』をする」という、前代未聞の状況にぴったり当てはまる地図ではありませんでした。 エシンもまた、朝鮮の儒教的な男女関係については知っていましたが、西洋式の「ラブ」の地図は持っていませんでした。

 二人は、地図を持たずに、しかし恐れることなく一歩ずつ進みました。「次は何をすればいいのですか?」と問い、「握手」と答え、互いの手を握り合う。その具体的なプロセス(実践)を通じて初めて、二人だけの「ラブの地図」が描かれたのです。 頭の中の地図が行動を決めるのではありません。行動が地図を創り出すのです。これこそが、エスノメソドロジーが私たちに教えてくれる、コペルニクス的転回なのです。

9.言葉は道具ではなく「媒体」である

 表象主義が持つもう一つの大きな誤解は、「言葉は道具だ」という考え方です。まるで言葉が金槌やのこぎりのような道具で、私たちは頭の中にある「意味」という建物を建てるために、それを道具箱から取り出して使うのだ、と考えるのです。

 しかし、言葉は道具ではありません。言葉は「媒体(メディア)」なのです。 ピアニストを想像してください。ピアニストにとって、ピアノは単なる道具でしょうか? いいえ、ピアノは音楽が生まれる「媒体」です。 ピアニストは、「頭の中の音楽」をピアノで「再現」したり「コピー」したりするのではありません。鍵盤を押し、響き渡る音を聴き、その音に応答してまた次の鍵盤を押す、という循環的なプロセスの中で、音楽を「創造」するのです。ピアノがなければ、その音楽も存在し得ません。

 ユジンとエシンの会話も、これと同じです。 ユジンは「この手にはあなたを傷つける武器が入っていない」という言葉を、自分の平和的な心を伝達するための「道具」として使ったのではありません。 その言葉を口にすることで、そしてエシンがその言葉を聞き、理解することで、その瞬間、二人の間に「信頼」という現実が創造されたのです。言葉は心を運ぶ荷車ではなく、心が生まれる溶鉱炉なのです。

10.身体が先、心は後

 さらに言えば、私たちは「まず心があり、その後に身体が動く」という順序さえも疑ってみる必要があります。現代の認知科学や現象学は、しばしばそれが逆であることを証明しています。 「私たちは悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」 「私たちは楽しいから笑うのではない。笑うから楽しくなるのだ」というふうに。

 エシンがユジンの手を握った瞬間を振り返ってみましょう。 彼女は頭の中で「私はこの人を100%信頼する」という結論を完全に出した後で、手を伸ばしたのでしょうか? おそらく、そうではないでしょう。むしろ、震える手を差し出し、温かく荒れた彼の手を握りしめるという身体的行為(実践)を通じて、「ああ、私はこの人を信頼しているのだ」、「これがラブの始まりなのだ」という感情や意味が、事後的に、あるいは同時的に形成された可能性が高いのです。

 ユジンの詩的な答え、「あなたがその手に武器を持ちたいと思った時」という言葉もそうです。 これは予め用意された名台詞ではありません。エシンが「いつ手を離すのか」と尋ねる、その具体的で実践的な状況に直面した時、その場を打開し、関係を維持するために、即座に口をついて出た実践的応答でした。 「ラブ」は観念ではありません。「ラブ」は考えるものではなく、するもの(doing)なのです。

11.再帰性の迷宮――鏡の中の鏡

 さて、ここで話は少し面白く、そして眩暈めまいがするような方向へと進みます。 私は今、ユジンとエシンの会話を分析しています。彼らの「方法」を皆さんに説明しています。 ですが、待ってください。私自身も今、「執筆」という方法を使っているではありませんか?

 私は読者を説得するために比喩を使い、段落を構成し、論理的な順序を配置し、感動的な結論へと向かう「方法」を使っています。 これを、エスノメソドロジーでは「再帰性(Reflexivity)」と呼びます。 まるで鏡を持って鏡の前に立つようなものです。方法を研究する行為でさえ、また一つの方法を使う行為であるということ。「それでは終わりがないのではないか? 無限に後退してしまうのではないか?」と心配されるかもしれません。

 でも、大丈夫です。画家が絵筆の性質を研究するために絵筆を使うように、私たちは社会的な存在として、社会的な方法を使って、社会を探求するのです。 これは、研究者が社会の外にある高い塔の上から見下ろす神のような存在ではなく、研究者もまた人々の中で共に揉まれ、実践する存在であることを認める、極めて謙虚な態度なのです。

12.異星人の言葉? なぜ難しい専門用語を使うのか

 エスノメソドロジーや会話分析の本を開くと、「隣接対」、「遷移適正場所(TRP)」、「修復(リペア)」といった、馴染みのない異星人の言葉のような用語が飛び出してきます。「なぜ普通に『質問と答え』とか、『喋るタイミング』といった簡単な言葉で言わないんだ?」と不満に思うかもしれません。しかし、これには深い理由があるのです。

 豆腐を豆腐の包丁で切ることはできません。 日常言語は、あまりにも私たちの生活の中に深く根を下ろしているので、それで日常を分析しようとすると、包丁の刃がなまってしまうのです。 「二人はいい雰囲気で会話した」「エシンは自然に手を握った」。このような日常的な描写では、彼らが遂行した奇跡的な調整のメカニズムを、何ひとつ説明できません。

 専門用語は、私たちに「距離をとること」を可能にしてくれます。 「遷移適正場所(TRP)」という用語を使えば、私たちは会話中に相手がいつ話し終わるかを予測し、その0.1秒の隙間に入り込む人間の驚異的な能力を、客観的に見ることができるようになります。 それはまるで、登山家が滑りやすい氷の壁を登るために「ピッケル」という鋭利な道具を使うようなものです。専門用語は、日常の自明性という沼に沈まないための、研究者たちの命綱であり、ピッケルなのです。

 極めつけは、「なにげなさ(Doing being ordinary)」。ハーヴィ・サックスという天才的な研究者が残した言葉ですが、直訳すると「普通であること・をする」となります。

 私たちは、ただ普通にしているのではなく、一生懸命に、能動的に「普通の人」を演じているのだ、という意味です。「あえて何気なく振る舞う」という演技を、私たちは必死にやっているのです。

 これらの、舌を噛みそうな、あるいは角張った奇妙な言葉たち。 これらは決して、学者先生が知識をひけらかすためのジャーゴン(専門用語)ではありません。

 これらは、私たちが「当たり前だ」と思って見過ごしてしまう日常の沼に、研究者自身が引きずり込まれないようにするための、命綱であり、ピッケルなのです。 自明性の分厚い皮を切り裂き、その下にある精緻なメカニズムを解剖するためには、これくらい切れ味の鋭い、異質なメスが必要だったのです。

 エスノメソドロジーの歴史は、日常の魔法を解くための、この「新しい言葉」を研ぎ澄ませてきた歴史でもあるのです。

13.エピローグ――見えているのに気づかれないもの

 さて、長い旅を終える時が来ました。 深夜2時、あるいは3時。 世界のどこかで、恋人たちは「もう切らなきゃ」と言いながらも、電話を切ることができずにいます。 十九世紀末の朝鮮半島では、ユジンとエシンが「少なくとも、今ではないようです」と言って、手を離さずにいます。 そして二十一世紀の今、私たちはこの文章を通じて、彼らの会話をもう一度見つめています。

 私たちは皆、「日常の天才たち」です。 朝起きて家族と挨拶を交わし、満員電車で他人と適切な距離を保ち、コンビニで店員と言葉を交わす、そのすべての瞬間。私たちはユジンとエシンに負けない、いや、それ以上に複雑で精緻な社会的技術を、完璧に使いこなしています。

 ただ、私たちは水の中の魚のように、その事実を知らないだけなのです。 あまりにも当たり前で、あまりにも透明で、見えているのに気づかれない(seen but unnoticed)だけなのです。

 ユジンとエシンは、おそらく生涯を閉じるその瞬間まで、自分たちがそれほど偉大な「日常の天才」であったという事実に、気づくことはなかったでしょう。 もちろん、私がこう言ったからといって、彼らの知性を軽んじているわけでは決してありません。むしろ、その逆です。 考えてみてください。は生理科書をまなくても完璧に鼓動し、鳥は流体力ばなくても風にって空を飛びます。 彼らの飛行があまりにも完璧で、空気抵抗を計算する必要さえ感じないのと同じように、ユジンとエシンの社会的実践もまた、あまりにも自然で完璧であったがゆえに、意識の水面へと浮かび上がる隙さえなかったのです。

「日常」という名の深淵は、それほどまでに深く、遥かなものです。それはあまりにも透明で、その存在に気づき、それを水面へと引き上げることは、決して容易なことではありません。 だからこそ私は、この場を借りて、誰も見ようとしなかったこの透明な空気に名前を与え、粘り強くその深淵を探求し、私たちに提示してくれたエスノメソドロジーと会話分析の創始者たちに、改めて深い敬意を表さずにはいられません。

 ユジンは言いました。「ラブ、それをしましょう。私と。一緒に」。この言葉は、単なる愛の告白ではありません。それは、「日常という奇跡を一緒に創り上げていこう」という、私たちの生に向けられた永遠の招待状なのです。

 そして、この招待状は、十九世紀朝鮮の二人だけに有効なものではありません。 冒頭で出会った、深夜のスマトフォンを熱くさせながら、なかなか電話を切ることができなかった現代のあの人たちのもとにも、同じように届いているのです。

「もう切ろう」と言いながらも切らない彼らの躊躇い、その間に流れる沈黙、「まだいる?」と尋ねる声の震え。 これらは単なる時間の浪費ではありません。それは、ユジンとエシンが慎重に手を握り合い、揺らしたあの握手と同じくらい、いや、それ以上に熾烈で繊細に「共に在ること」を調整する、現代版「ラブ」の実践なのです。 道具は変わっても、他者と繋がろうとする人間の身振りは、時空を超えてこれほどまでに変わることなく、そして涙ぐましいほど美しく、受け継がれているのです。

 地図のない海を航海すること。 楽譜のない演奏を共にすること。 相手の手を握り、その温もりの中で信頼を創造すること。

 エスノメソドロジーという「魔法の眼鏡」をかけて、あなたの一日をもう一度眺めてみてください。 当たり前だと思っていたことが、奇跡に見えてくるはずです。 家族の何気ない挨拶、友人のメッセージ一つが、どれほど精緻な配慮と技術で織り上げられた織物なのか、気づくことになるでしょう。

 「ラブをしようぜ」。日常の奇跡を、一緒に発見しましょう。 これこそが、エスノメソドロジーからあなたへ送る、終わることのないラブレターなのです。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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